第2話
薄暗い始発駅の構内には、人影がまばらで、朝の冷たい空気が肌を刺すようだった。空はまだ青みがかっているが、東の空がほんのりと明るみを帯び、夜明けが近づいているのがわかる。燈塔は静かに聳え立ち、始まりを待つように駅全体を照らし出していた。
中央には、時間の流れを見守るように、精緻な装飾が施された巨大な銅製の時計が鎮座している。周囲は、人々が様々な装束を身に纏い、喧騒と共に行き交っていた。通勤服に身を包んだ大人たち、異国の行商者、旅立つ僧侶の姿も混ざっており、彼らの持つ装飾品や髪型がこの世界の多様な文化を映し出していた。
皓は、そんな人混みの中に自分を紛れ込ませながら、どこか孤独を感じていた。胸の中には、これからどこへ向かうのかという不安が小さく揺れているが、それでも足は止まらない。周囲の喧騒がどこか遠くに感じられ、駅構内の案内板が目に飛び込んできた。
広い構内には、いくつもの路線が交差し、行き先を示す案内板が至る所に掲げられている。行き先はどれも見慣れた名前ばかりだが、皓にとってはどこへ向かうべきかの指針にはならない。ただ、一番早く出発する列車を選ぶと決めていた。
「列車は……あれか」
ホームに入ってくるのは古めかしい車両。白と灰色の車体が風化しているように見えたが、それでも皓にとっては、この旅の始まりに相応しいと感じた。列車に乗り込むと、すでにいくつかの席は埋まっていたが、窓際の席は空いていた。荷物を網棚に載せて、彼は静かに息をついた。
列車が滑るように走り出すと、車窓から空が徐々に明るくなり始めた。最初はわずかに見えた光が、やがて空を薄紅色に染め、町のビル群や家々が朝の光に照らされ始める。薄暗かった風景が少しずつ色を取り戻し、皓の胸に静かに湧き上がる希望を映し出すかのようだった。町のビル群がゆっくりと後ろに遠ざかり、代わりに小さな家々が広がる景色に移り変わっていく。窓の外を流れる景色は、まるで彼の心情を映し出しているように、ゆったりとした流れを保ちながらも、どこか切なさを携えていた。
「どこに向かってるんだろうな、俺は……」
皓はポツリとつぶやきながら、窓の外を見つめ続けた。
長いトンネルを抜けた後、車窓から見える山々は、薄霧に包まれながらその存在感を増していた。遠くには、燈塔に似た形の古い建物が、小さな村の中心に佇んでいるのが見える。皓の心の中に、一瞬だけ郷愁の念がよぎった。
今はただ、自分の足で前に進むしかない。心の中で、灯火守になる夢を追いかけ続けたことが、ほんの少し遠ざかっていく感覚がある。技術や知識には自信があった。だが……適性で選ばれなかった。そして今は、道を見失っている――。その先の答えが見つからないのならば、見知らぬ環境に身を置いて、自分を知るところから始める他ないはずだ。
しばらくして、窓の外に次の駅が見えた。停車駅らしいが、皓はすぐには降りず、もう少しだけこの列車の揺れの中で心を整理したいと考えていた。
「……どこに行こうか」
そんな問いが頭の中を巡るが、それでも列車は確実に進んでいく。都市から離れ始めるにつれ、彼は自分の灯を見つけるための旅を、本当に始めたのだという実感が少しずつ湧き上がってきた。
◆ ◆ ◆
何度か駅に停車して、発信する。今回の駅でもまだ皓は降りずにいた。列車のドアが静かに閉まり、動き出す音が皓の耳に届いた。 車窓の外には、都市の景色がすっかりなくなり、皓は自然の変わりゆく風景をぼんやりと眺めていた。車内は静かで、乗客もまばらだ。陽が高くなるにつれて、車窓からは緑の田畑一面の景色が続いている。車内には朝日が柔らかく差し込み、皓は静かに目を閉じて、その暖かさを感じながらこれからの旅路に思いを巡らせた。外の景色はゆったりとした流れを保ち、彼の心に少しずつ安らぎをもたらしていく。
