巡星の灯火
絹田屋@活動休止
第1話
都市の中央広場に、重々しい空気が漂っていた。夕闇の中――……諦め切ったような眼差と、血眼になった顔が敷き詰められている。それは毎年見られる光景でもあったが、今年は特にその様子が照らされていた。新たな技術によって作られた街灯。その灯りに照らされながら、翳りとともに大きな石板が競り上がってきた。
広場の中央にそびえ立つ石板は、長年、彼等にとって希望と絶望の象徴だった。黒光りする石板は無言で佇み、挑戦者たちの運命を冷たく告げていた。毎年この場に立って石板に彫られた名前を見つめるたび、胸に湧き上がる期待と不安が心を支配してきた。
今回も、男はその場に立つ。
重い空気の中、若者たちが集まり、一人ひとりが自分の未来をそこに探している。石板の表面に彫られた名前――合格者たちの名前が、光を浴びて微かに輝いているのが見えた。彼は深呼吸し、固く拳を握った。心臓は鼓動を早め、指先がわずかに震えている。
ここに自分の名前が刻まれるかもしれない。そう思いながらも、内心は次第に恐怖に染まっていく。十年。十年という長い年月を費やし、この石板に自分の名を刻むことがどれほど困難であったかを知っている。そして今回も、その運命の瞬間が迫っていた。
「……ない」
彼の指先が追いかけた場所に、自分の名前はなかった。
石板は依然として無機質に、冷たく輝いている。
石板に刻まれた他者の名前が、まるで自分の無力さを嘲笑うように浮かび上がって見える。まわりで歓喜の声を上げる者たちの声が耳を刺し、彼の頭に鳴り響く。合格した者たちが自分の未来を祝う姿は遠く、皓にとっては遠ざかる夢のようだった。
皓は拳を強く握りしめ、顔を俯かせた。周りの歓声やざわめきが、どこか遠くに感じられる。耳に届く音は次第にぼんやりとし、自分だけが取り残されたような感覚が広がっていく。彼にとって石板は、光り輝く合格者たちとは対照的に、冷たい、重い、そして暗い影を落とす存在でしかなかった。
「また……だめだった」
言葉が口をついて出るが、それすらも虚しく響く。彼はおぼつかない足取りでゆっくりとその場を離れた。
皓にとって何度も味わった絶望。毎年、期待して挑戦し、そして打ちのめされる。十八歳から十年という時間をかけて追い続けた理想は、またしても手の届かない場所にあることを突きつけられた。
狭き門、灯火守――。それは人々の生活を支え、命の灯りを守り、人々に希望を与える存在だ。彼らは都市の隅々――否、
灯火守になることは大変名誉なことだった。都市の中心部にある
「……連絡、しないと」
この十年、変わらず応援してくれる家族に友人……。彼らのことを考えて、皓は頭がずんと重くなる。
皓の視線がふと横を向いた時、目に飛び込んできたのは、楽しそうに笑い合いながら歩いていく一家だった。
夫婦と小さな子どもが手を繋ぎながら歩く姿は、微笑ましくもあり、温かさを感じさせる。子どもが無邪気に何かを話しかけるたび、両親は優しく耳を傾け、笑顔で答えていた。その家族の灯火は、まるでその心の充実ぶりを反映しているかのように、揺るぎなく輝いて見える。
「……連絡、しなくては」
皓の心に、不意に自分の家族の姿がよぎる。かつて、両親や弟と一緒に過ごした時間……。皓が幼い頃、家族と一緒に町を歩いた時、あの時も父は優しく母と会話をし、弟ははしゃいでいた。あの頃、家族全員が同じ方向を向き、心の灯火は強く燃え続けていたように思う。
だが今では、家族の灯火も変わってしまった。弟の
一家の楽しそうな姿が遠ざかるのを、皓は黙って見送った。彼の胸にぽっかりと空いた何かが広がっていく。それら重い足取りを更に重くするものだった。
