第5話

 列車に揺られて数時間。急に減速し、やがて停車した。窓の外に広がるのは、寂れた山間の風景。しばらくして、車内にアナウンスが響いた。


 「お客様にご案内いたします。現在、前方の線路が予期せぬ土砂崩れにより塞がれております。このまま列車は引き返します。お急ぎのお客様にはご迷惑をおかけいたしますが、ご了承のほどお願い申し上げます」


 乗客たちがざわめき始める中、皓はふと窓の外に目をやった。降り立ったことのない土地への興味が、胸の奥にじわりと湧いてきた。この機会を逃せば、二度と訪れることはないかもしれない場所――そんな気がしてならなかった。


「このまま引き返すのか……」


 皓は一瞬、迷うように視線を巡らせたが、すぐに決心を固めた。荷物を持ち上げ、立ち上がる。駅員に確認し、ここで降りても大丈夫だと言われると、彼は迷いなく列車の外に足を踏み出した。

 駅と呼ぶにはあまりにも小さく、無人のホームにはかすかな風が吹き抜けるだけだ。周囲を見渡すと、遠くに小さな村が見える。目的地でもなく、誰かに待たれているわけでもない。だが、その村の寂寥とした風景が、なぜか彼を引き寄せていた。


「どうせなら、この村に行ってみようか」


 皓は自分に言い聞かせるように呟き、村に続く道を歩き始めた。坂を下るごとに、寂れた村の輪郭が徐々に浮かび上がった。しかし、近づくにつれ、その村のどこか荒廃した雰囲気に気づかずにはいられなかった。畑は雑草に覆われ、家々は薄暗く、活気が感じられない。山間部の冷たい風が容赦なく吹き抜け、空は薄灰色に覆われている。遠くに見える畑はところどころ雑草に覆われ、手入れの行き届いていない様子が窺える。


「……灯りが不足しているのか」


 皓は足を止め、周囲を観察した。遠くの燈塔もわずかに光を放っているだけで、村を照らし出すには心もとない。その陰鬱な雰囲気に、彼は一瞬、踏み込むことにためらいを感じたが、すぐに足を進めた。旅を続けてきた中で、こうした荒れた土地を見るのもまた学びだろう。

 皓は背負っていた荷物を軽く持ち直し、辺りを見渡した。村の入り口に立つ古びた看板には、かつての栄えた村の名残が描かれているが、今では色あせてほとんど判別がつかない。村の奥に進むにつれ、燈塔の明かりもほとんど消えていることに気がついた。昼間にも関わらず、どこか薄暗い雰囲気が村全体を包んでいる。

 足音を立てないように歩きつつ、皓は村人の生活の様子を観察していた。村人たちは顔を伏せ、無言で行き交う。話し声も笑い声も聞こえない。まるで村全体が、息を潜めているかのようだ。彼が近くの家の前を通りかかると、ドアがかすかに開いて、一人の年配の女性が顔を覗かせた。目が合うと、警戒するようにすぐにドアを閉めてしまう。


「何があったんだろう……」


 皓は不安と好奇心が入り混じった気持ちで、村の中心へと向かった。村の中央には、かつて人々が集い語り合っていたであろう広場がある。だが今は、人影一つ見当たらない。ぽつんと佇む燈塔も、その灯りがかすかに揺れるだけで、村を照らし出すにはほど遠い力しかない。

 ふと、彼は背後からの視線を感じた。振り返ると、数人の村人が遠巻きに彼を見つめている。まるで「何者だ」と言わんばかりの冷ややかな視線に、皓は思わず背筋を伸ばした。


「旅人か」


 低く、鋭い声が響いた。振り返ると、年配の男性が皓の前に立っていた。その姿は痩せ細り、粗末な服に身を包んでいるが、その目は何かを抱えているかのように暗く、重い。


「あ……はい、太刀花皓と申します。列車が止まってしまいまして……」

「そうか……」


 年配の男性は皓をじっと見つめたまま、小さくうなずいた。その視線には、疑いとわずかな興味が入り混じっているように見えた。


「この村に来たのも、何かの縁かもしれんが……すまんが、あまり関わらないほうがいい。ここは今、あまりに良い状態とは言えないんでな」


 そう言って、彼は村の薄暗い燈塔に目を向けた。村の現状が少しずつ見えてくる。


「灯りが不足しているのは見ての通りだが、ただそれだけじゃない。村には、もう活気も希望も残っておらんのだ。外から来た人間が手を差し伸べたところで、何も変わらんさ」


 皓はその言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐに反論したくなる気持ちが湧き上がる。だが、目の前の村人の疲れた顔を見て、その言葉を飲み込む。彼はこの村で長く暮らし、苦労を重ねてきた人なのだろう。そんな人の前で軽々しく理想を語ることは、かえって失礼に思えた。