ぼんやりと煇さんの姿が頭に浮かんだ。あの人は――いつも自分の仕事に誇りを持ち、その眼差しはどこか遠くを見据えているようだった。かつて、彼の背中を追いかけていた頃、その凛とした姿は皓にとって「灯火守」としての理想そのものだった。何かを守るために生き、技術や知識を惜しまず注ぎ込み、時に無言のまま燈塔に向かって手を合わせることさえあった。
「煇さんはいつも灯火守としての自分に誇りを持っていた……」
そんな煇さんの影響を受けたからこそ、皓は自分もいつかあの背中に追いつきたいと願い、灯火守を目指した。しかし今、その道が閉ざされてしまったことで、煇さんの面影がまるで遠い幻のように感じられていた。
列車の揺れに身を任せながら、皓はふと考えた。煇さんはただの技術者ではなかった。律燈技術が進化する中でも、その役目に忠実であろうとするその姿が、どれだけ自分の憧れの対象だったかを、今更のように感じる。しかし、自分はその道から外れ、こうして見知らぬ土地に向かおうとしている。
「俺は、煇さんにどう映っているんだろうか」
自分が煇さんに憧れ、あの背中を追いかけていたように、煇さんは自分が今こうしていることに何か思うことがあるのだろうか。煇さんの胸には、自分がまだ理解しきれていない「灯火守としての誇り」が、確かに宿っていたのだと感じられた。
胸の奥に、煇さんに会いたいという衝動がほんの一瞬だけ込み上げたが、皓はすぐにそれを振り払った。灯火守への未練が、煇さんへの憧れと重なって、心の奥で静かに痛みとして残り続けてしまうと感じたからだ。
乗り込んできた車掌が目に入った。 検札を終えた車掌が、機械に手早くメンテナンスをし始めた。律燈技術を用いた照明システムだ。彼は手慣れた動きで装置を調整し、問題がないか確認している。目の前の作業を黙々とこなすその姿は、何かに没頭する姿勢を感じさせた。
車掌が作業を終えて去っていく後ろ姿を見ながら、皓はぼんやりと考えた。自分もこのように、何かに没頭できる職を見つけられるのだろうか。 燈力が無いわけではない。灯火守に適さなかっただけで……。仮に燈力に頼る仕事ではなくとも、心から取り組めるものがあるかもしれない。
次の停車駅は乗客が数名降り、逆に作業着を着た工事作業員たちが乗り込んできた。それぞれの職場へ向かう人々――彼らはみな自分の仕事に向かって進んでいく。彼らもまた、自分の持つ能力を活かし、社会の一部として働いているのだ。
「皆、何を思ってその職についたのかな……」
そんな考えが、皓の胸の奥で静かに響いた。
これまで、自分はひたすら灯火守になることしか考えていなかった。だが、当然ではあるが社会は様々な役割と職業がある。今まで考えもしなかったが、灯火守以外の職に就く自分も存在できるはずだ。もっと別の仕事を通じて、灯火を守る以外の形で人々の生活を支えることもできるかもしれない……。
そう思いながらも、皓は自分が本当に何をしたいのか、まだはっきりとはわからなかった。
次第に、列車は緑の多い景色へと進んでいく。 果樹園や田園、小さな村が見え始め、車内に入り込む匂いもまた変わっていった。十年の間、都市の中で過ごしていた皓にとって、こうした自然に囲まれた景色はどこか懐かしい感覚を呼び起こす。
そんな時、ふと見知らぬ駅名が目に入った。
「カタツ……駅?」
皓は窓越しにその駅名を見つめた。見知らぬ響きのその名前が、何とも言えない不思議な感覚を呼び起こした。車窓から少し身を寄せて覗き込むと、小さな木造の駅舎が見えた。その周囲には、どこか素朴で落ち着いた雰囲気が漂っている。駅の近くには、小さな花壇があり、見慣れない紫色の花が風に揺れていた。
駅前には一人の年配の女性が、手押し車を押しながらゆっくりと歩いている。 その後ろには子供たちが数人、無邪気にはしゃぎながらついていく。老人と子供が一緒に歩くその姿が、どこか温かなものを感じさせた。日常の一コマなのだろうが、都市の忙しさとは対照的な、ゆったりとした時間が流れているようだった。