自宅の狭い借り部屋へ戻った。頭の中では、どうやって家族にこの結果を伝えれば良いのかがぐるぐると巡り、言葉がうまくまとまらない。「またダメだった」――その一言だけで済ませたくない。十年もの間、夢を追い続け、結果が出ないことに苛立ち、そして焦っている。だが、その焦りを家族にどう伝えれば良いのだろうと拳と手のひらを何度も見つめた。
皓はやっとのことで電話を手に取った。呼び出し音が鳴る間、彼の胸はぎゅうぎゅうと締め付けられるようだった。
散々考えた言葉は、田舎の母親の声が聞こえた瞬間に彼の口から言葉が自然にこぼれた。
「……またダメだったよ」
一瞬の沈黙の後、母の声が返ってきた。
「そう……。大丈夫よ、あんたなら絶対にできるって信じてるから」
励ましの言葉はいつも通りだ。だが、その言葉が、今の皓には重くのしかかっていた。
「もう、どうしたらいいのか……」
思わず、そんな弱音が漏れ出した。いつも前を向き続けた皓が、初めて本音を漏らしてしまった瞬間だった。
母親は静かに聞いていたが、少し迷いながら言葉を続けた。
「……あんたのことを知ってる人たちは、ちゃんと見てくれていると思うよ。でもね……」
その時、母親の声が少し落ち着きを失った。
「
「もちろん。憧れの人だし……」
「噂で聞いたんだけど……。煇さん、辞めたんですってね」
その言葉は、まるで胸に鋭利な刃物を突き刺されたかのように鋭く皓を貫いた。
あの煇さんが辞めた? あんなに尊敬されていた灯火守が、辞めたというのか。皓が夢見た職業の象徴であり、理想として追い続けてきた人が、その職を捨てたというのだ。
皓の母は続ける。
「詳しいことはわからないけれど、
皓はしばらく言葉が出なかった。煇さんが辞めた……。彼の中で様々な支えが崩れ落ちる。
「……わかった。少し考えてみるよ」
そう答えるのが精一杯だった。
電話を切った後、皓はぼんやりと天井を見つめていた。灯火守だけが自分の夢だったはずだ。だが、煇さんですら辞めた今、その夢がどれほどの意味を持つのだろう。
それでも、だからこそ、それでもなお……。何度もそういう言葉を続けようとしたが、皓の心の中には踏ん張る気持ちは湧いてこなかった。
◆ ◆ ◆
翌日、浅い眠りから覚めた皓は、早すぎる静かな朝を迎え、まだ起きたばかりの頭でぼんやりしていた。昨夜の出来事が頭から離れない。煇さんの辞職の噂、そして自分が十年も夢を追い続けた果てに何も手に入れられないという現実……。
それでも腹の虫は限界を告げる。間抜けな胃袋の音は皓をいくらか現実に引き戻した。
皓は氷霜庫を開け、中に残っていた白身魚と
塩煮は簡単な料理だが、それでも燈力を扱っていると、ほんの少し自分がまだ動いている実感がわいてくる。
「昔、母さんが作ってくれたっけな……」
ぼんやりと頭に浮かぶのは、実家で食べた家族の食卓。今はそんな暖かい場所から遠ざかっているが、それでも自分は動かなければならない。煮えた魚の匂いが広がる中で、少しずつ食欲が戻ってくるのを感じた。
ざっくりと切った光菜に、さっと湯をかける。光菜の葉が湯気と共に淡く光を放ち始め、皓の目に優しく映る。
「やっぱりこの菜は、何度見ても綺麗だな……」
と、彼はつぶやいた。
幼い頃、この光菜を初めて見たときのことを思い出す。どこか懐かしさを感じながら、熱手杖を軽くかざす。柔らかな熱が感じられる状態になったのを確認してから、光菜を優しく摘み上げた。浮ガラス製の皿にそのまま盛り付ける。
「よし……こんなもんか」
魚がふっくらと煮上がったところで火を止め、皓は静かに熱鍋を食卓へと運んだ。湯気が立ち上る食事を前にして、ほんの少し胸のつかえが取れたような気がする。