「それでも……。仰るとおりせっかくのご縁ですから、滞在させていただいて、村の様子をもっと知りたいと思います」


 皓の真摯な言葉に、年配の男性は驚いたように目を細めたが、すぐに無表情に戻り、視線をそらした。「関わらない方がいい」と言いながらも、年配の男性はふと考え込むように皓を見つめ、その表情にわずかな変化が見られた。おそらく、村の外からやってきた彼に、村の現状について何かを伝えるべきか迷っているのだろう。


「……ま、外から来たなら、無理もないか。詳しいことが知りたければ、役場に行くといい。もっとも、大した案内も期待はできんがな」


 そう言い残して、男性は再び背を向け、足早に去っていった。彼の言葉には、明らかな警戒心と、どこか達観したような冷たさが感じられた。しかしその一方で、村に何が起こっているのかを知ってほしいというわずかな期待も込められているように思えた。


「役場か……」


 皓は小さく呟き、薄らぼけた案内板を頼りに足を進めることにした。役場ならば、村の状況や人々の生活についてもう少し詳しく知ることができるかもしれない。村の荒廃した風景を横目に、彼は石畳の道を歩き、静かに佇む役場の建物を目指して進んでいった。

 やがて、小さな木造の建物が見えてきた。役場と言うには古びていて、周囲の陰鬱な空気に溶け込んでいる。そこからも、村が抱える深い暗闇と、人々の中に染みついた諦めの気配を感じ取った。皓はその玄関口に立ち、少し緊張しながら扉を押し開けた。


「……何か、できることがあるはずだ」


 役場の中に入ると、薄暗い照明の下で数人の職員が黙々と書類を処理していた。古びた木の机や棚が並び、空気には少し湿った土の匂いが漂っている。目を凝らすと、奥に一人の初老の職員が椅子に座り、書類に目を通しているのが見えた。

 皓が近づくと、初老の男性が顔を上げ、驚いたように皓を見つめた。その視線には不審と興味が混じっていたが、すぐに無表情に戻り、冷静な声で問いかけた。


「お前さん、どこの人だね? こんな場所に何の用があって来た?」

「太刀花皓と申します。たまたま列車が止まってしまいまして……少し村の様子を見せていただければと思い、立ち寄らせていただきました」


 男性は眉をひそめ、しばらく皓を観察するように見つめた。やがてため息をつき、ゆっくりと頭を振った。


「そうか、わざわざこんなところに……だが、この村は今、外からの人間には何も見せるものがないよ。灯りも食糧も足りず、皆がただ耐えているだけだ。何かを期待して来たのなら、それは無駄なことだ」


 皓はその言葉に少し胸が痛んだが、同時に心の奥で反発する気持ちも湧き上がった。彼は慎重に言葉を選びながら、問いかけた。


「村の灯りが不足しているのは……何か理由があるのでしょうか? 何かお手伝いできることがあれば、協力させていただきたいと思っています」


 男性は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに険しい表情に戻り、苦い笑みを浮かべた。


「灯りが不足しているのは、最近始まったことじゃない。山の気候が変わり、作物の育ちも悪くなって、燈塔も古くて今や役立たない代物さ。お前さん一人が来たところで、どうにもならんのだよ」


 その冷たい現実を突きつけられても、皓は諦める気持ちにはなれなかった。村の暗さと荒廃した景色、そしてその中で耐え忍ぶ人々の姿が、彼の心に深く刻まれていた。そして、自分が何もできないまま立ち去ることが、どうしてもできないと思えた。


「それでも……何かできることがあるかもしれません。少しの間、この村に滞在させていただけないでしょうか」


 職員はしばらくの間、皓をじっと見つめていたが、やがて小さく首を振る。


「だいぶ寂れているうえに何もかもが不足しているからな。外から来た人への、満足な滞在場所もない」

「そうなのですか……」


 皓は少し肩を落とし、途方に暮れたように周りを見回した。

 それを見た職員は、やや面倒くさそうに眉をひそめながらも、「仕方ないな」といった様子で椅子から立ち上がった。


「もし泊まる場所が必要なら、村外れにある使われていない建屋が一つある。長い間放置されているから不便だが、屋根と壁はまだしっかりしているはずだ。滞在するなら、そこを使うといい」