「都会には、こんな景色はなかったな……」
そう思った瞬間、皓の中に何とも言えない懐かしさが込み上げてきた。生活に追われ、忘れかけていた温かなもの。彼は、ほんの少しだけこの穏やかな場所に身を置き、ここでの暮らしを感じてみたくなった。計画も目的地もない旅を始めたばかり、ただ一日を生きるための仕事に触れてみるのも悪くない気がした。どこか今の自分に必要なものが、ここで見つかるような気さえする。
そんな気持ちが、心の奥底でささやき始める。
「……ここで降りよう」
皓はリュックを肩にかけ、静かに立ち上がった。列車のドアが開き、涼しい風が吹き込む。この小さな駅で、ほんの少しだけ「今」を感じ始めていた。
真昼の太陽が輝いていた。空は澄み渡り、列車の行く線路がはるか遠くまで見渡せそうだった。
皓は大きく息を吸い込んだどこか柔らかで澄んだ空気が彼の肺を満たし、思わずもう一度深呼吸する。空気には青草の香りがほのかに混じり、周囲の山々から吹き下ろしてくる涼しい風が、ほんのり湿った土の香りまで運んできていた。まるで口の中にまで新鮮な空気が染み渡るような感覚に、皓は一瞬、息を止めたくなるほどの心地よさを感じた。いつしか忘れていた、穏やかな息づかいがこの空気の中に生きているようだった。
背中をぐっと伸ばしてからあたりを見渡す。駅のホームには小さな掲示板があり、そこには手書きのメモがいくつも貼られていた。近寄って内容をみていくと、日々の生活のための、ささやかな仕事が並んでいる。「小塔の手入れと掃除」「農作業のお手伝い募集」……など、日雇いの仕事が書かれていた。
視線を滑らせていくと、思いがけない求人があった。「灯火守補助員募集! 手順通りに進めるお仕事です」……気安い文字と単語に、皓は面食らった。まさか、こんな場所で「灯火守」の文字列を見ることになるとは思わず、しばらくその場で固まった。資格などは必要ないらしい。補助ではあるが、はっきりと灯火守と書かれてあるし、何より精燈機関のマークが押されている。不意に、打診で渡された封筒の存在を思い出してしまい、皓の心は複雑に揺らいだ。
「灯火守……の、補助員」
皓の脳裏には、都市での日々が浮かび上がる。彼が灯火守を志していた頃、町の燈塔に通い詰め、灯火守の仕事ぶりを何度も観察してきたのだ。燈塔にある技術装置には触れることは許されなかったが、灯火守たちがその周囲で行う儀式的な動作や、律燈技術を使いこなす繊細な手つきを目にするだけでも、彼には大きな刺激だった。精緻に整えられた灯火の調整、緊急時の迅速な対応、そして彼らが携える特別な道具。皓が見つめていたのは、ただの作業以上に、光を守る者としての静かな誇りを感じさせる姿だった。彼もあの背中に追いつきたいと強く思っていたのだ。
今、目の前にある「補助員募集」の求人には、あの光景に触れる機会が得られるのではないかという期待があった。都会では補助員というような職はなく、具体的な手順や実働にかかわる内容は機密とされていた。しかし、こういった土地であれば灯火守が巡回しきれない問題から、こうした存在がありえるようだ。違和感があるとすれば、「手順通りに進めるお仕事です」という、灯火守の厳粛な務めとは少し違う軽さを感じさせる言葉だった。
それでも皓は、その紙から視線を逸らせずにいた。ほんの一瞬だとしても、自分もあの灯火守の役割に近づけるのではないか――。
「自分でも……できるのだろうか」
適性がないとはっきり告げられているにも関わらず、皓は少し震える手で貼り紙に触れる。
◆ ◆ ◆
ほんの少しの期待を胸に、役場の扉をくぐった。古びた木造の建物から漂う柔らかな木の香りが、静かで穏やかな時間を感じさせる。受付に座る若い女性職員が、微笑みを浮かべて彼に視線を向けた。その笑顔は温かく、この町自体が旅人を歓迎していることが感じられた。