皓は椅子に腰を下ろし、箸を手に取った。塩煮の魚を一口食べると、ほんのりした塩気とともに柔らかな味が口の中に広がる。
「……美味い」
箸を動かし、魚をもう一口。それから光菜のおひたしを一口噛むと、ふわっとした光が溢れた。塩煮の味が光菜の青々しさを引き立てる。交互に食していくたび、少しだけ元気が戻ってくる。柔らかく瑞々しい食感に少し癒される。
考え続けるにも体力が要る。そう思いながら、皓は食事を続けながら窓の外を見る。
静かな朝だ。まだ薄明るい空に、街の燈火が淡く光を放っている。夜の闇が静かに退き始め、都市の隅々に張り巡らされた燈火が次第に力を弱めていく。その代わりに、東の空から少しずつ日光が顔を覗かせ、やがて世界がほんのりと柔らかな色合いに染まっていった。
窓の外から見える、小さな庭園。そこに植えられた草木が露に濡れて光り、風に揺れている。夜の湿気がまだ残っているが、朝の空気は清々しく、心の奥を少しずつ洗い流してくれるようだ。
遠くには、
街並みはまだ眠っているかのように静まり返っており、僅かな人影が通りを歩いていった。彼らの持つ小さな灯が、歩くたびに揺れ動き、かすかな輝きを放ちながら道を照らしている。
夜明けの光と、まだ残る律燈の光が交じり合い、街がゆっくりと目を覚ます様子に、自分もまた動き出さなければならないと皓は感じていた。
食事のおかげで温かさが体に広がり、心の芯まで届くような気がする。食べている間は、複雑な心のざわつきも一時的に遠ざかっていた。
「……やっぱり、食べるって大事だよな」
しかし、その一瞬の安らぎを破るように、突然、部屋の静寂を裂く電話の音が鳴り響いた。皓は一瞬動きを止め、目を閉じて深く息をついた。音は無情に繰り返され、嫌でも手を伸ばさなければならない状況を彼に突きつけてくる。ゆっくりと電話に手を伸ばし、耳にあてた。
「あ、兄ちゃん? おはよう、元気してる? 」
弟の
「まあ、色々な……。お前は?」
なんとか絞り出した言葉は、頼りなく響く。
「俺? 実は今、律燈技術のプロジェクトが大詰めなんだよ! 今度発表されるんだけど、すごいことになるから兄ちゃんにも見に来てほしいな」
もしかしたら昨晩から寝ずに仕事をしていたのだろうか。翅のやや高揚した声音に、皓は後退りたい気持ちになる。きっと翅は、自分の仕事に誇りを持っているのだろう。そうでなければ、この声は出ない。自信と充実感に満ちている。
「すごいな、翅。お前、立派になったな」
電話越しに軽快な翅の声を聞きながら、皓は苦しい返事をした。弟はすでに自分とは違う世界で成功を収めている。精燈機関で技術の最前線に立ち、周囲から尊敬されている存在だ。その弟に対して、今の自分がどう答えるべきか……言葉が見つからない。弟の成長を嬉しく思う反面、皓の胸には言いようのない重苦しい感情が広がる。
「……母さんから聞いたよ。灯火守の試験結果こと。兄ちゃんもすごいよ。俺は根性なしだから、何度も挑戦なんてできないし」
翅の無邪気な言葉に、皓は胸を締め付けられるような痛みを感じた。期待に応えることができない自分。自分がいつしか弟の背中を追いかける立場になっていることに気づかされる。
「……ありがとうな」
そう言うのが精一杯だった。だが、翅はそこで話を終わらせなかった。
「でもさ……兄ちゃん。最近の灯火守の職について、どう思う?」
「どう、っていうのは」
「律燈技術でさ、……その。仕事が減るんじゃないかって。再挑戦もいいけど、いつまでやる?」
その言葉は、皓にとってまるで目を覚まされるような衝撃だった。
「……え?」