 職員の声からは、他人行儀な冷たさが感じられたが、最低限の助力はしてもらえそうだった。皓は感謝の意を表し、「お世話になります」と一礼した。

 

 その後、職員に案内されて村外れの建物にたどり着くと、そこはかつて誰かが住んでいたであろうが、今は朽ちかけている小さな家だった。木の扉を開けると、中には古い家具がわずかに残っているだけで、埃が積もり、ひんやりとした空気が漂っている。窓から差し込むわずかな光が、薄暗い室内をぼんやりと照らしていた。


「ここなら何とか雨風はしのげる。食事については……自分で何とかしてもらうしかない。余裕があれば手を貸せるかもしれんが、あまり期待はしないでくれ」


 職員はそれだけ告げると、背を向けて帰っていった。その態度からは、村人としての諦めや、外部の人間に対する警戒が垣間見える。皓はひとりその建屋に立ち尽くしながら、この地で感じた寂しさと共に、自分にできることを考え始めた。

 埃っぽい空気に軽く咳払いをしながら、皓は荷物を下ろす。何もないわけではないが、長く人が訪れていない場所に立つのは経験のないことだった。

 ふと、彼は背負っていた荷物から陽菜が旅立ちの時に手渡してくれた小さな包みを取り出した。


「……まだ、残しておいてよかったな」


 包みを開けると、カタツで味わったお菓子が顔を覗かせた。


『甘いものを食べると、元気が出ますよ』


 陽菜の声が柔らかに蘇る。甘い香りが漂い、少し疲れた心を和らげるように感じられる。皓は一口かじり、口の中に広がる優しい甘さに目を細めた。これは陽菜が、彼を思って選んでくれたものだ。彼女の明るい笑顔と、温かい言葉が自然と蘇る。


「ありがとう、陽菜さん……」


 ひとり呟きながら、皓は改めてこの地で自分が何ができるかを考え直す。きっとこの村も、初めから困窮していたわけではない。かつてカタツと同じように、人々が支え合い、共に生活してきた場所だったはずだ。今は荒れてしまったが、まだ希望を取り戻せるかもしれない。陽菜が支えてくれたように、自分も何かできるはずだ――心の奥底から力が湧いてくる。

 勇気と少しの元気を取り戻した皓は、荷物を置いて建屋の外に出た。冷たい風が吹き抜ける中、彼の心には静かな決意が芽生えていた。


「よし……やってみよう」


 再び村の中央へと向かいながら、皓は役場で聞いた村の問題点を思い返した。灯りの不足、老朽化した設備、そして人々の諦めたような表情。これらの問題にどう立ち向かうべきか、解決の糸口を探し始めた。


 ◆ ◆ ◆

 

 まず、村の中を歩き回り、いくつかの家や施設を訪ねることにした。彼は村人たちに話しかけ、困っていることや助けが必要なことを丁寧に尋ねていく。最初は冷たい反応も多かったが、少しずつ皓の真剣な態度が伝わり、何人かは僅かに心のうちを語った。


「……灯りがあれば、もっと子供たちも夜に安心して眠れるのに。獣が出るのよ」

「今では燃料も手に入らなくてな。村がこうなってからは、何もかもが不足している」

「冷えるでしょう。収穫が落ちてから村の燈塔もすっかりさびれてね……」


 人々の不安や不満が、皓の耳に次々と届く。彼はその言葉に耳を傾けながら、少しでも彼らが前向きな気持ちを取り戻せるよう、できることを考え続けた。


「まずは、小さなことから始めてみよう」


 村で使える資材や自然の恵みを利用し、まずは何らかの光源を確保することが最初の目標だ。そう決めた皓は、少しずつ村の中で行動を開始すると決めた。


 皓はいくつかの荷物を持ち、再び役場へ向かっていた。燈塔の確認について職員に相談するためだ。村人たちの生活にとって重要な施設である燈塔に手を入れるには、正式な許可が必要だと考えたからだ。

 役場に到着し、再び初老の職員に声をかける。


「すみません、燈塔の状態を確認させていただきたいと思いまして。この村の灯りが不足しているのは、村全体に大きな影響を与えていると理解しました。何か改善の余地があるかどうか、見させていただけませんか?」