「すみません、こちらで灯火守の補助員を募集していると聞いたのですが……」
胸の奥に、小さな高揚感とわずかな緊張が入り混じる。彼が目指していた灯火守の仕事と比べれば、補助員の仕事はずっと単純で気軽に見えるものかもしれない。それでも「灯火守」の名前を含んだこの機会が、夢の近くに連れていってくれるのではないかというどこか淡い期待があった。
「はい、そうですね。募集してますよ」
と職員は、優しい声で答えた。
「そんなに難しい仕事ではありませんので、ご安心ください。主に律燈技術を使った装置の点検や掃除をしていただく仕事です。大きなトラブルがなければ2時間程度で完了するお仕事です」
律燈技術を扱う。それは、灯火守が日々接していた技術であり、存在そのものを脅かすかもしれないもの。しかし彼が憧れ、近づきたくて仕方がなかった世界にあるものには違いない。だが、その「簡単な」という言葉に少しばかり期待外れな気持ちが混じるのを感じながらも、彼はその感情を押し隠し、職員の説明に耳を傾けた。
「燈塔の定期メンテナンスですね。自動化されているとはいえ、定期的に点検が必要なのです。手順書に従って進めていただければ、特に問題はありませんよ。どうですか? やってみますか?」
目の前にある仕事は、手順に従って簡単にこなせるものだと職員は言う。自分が求めていた灯火守としての責務とは異なるだろう。しかし、「補助員」だとしても憧れた世界の触れる入口に立った気がした。その思いが、心の中でざわつく不安やためらいを一時的に押しのける。
「分かりました。やってみます」
皓がそう答えると、職員は安堵の笑みを浮かべ、「ありがとうございます」と礼を述べた。
彼は渡された書類に必要事項を書き込み、地図を手に取った。地図には、町の外れにある古びた燈塔が示されている。少し茶けた紙の地図が、何かが始まる前触れのような気配を漂わせていた。
「不明点があれば地図にある番号へ通信してください。私か他の担当がお答えします」
「承知しました。ありがとうございます」
皓は深呼吸をし、心の中で決意を固めた。
灯火守にはなれなくとも、今できることをしてみよう。一歩一歩進めば、きっといつか自分なりの答えが見つかるかもしれない。
◆ ◆ ◆
皓が役場でもらった地図を片手に町外れの燈塔へ向かうと、その周りには数人の年配の住民たちが待っていた。燈塔の白い壁は、年月を経て色褪せ、古びた雰囲気を醸し出している。その姿には、この町で人々の生活を支えてきた灯火の歴史が宿っているように感じられた。
「お待ちしてましたよ、補助員さん」
皓を見つけると、おじいさんが笑顔で出迎えてくれた。続いて他の住民も、口々に彼へ感謝の言葉をかけてくる。その歓迎に、皓は少し照れながらも会釈を返した。
皓が燈塔の中に入ると、古い木製の装置が目に入った。外観は何十年もそのままにされてきたかのような、木目の擦り減った風合いがあり、まるでその歴史の重みを語っているかのようだった。しかし、パネルが開かれた内部には、最新の律燈技術のパーツが組み込まれており、晧は衝撃を受けた。
「これが、町の灯を保っている装置なのですか?」
元々の伝統的な仕組みとはかけ離れた構造で、しかし現在の技術によって最新化はされている。それ故、無理に適合させたような跡があった。外装と内部のアンバランスさが、彼の目には不自然に映る。
「そうさ。昔の姿を残したまま、中身だけを新しい技術に変えてもらったんだよ。まあ、見た目は古いけど、中は立派な『燈導装置』なんだってさ。私たちはつい『魔導器』なんて呼んでしまうけど……、私たちにこの手のものは馴染みがなくてねぇ」
おばあさんが頷きながら説明を加える。
皓はその言葉を聞きながら、装置をじっくりと観察した。律燈技術を使った自動調整システムが今も稼働している。等間隔で灯火の状態をしめす矩形波がモニターに映し出されており、現時点でも問題は見当たらない。強いて言えば、定期観測し続けている過去情報がたまっており、必要のないものを削除するよう通知が表示されていた。
すべてを可視化するのは良いことだと思う。しかし、晧にとってはどこか冷たく、無機質に思えた。
「中を開くとね、灯に問題はなさそうなんだけど……。あれしろ、これしろって表示されるものだから、一旦補助員さんの募集をしたのよ。素人の感覚で触っていいものなのかも分からなくてね」
この町の人々にとっては馴染みのない魔法のように映る技術だが、彼にはその仕組みがよく理解できた。しかし、これが本来の灯火守の役目だったのかと問われると、胸にわだかまる感情が拭えない。
「状況については分かりました。定期メンテナンス、始めますね」
皓は手順書を確認し、装置の点検を開始した。内部の配線やパーツは精巧に組まれているが、古い外装と合わない箇所がいくつも見受けられ、そこから生じる歪さがどこか物悲しく思えた。灯火守の手を借りずとも民間で解決できることは良いことのはずだ。だがかつての灯火守が一つひとつ手作業で灯火を管理していた日々が、こうして無機質な装置に置き換えられてしまったかのように感じてしまう。
「いやぁ、本当に。若い人が来てくれて助かるよ」
おじいさんがしみじみと呟いた。その言葉に、皓は笑顔を作って答えたが、内心は複雑な思いでいっぱいだった。若者かといわれると、分からない。弟のような歳ならばそうだろう。しかし自分はいい大人に差し掛かってきている。住人からしたら当然、若造ではあるだろうが……。
自分が手を動かすたび、装置の各部が自動的に稼働し、灯火が一定のリズムで調整されていく。律燈技術を使いこなせる程度の知識には自信はあった。この程度であれば、確かに機密にすることなどはない。汎用的な技術を組み合わせて作られた一連の業務だ。
通知されていた内容については全て指示通り解消し、調律のための仕組みをいくつか再起動。その後正常に稼働するのを見届ければ、ものの30分程度で済んでしまった。
「念の為、今回どのような作業をしたのかをお伝えいたします。まず、こちらの『燈導装置』は、伝統的な灯器具に律燈技術を組み込んでいるものです。主な役割は、燈塔の光を一定の強さで維持するために、自動的に調整することです。今回はその調整機能と内部の状態と配線を確認しました」
皓が淡々と説明を続ける間、住民たちは頷きながらも、不安げに顔を見合わせていた。技術の仕組みや内部構造に関する話になると、彼らには理解しづらいようで、皓の説明に追いつけない様子が見受けられた。
「つまり、この装置が自動で光や加護を調節してくれるんです。以前は手作業で行われていた作業を、律燈技術が代わりに担ってくれるので、かなり手間が省けます。次の手入れは半年後で良いかと思われます」
その説明で、問題なく灯りが保たれることがわかり、ようやくほっとした表情へと変わっていった。
「さすがねぇ。こんなにあっさり終わらせるなんて、私たちには到底無理よ」
と、おばあさんが感心したように呟く。
皓は表情を和らげ、笑顔を返したものの、心の奥にはざわざわとした感情が残っていた。こんなにも日々の維持が容易に片付く仕事になるならば、……いずれ、もっと複雑なものも自動化されてしまうかもしれない。そうなれば灯火守という役割すら不要になってしまうのではないか――そんな疑念が一瞬、胸の中をかすめる。
律燈技術がもたらす自動化によって、灯火は確実に管理されていく。だが、皓がかつて憧れた灯火守という職業、その「人の手が灯を守る」という役割もまた、技術に取って代わられつつあるのかもしれない。かつて煇さんの姿に抱いた憧れが、静かに遠ざかっていくような気がしてしまう。