 職員は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに深いため息をつき、少し思案するように皓を見つめた。


「燈塔の確認か……あそこは長年放置されていて、今や誰も近づかん場所だ。直せるものなら直してみたいものだが、そう簡単な話じゃない」


 職員は鋭い視線を皓に向け、少し値踏みするように問いかけた。


「灯りのことにどれだけ詳しいんだ? ただの旅人にしては妙にこの村のことを気にしているようだが……まさか、何か企んでいるわけじゃないだろうな?」

「いえ、そんなつもりはありません。ただ、いろいろな灯りの技術を見聞きしてきたもので、少しでもお役に立てればと」


 皓は冷静に返答しつつ、村の状況が気になり、自分にできることを考えていると伝えた。その様子を見て、職員はさらに問いを重ねる。


「たとえば、燈塔がどんな構造になっているか、どれくらい知っているんだ? この村人でも、そんなものに触れる機会はほとんどない。よそから来たお前さんが分かるのか?」


 皓は少し考え、慎重に答えた。


「この村に合わせるための律調を行うのが本来はいいでしょう。しかし、おそらくですが律燈技術は組み込まれてはいないと思っています。なので民間での調整は難しく、灯火守がすべきことでしょう。ですが、燈塔には、灯を増幅する仕組みが組み込まれているはずです。多くの村では、燈石や反射板などを用いて、少ない光でも広範囲に照らす工夫がされています。もし光源が古びているなら、まずはそれを取り替える必要があるでしょうし、反射板が傷んでいる場合は清掃や調整も効果があるかと」


 職員はその答えを聞きながら、興味深げに皓を観察していた。やがて、ほんの少しだけ表情を緩め、厳しいながらも納得した様子でうなずいた。


「ふむ、どうやら口先だけではなさそうだな。まあ、お前さんが本当に役に立つかどうかは、見てみないことにはわからんが……」


 ふと、職員の視線が皓の胸元にある首飾りへと向けられた。その赤い石が放つ光に気づき、職員の目が鋭く光る。


「その石……なかなか良い光を放っているじゃないか。それも、燈石の一種か?」


 職員の視線には、資源に手を伸ばそうとする意図が込められていた。皓は一瞬たじろいだが、すぐに冷静を取り戻し、首飾りをそっと握りしめた。これは彼にとって煇との繋がりを象徴する大切なものであり、その想いをどう言葉にしても、この村の現実の前には無力に思えた。


「これは、私にとって大事なもので……できれば、使わずに何か別の方法を試したいと思っています」


 そう告げる皓の声には、決意と共に僅かな不安が滲んでいた。しかし職員は顔色一つ変えず、彼の言葉を無情に遮った。


「こちらにとって大事なのは、村が少しでも明るくなることだ。外から来た人間にとっては取るに足らないものでも、村の者には命に関わる。あんたにできることは他にあるのか?」


 職員の言葉には、長い苦難を背負ってきた者の冷徹な現実感が表れていた。皓は反論しようとするが、言葉が喉で詰まる。

 一瞬、心の中で煇の顔が浮かぶ。彼がくれたこの石は、何かを成し遂げるための助けになるように、と託されたものだ。皓は深く息を吸い、職員を真っ直ぐに見つめて言った。


「今はまだ使いません。ですが、もし本当に必要な時が来れば、私自身でこの石を使います。その時が来るまで、他の方法を試させてください」


 職員は眉頭を釣り上げ、ため息をついた。皓の目には揺るぎない決意があり、その強さに職員も少し考え込んだ末、渋々ながらも無言で小さくうなずいた。


「……わかった。だが、時間は限られている。何もできないままでは、あんたも滞在できないだろうからな」


 言葉は冷たいが、その奥にはわずかな期待が含まれているようにも思えた。皓は小さく礼をして、村の燈塔の確認に向かうため、足早にその場を離れた。


 ◆ ◆ ◆


 燈塔へ向かう道は、村の中央からさらに奥へと続いていた。皓の隣には役場の初老の職員が足早に歩いている。無言で先を進む職員の背中からは、長年村の現状に向き合ってきた者の重みと、外部から来た皓に対する微かな疑念が感じられた。


「ここが燈塔だ」


 職員が低い声で告げると、目の前に現れたのは、かつての栄光を思わせる立派な造りの塔だった。しかし、表面にはひびが入り、苔がびっしりと覆っている。塔の頂上は曇った空を背景に、寂しげにそびえていた。