皓は自分の胸元に触れた。煇さんからもらった柘榴石の冷たい感触が指先に伝わる。その冷たさが、今の自分の立場を映し出しているかのようだった。かつて煇さんのように憧れた灯火守という職業――それはもはや過去のものとなり、自分はその「真似事」をしているだけではないのか。
「こんなにあっさりやってのけちゃうなんて、あなた、灯火守を目指してもいいんじゃないの?」
おばあさんがにこやかにそう言葉を投げかけたとき、皓は内心、つぶれるような思いをした。
――灯火守にはなれないから、ここにいるのに。
だが、そんな返答をこの親切な人たちにするわけにはいかない。
「いえ、私はまだまだです……」
引きつった笑顔で返事をする。不器用な若造らしい謙虚な態度に見えるだろう。言葉の裏には、どうしようもない虚しさと、やり場のない後ろめたさが隠されていた。
◆ ◆ ◆
皓は、仕事を終えて再び町へと戻っていった。手伝いは終わったが、心の中に生まれた疑問や迷いはさらに深まっていた。灯火守としての適性がないと告げられた自分が、律燈技術を使って、かつての業務とされていたことと同じ仕事が出来てしまった。それが本当に良かったのか――その答えはまだ見つからないままだ。
町の中心部にある役場の前に立つと、皓はため息をついて扉を開けた。中に入ると、先ほどの若い女性職員が皓を迎えてくれた。
「おかえりなさい。お仕事、どうでしたか?」
彼女の親しげな問いかけに、皓は少し戸惑いながらも「無事に終わりました」と答えた。
「ありがとうございます。早く終わったようでよかったです。燈塔の管理は町にとって大事なことなので、本当に助かります。お疲れ様でした」
職員はそう言いながら、彼の報告書を確認している。作業内容に問題がないかをチェックし、必要な書類にサインをするのを待っている間、皓は窓の外に目をやった。町の外れにそびえる燈塔が、ここからもかすかに見えた。
「それで、今日はどこかにお泊まりですか? もし滞在されるなら、少しご案内できますよ」
職員が、仕事の報告と報酬の手渡しが終わった後にそう尋ねてきた。
「ええ、少しだけこの町に滞在するつもりです」
「そうですか。でしたら、町にはいくつか宿がありますので、おすすめの宿をお知らせしますね。もし長くお泊りになるなら、町が管理している空き部屋もお貸しできますよ」
彼女は机の引き出しから、手描きの案内書を取り出しながら説明を始めた。皓に手渡された案内書には、宿の簡素な間取りや、町の宿場町らしい情景が描かれている。そこには、素朴で温かみのある宿屋が数軒並んでいるのがわかった。
「町営の部屋なら、手伝いをしていただければ滞在費はかからずに済みます。ここで暮らしながら、町の仕事に関わるのも悪くないかもしれませんね」
彼女の言葉に、皓はしばらく考え込んだ。確かに、旅をしながら仕事を見つけるのは悪くない提案だった。今日の仕事を通して、どうしても心の中で暴れまわるような気持ちがある。整理をつけるためにも少しゆっくりしたい――。
「少し考えさせてもらいます。今日は……この宿に泊まりたいと思います」
「わかりました。この宿は、温かくて心地よい場所ですよ。宿で食事が出ない代わりに、食堂の食事券が付いています。ぜひ足を運んでみてください」
彼女は笑顔で、町の中心にある宿の案内書を手渡してくれた。手描きの絵や文字からは、宿屋の古風で落ち着いた雰囲気が感じられた。
「もし、またお仕事をお手伝いいただけるようでしたら、いつでも声をかけてくださいね」
職員は丁寧に頭を下げて晧を見送った。
皓はそのまま役場を後にした。胸の中にはまだ迷いを明らかにするため、自分の心を見つめ直す時間が必要だと感じていた。
◆ ◆ ◆
宿で部屋に通されてすぐ、皓は畳の上に横たわり、静かに天井を見つめていた。初めての仕事――灯火守補助員としての作業を終え、律燈技術を使って無事に役割を果たせたことに、どこかほっとしている自分がいる。手順通りに進めば問題なく終わる仕事だったが、実際にやり遂げたことには微かな安堵があった。だが、その安堵を吹き飛ばすくらいに、どうしても拭えない、強い違和感が居座っていた。
都市に出て、灯火守を目指して学び始めた頃には、自分の進むべき道に確信があった。夢中で知識を吸収し、理想の未来を信じて疑わなかったあの頃。だが今、最先端の技術を使っているにも関わらず、まるで「灯火守の真似事」で終わっている。灯火守を目指していた自分が求めていたもの? そう考えると、胸に冷たく重いものが残る。
「結局、そんなことをするために、飛び出して来たのか?」
自分に向けたその皮肉が、部屋の静けさの中に溶けていく。十八歳の皓は灯火守としての適性を信じて勉強し、未来を夢見ていた。だが今は……。こうして無計画に飛び出したかと思えば、灯火守補助員というような、かつての夢の名残のような仕事をこなしている。そんな自分、想像していただろうか。今は確実に、描いた理想から遠く離れている……。
胸元に触れた柘榴石の冷たさが、今の自分がどこにも辿り着けていない現実を突きつけてくる。煇さんから託されたもの――あの人が持っていた誇り、そして自分がかつて抱いた灯火守への憧れ。それはいつしか手の届かないものとなり、今では自分が追い求めるにはあまりに遠い存在だ。
「……これで満足してたら、本当に、ただの夢の代わりに過ぎない」
そう呟いた言葉が、晧の中で一層の虚しさとなって響く。律燈技術を使いこなせたことで、自分の知識と経験が間違っていなかったことには少しの救いがあるが、同時に、夢に届かず「それっぽい」道に立っているという自身の恥ずかしさも抑えきれなかった。
灯火守への道は無い。皮肉なことに精燈機関のお墨付きで、だ。かといってその真似事をすることもできない。精燈機関からの正式な打診も保留にしたままで……。そんな自分に何ができるというのか。
「だが、それでも……」
それでも生きなければ。
今の自分にできることは何かを模索し、見つけるために、何か違う経験をする必要があるのではないか――そんな考えが、少しずつ心に染み込んできた。
明日は、自分がこれまでやったことのない仕事に挑戦してみる――。農作業でもいいし、何かの手伝いでもいい。日々の生活を支えるための、シンプルで地に足のついた仕事に触れ、自分の新たな可能性を探してみようと思えた。
「ただの真似事だけで、終わらせたくない」
心の奥で静かに芽生えたその決意が、やがて彼の胸を少しずつ温めていく。柘榴石の感触が、わずかな落ち着きを与えてくれた。
決意を新たにすると、腹の虫が音を上げた。今日一日、ろくに食べていなかったことを思い出す。心の整理がついたおかげなのか、腹が急激に減りだしたので、案内書にあった食堂へ向かうことにした。
◆ ◆ ◆
宿の外に出ると、すでに陽は傾き、町には夕焼けの柔らかな光が差し込んでいた。古い街並みに映える温かな光景が、どこか郷愁を誘う。食堂は町の通りに面した小さな建物で、木製の看板には「食事処 ほのほの亭」と書かれている。ガラス戸を開けると、炭火の香ばしい香りが漂い、皓の空腹を一層刺激した。店内は温かみのある灯りに包まれ、テーブルには町の人々がそれぞれの夕食を楽しんでいる。
「いらっしゃい。席、空いてるよ」
カウンターの向こうから、店主がにこやかに声をかけた。皓はカウンター席に腰を下ろし、メニューを手に取る。地元の食材を使った定食が並び、そのどれもが皓にとって初めての料理だった。「
「おまたせさん、御膳だよ!」
皓の前に料理が運ばれてきた瞬間、ふわりと漂う香りが彼の鼻腔を刺激した。香ばしく焼き上げられた香鯛の身からは、自然の旨味が溢れ出している。皮の表面はほどよく焦げ目がつき、ふっくらとした白い身がちらりと覗いている。横には、湯気を立てる朝霧茸の小鉢が添えられ、薄く透き通った茸の傘が柔らかな光に照らされて、まるで朝露に濡れた森のような新鮮さを感じさせた。