「しばらく誰も手をつけていないんだな……」


 皓は静かに呟きながら周囲を観察した。塔の基礎部分は頑丈そうだが、設備の老朽化は一目でわかる。近づいてみると、塔の周囲には割れたガラス片や錆びた金具が散らばっていた。


「これが今の村の現実だ。役に立たない燈塔に手を入れる余裕なんて、どこにもない」


 職員が短く言葉を吐き捨てるように言う。皓はその言葉を受け流さず、慎重に塔を観察しながら内側へと進むと決める。塔の入り口には、朽ちかけた木製の扉がある。職員が先に手を伸ばし、力を込めて扉を押し開けた。軋む音と共に現れた内部は、長年の放置を物語る薄暗い空間だった。


「中はもっと酷いぞ。あんた、本当に何とかできると思ってるのか?」


 職員が皮肉混じりに問いかけるが、皓はその言葉に動じず、内部を覗き込んだ。塔の中央には螺旋状の階段が伸びており、上部に続いている。壁面は湿気で黒ずみ、天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。


「とにかく、頂上まで行ってみます。状態を確認してからじゃないと、何も始まりませんから」


 皓の毅然とした態度にため息をつきつつも、職員は後を追った。

 頂上にたどり着くと、そこには光源装置らしきものが鎮座していた。律燈技術はおろか、古典的な魔導技術もない。それはひどく損傷しており、かつての形状すら判別が難しいほどだった。中心にある燈石はくすんだ灰色で、かすかな輝きも見えない。


「……こりゃ使い物にならんかもしれんな」


 職員が呟く声には、どこか投げやりな響きがあった。皓は膝をつき、慎重にその燈石に触れてみた。冷たい感触と共に、微弱ながらも燈力の残滓を感じる。


「完全に駄目にはなってないです。かすかに反応があります。この燈石に燈力が少しでも蓄えられれば……」


 皓がそう言うと、職員は目を細めて皓を見つめた。


「簡単に言うがな……村には新しい燈石を入れる金も人手もない。それに、周囲の構造もこの通りだ。仮に光源をどうにかしたところで、塔自体がもう使い物にならん」


 皓は職員の言葉を真摯に受け止めながらも、塔全体を見渡し、小さな工夫で何とかなる部分がないかを探し続けた。


「確かに、これでは光を広げるどころか、最低限の明るさを維持するのも難しそうですね。まずは手をつけられる部分から始めましょう」


 皓はそう言いながら、基礎部分――特に反射板の状態を確認した。反射板の表面には何年も溜まった埃や錆びがこびりついているが、完全に壊れているわけではない。


「幸い、反射板自体は使える状態です。これを磨いて反射効率を高める必要があります」


 皓は周囲を見回し、役立ちそうなものを探したが、燈塔の内部にはほとんど何も残されていなかった。仕方なく、建屋にあった布や外に落ちていた木の実を取り出し、即席の研磨剤を作り出した。


「……どこで見つけたんだ、それは」

「案内いただいた建屋の中です。あらかじめ、使えそうなものを持ってきました」

「本当にそんなもので効果が出るのか?」


 職員は半信半疑のまま皓の動きを見守っている。皓は木の実を潰し、滲み出た油を布に染み込ませながら答えた。


「すぐに目に見える変化が出るとは限りません。でも、小さな改善の積み重ねが、やがて大きな違いを生むはずです」


 皓は丁寧に反射板を磨き始めた。布で表面を擦るたびに、少しずつだが本来の輝きが戻り始める。その様子を見た職員は、少し驚いた表情を浮かべながらも黙って見守っていた。

 やがて反射板の表面がある程度整えられたところで、皓はふと立ち止まった。次は光源そのものを確認する必要がある。しかし、村の資源が乏しい中で何か新しいものを投入するのは現実的ではない。


「光源についても、今あるものを活かすしかありませんね。このままでは役割を果たしきれないでしょう……」


 皓は考えながら、研磨のために搾った木の実に目を向けた。どうやらこの村の山間部に自生する木の実には、ごく微量ながら燈力が含まれているらしい。土地の燈力が低いのではなく、極端にバランスが悪い可能性がある。自然の中にある資源を適切に扱えば、一時的にでも光源を補う手段になるかもしれない。