期待が高まる晧は、ゴクリと唾をのんで手を合わせた。心の中でいただきます、と唱えて、箸をとる。
まず香鯛の身をほぐした。蒸したての湯気を含んだ絹のように柔らかい。慎重に口の中へ運ぶと、口の中でほろりと崩れ、鯛特有のほのかな甘みが優しく、じんわりと広がる。焼き塩がその味を引き締め、後味にはかすかな森の香りが漂った。続いて、朝霧茸の小鉢に手を伸ばす。淡い塩味がきいた出汁で煮込まれた茸は、噛むたびにじわりと旨味があふれ、まるで朝の息吹をそのまま舌の上に感じるかのようだ。
「これは……美味い……」
と、思わず声が漏れる。シンプルな塩焼きの香鯛と素朴な朝霧茸の煮込みが、身体の奥からじんわりと染み込むように、温かな満足感を与えてくれた。この町の空気や土地で育ったものが、彼の中にすっと溶け込んでいくようだった。
「お若いのに、この御膳に目をつけるとは通だねえ。朝霧茸と香鯛の組み合わせは、この季節しか味わえないんだ」
隣の席に座っていた初老の男性が、声をかけてきた。髪は白髪が混じり、後ろで束ねている。深い笑いじわの刻まれた顔には、長い人生を歩んできた者だけが持つ穏やかさが漂っている。
皓は驚きつつも微笑み返し、
「とても美味しいです。特に魚のふっくらした食感が絶妙で、初めての味わいでした」
と正直に答えた。男性はにっこりと笑い、
「朝霧茸は、この町の朝霧で育つ特別な茸なんだよ。霧が旨味を引き出すんだ。香鯛もその朝の川で育った魚だから、まさにこの土地でしか食べられないってわけだ」
と教えてくれた。晧はそれを聞いて、料理が一層美味に感じられた。
「旅のお方かい?」
「ええ、少しこの町を見てみたくて」
「そうか、いい町だろう? ここの食べ物も、空気も、他にはないものさ。今日は何か面白い仕事にでもありついたのかい?」
皓は今日の出来事について少し言葉を選びながら、灯火守補助員として仕事をしたことを話した。すると、男性はうなずきながら興味津々に耳を傾けた。
「なるほど、あの燈塔の仕事をしていたのか。そうそう、あの装置はちょっと手がかかるからな。年寄りには難しくて、助かっているよ。ここの町は、古いものを大事にするけど、それがどんどん新しい技術と混ざっていくんだ」
「そうですね。自分も、なんだか不思議な気持ちになりました」
「はは、それもわかるよ。灯火守さんがやっていた大事な役割も、今じゃ魔導器がどんどん代わりを務めるようになってね。でもな、それでも人の手があるからこそ保てるものもある。だから、君が来てくれてありがたいよ」
皓はしばらく食事を楽しみながら、初老の男性や店主との会話を楽しんだ。この町の人々がどれほど互いに助け合い、ここでの日々を大切にしているのかが伝わってきた。彼らの温かさと、町の穏やかな空気が心地よく、心の奥に眠っていた何かが少しずつ解けていくようだった。
「辺鄙で小さな町だが、ゆっくり過ごしていくといい。若い頃はせわしなく駆け回るもんだが、年を取ってみると、夜空を眺める時間が贅沢に思えてな」
「自分もここに来てから、少しだけ足を止めてみようという気持ちになりました」
晧のその言葉に、男性は目を細め、
「いいじゃないか。そうして少しずつ見えてくるものがある。焦ることはないよ」
と皓の肩を軽く叩いて席を立った。
店を出た皓は、言葉通りにゆっくりと夜空を見上げた。星々が澄んだ空にきらめき、どこかで聞こえる虫の音が夜の静けさを柔らかく包み込んでいる。初老の男性の言葉が胸に残り、ここで過ごす時間が、きっと彼にとって意味あるものになるのではないかと感じた。
そんな予感を抱きながら、宿の暖かな灯りに導かれるように、静かに足を進めた。
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