「これを使って、光源を補強してみます」

「木の実を……灯りにする? そんな話、聞いたことがないぞ」



 職員は驚きを隠せない様子だったが、皓は自信を持って説明を続けた。


「直接燃やすわけではありません。この実に含まれる燈力を利用して、光を増幅する形です。村の資源を消耗しない範囲で試してみます」


 皓は木の実をいくつか手に取り、それを小さく砕いて燈石の周囲に配置した。木の実から滲み出た油が微弱な光を放ち始め、まるで燈石と共鳴するかのようにかすかな輝きを帯びた。


「……これは?」


 職員が興味深そうに覗き込む中、皓は慎重に調整を重ねながら答えた。


「燈石に残る微かな力を活かして、反射板と組み合わせれば、……何とか村の中心部くらいは照らすことができるはずです」


 皓は慎重に木の実を配置し終えると、反射板の調整を続けた。反射板が光を受けて少しずつ輝きを広げていく様子に、職員も思わず息を呑んだ。


「……これで、少しでも明るくなるなら助かるんだがな」

「ええ、きっと。ただ、これが持続する保証はありません。あくまで一時的な措置です。根本的な解決を目指しつつ、次の段階では、さらに効率的な方法を考える必要があります」


 職員は少し黙り込んだが、やがて小さくうなずいた。その目には、わずかな期待と同時に、慎重さが宿っている。


「わかった。しばらく様子を見よう。ただ、村の者たちがこれで満足するとは思えない。下手に期待させてぬか喜びさせたら、お前さんへの風当たりも強くなるだろう」

「承知しています。それでも、まずはできることをやります」


 皓は力強く答え、次の計画に思いを巡らせた。この小さな改善が、村の生活にどれほどの変化をもたらすのか。彼の挑戦は、始まったばかりだった。


 ◆ ◆ ◆


 燈塔の作業を終えた皓は、広場の隅に腰を下ろし、一息ついていた。空は既に薄暗くなり、冷たい風が頬を撫で、村全体の静けさが胸にしみ込むようだった。先ほどまで立ち会っていた初老の職員もその場に残り、何か考え込むような顔をしている。

 ふと、皓は背後で微かな足音を聞いた。振り返ると、村人たちがちらほらと広場に集まってくるのが見えた。少し離れたところから様子を伺うようにしている者もいれば、直接近づいてくる者もいた。彼らの顔にはまだ警戒の色が残っているが、それ以上に「何かが変わるのではないか」という期待が微かに滲んでいる。


「なんだか久しぶりに……、広場に人が集まったな……」


 職員が呟くと、それを聞いた皓も周囲を見渡した。村人たちは、少しずつ、しかし確かに広場の中央へと集まりつつあった。


「よかったら、少しここで休んでいきませんか?」


 皓が静かに声をかけると、最初は何人かが戸惑いながら視線を交わす。しかし、近くにいた中年の女性が「ちょうどこれがあるから……」と古びた籠を取り出し、中に入った保存食を広げ始めた。


「これしかないけど……乾燥した根菜と豆だよ」


 彼女の声に他の村人たちも呼応するように、自宅から持ってきたらしい僅かな食材を出し始めた。


「みなさん、ありがとうございます。それなら、僕も旅の途中で持っていたものを……」


 皓は荷物の中から、カタツの住人から分けてもらった干し魚や干し茸を取り出した。名産でもあった燈力をわずかに帯びた香辛料も加える。


「こんな貴重なものを……いいのかい?」


 誰かが問うと、皓は穏やかに笑って答えた。


「今ここで食べるほうが、ずっと価値がありますから。一緒にスープを作りませんか?」


 皓は、村人たちが持ち寄った材料を見回しながら提案する。


「この豆はきっと食べ応えが出ますね。燈力のある木の実を少し砕いて、香りを引き出しましょう。そして、この乾燥した根菜は細かく切って、一緒に煮込むといい味が出ますよ」


 彼の言葉に、村人たちは徐々に動き始めた。それぞれが料理に必要な作業を分担し、広場の一角で簡単な焚火が起こされる。


 スープが煮立つ頃には、周囲にやわらかい香りが広がり始めた。匂いを嗅ぎつけた子どもたちが嬉しそうに近寄り、大人たちの緊張した表情も少しずつ和らいでいく。


「こんなにいい香り、久しぶりだね……」


 誰かが小さく呟いた。皓はその言葉を聞き、心の中で安堵する。この瞬間だけでも、村人たちに少しでも温かさを届けられたなら――それが彼の願いだった。

 スープが出来上がると、皓は自ら率先して皿を配った。焚火の周りに座った村人たちは、ぎこちないながらも少しずつ言葉を交わし始めた。


「こんな風に集まるの、いつ以来だろう……」

「このスープ、なんだか懐かしい味だな」


 村人たちの会話がぽつぽつと広がる中、皓も一緒にスープを飲みながら耳を傾けた。


「燈塔も少しは明るくなったし、この村もまだ捨てたもんじゃないかもしれないな」


 初老の職員がぽつりと呟く。その言葉に周囲の村人たちがうなずくのを見て、皓の胸には小さな安堵と希望が芽生えた。


「この村が明るくなる日は、必ず来ますよ」


 皓の静かな言葉に、村人たちは短いながらも笑顔を返した。その笑顔は、確かにほんの少しではあるが、希望の光を映していた。


 広場で食事を囲むうちに、次第に村人たちとの距離が縮まっていった。焚火の暖かい光が、これまで陰鬱だった村の雰囲気を少しだけ和らげているように感じられる。


「……あんた、太刀花皓って言ったね」


 初老の職員が、皓の名前を確認するように口を開いた。


「俺は南部という家の出の満佐次まさつぐだ。この役場の仕事をまとめてるが、今はまあ、見る通り荒れ放題だ」

「満佐次さん、ありがとうございます。僕は旅人ですが、少しでも村のために役立てればと思っています」


 皓は礼を述べ、周囲を見渡した。村人たちも、それぞれ簡単に自己紹介をし始める。

「私は花村の治恵子ちえこです。ここの暮らしも長いけど、最近はもう、毎日が精一杯でね……」

「俺は石井のげん。炭焼き仕事をしてたけど、山の資源も乏しくなって、最近はろくに働けてない。体力だけは自信あるけどな」

「私は渦奈かな。近隣の村に行く商いをしてたけど、道が通れなくなってからこっちもさっぱりよ……線路も塞がっちゃうとか、運がないわ」


 皓はそれぞれの声に耳を傾けながら、この村が抱える問題の多さを痛感した。山の資源不足や孤立の影響が、村人たちの生活をじわじわと追い詰めている……。


「そういえば、あんた、灯火守みたいなこともできるんじゃないか?」


 源が皓に問いかけた。その言葉に、周囲の村人たちも興味を示し始める。


「灯火守……ではないんです。でも、試験の勉強をしていた時期があったので、多少の知識はあります」


 皓は少し言い淀みながらも正直に答えた。すると、満佐次が深くため息をつきながら言った。


「灯火守か……この村にはもう何年も来ちゃいないよ。かつては山の向こうから灯火守が訪れてくれたものだがな」

「前に来てくれたのはいつだったかね……もう十年以上前になるかしら。その頃は燈塔もちゃんと明るかったし、村にももう少し活気があったんだけどね」


 治恵子がその言葉に続けた。満佐次が、焚火の火を見つめながら話を続ける。


「この村が見捨てられたんだろうよ。山奥の小さな村だし、灯火守も忙しいんだろうさ。今じゃ自力でやっていくしかないが、手が足りないのが現実だ」


 皓は、彼らの話を静かに聞きながら、自分がここに来た意味を考えた。――灯火守の役目が行き届かなくなった村……そういう現実の目の当たりにして、言いようのないもどかしさが募る。


「でもまあ、あんたみたいな人が来てくれるなんて、ちょっとした奇跡かもしれないよ」


 渦奈がほっとしたように笑いながら言った。その言葉に、治恵子や源も「そうだな」とうなずく。


「俺たちだって、ここでじっとしているだけじゃ何も変わらんとは分かってるんだ。ただ、どうにも手立てが見つからない」


 源が呟くように言うと、満佐次が「村を守るのは村人自身だがな」と、どこか自嘲気味に付け加えた。


「それでも、まだできることがあるかもしれません」


 皓は焚火の火を見つめながら静かに言った。


「燈塔の光を少しでも取り戻せば、この村の暗さも少しは和らぐはずです。そして、その先に何ができるのか、出来る限り力になります」


 その言葉に、村人たちの表情がほんの少しだけ和らぐのが分かった。皓の中にも、小さな希望の灯が灯る。彼がここに来たことで何かが変わるかもしれない――そんな予感を胸に抱きながら、皓は村人たちと共にこの夜を過ごした。

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