「もう十年だろ? 兄ちゃんのことずっと応援してるけど……兄ちゃん自身、どうなのかなって。自分が本当に灯火守になるべきか、考えたことある?」
核心に触れる問いに、皓は少し戸惑った。翅の声は軽いものだったが、その言葉には重い現実が含まれていた。心の中で自問してきたことを、弟に直接聞かれることが、こんなにも辛いとは思わなかった。
「……わかってるよ。でも、もう少しだけ続けてみたいんだ」
自分でも薄っぺらいと感じるその返答は、翅にも伝わってしまったのか、電話の向こうで少しの沈黙が訪れた。
「そうか……。兄ちゃんが決めたことなら、俺は応援するよ。でも、俺はいつも兄ちゃんのことを心配してるからな。無理するなよ」
翅のその言葉は優しかったが、同時に現実を突きつけられたような気がした。
自分が目指してきた夢が、いつしか惰性で続けているものになっているのではないか――
皓は、電話を切った後もしばらく翅のことを考えていた。
弟の翅は四つ年下で、いつも明るく前向きな性格だった。精燈機関の直轄組織で働くようになってからも、彼の態度は変わらず、むしろ更に自信に満ちていった。彼の周囲にはいつも人が集まり、彼の成功は家族にとっても誇りであり、皓にとっても嬉しいことだった。
だが、その反面、皓の胸にはいつも苦々しい感情が渦巻いていた。
幼い頃、二人はよく一緒に遊び、同じ夢を語り合った。二人とも灯火守に憧れていたが、翅は次第にその道を諦め、灯火研究の道に進むことを選んだ。それが現実的な選択であり、彼の才能に合っていることを皓も理解していた。翅が律燈技術の研究に携わるようになってからは、家族全員がその成功を喜んだ。母は「翅が本当に立派になった」とよく口にし、父も誇らしげにその話をしていた。
しかし、皓にとってはそれが重圧でもあった。
翅が自分よりも先に「自分の灯り」を見つけ、成功を手に入れている一方で、皓は何度も試験に落ち、未だに自分の灯りを見つけられずにいる。そのことが、彼の心の中で焦りと自己嫌悪を募らせていた。
「俺は、翅に追い抜かれたんだ」
かつては兄である自分の方が優れているとどこかで思っていた。灯火守としての夢を諦めず、毎年挑戦し続ける自分こそが「正しい道」を歩んでいると信じていた。
だが、今や翅は自分よりも遥かに進んでいる。
痛みを痛みとしてうまく捉えられず、皓は言葉なく項垂れた。
◆ ◆ ◆
ほんの気晴らしに散歩にでも出ようとしたタイミングで、借り部屋のドアベルが鳴り響いた。
「……誰だ?」
皓は少し警戒しながら、ゆっくりとドアへ向かった。訪ねてくる者などほとんどいない。誰だろう? そう思いながらドアを開けると、そこには精燈機関の制服を着た中年の男性が立っていた。見たことのない人物だが、整った身なりと穏やかな表情から、その来訪に敵意は感じられなかった。
「精燈機関の人事部です。太刀花皓さんでしょうか?」
その言葉に皓は驚き、軽く目を見開いた。
人事部? 精燈機関からの使者が自分を訪ねてくるとは、全く予想していなかった。試験に落ちたばかりだというのに、なぜ?
「ええ、僕ですが……」
混乱しながらもそう答えると、男性は礼儀正しく一礼をし、手に持っていた封筒を差し出した。封筒には精燈機関の印章が押されており、その厳かな雰囲気に、皓は息を飲んだ。
「あなたの筆記試験や技術面に関して、高い評価がなされています。今回、筆記試験は歴代を通して首席の成績でした」
皓は、しばしその言葉に耳を疑った。
首席の成績? 確かに、筆記試験には重点を置いてとにかく対策をし続けてきたが、手応えは例年通りだったので実感が無い。思いもよらない評価だ。
だが、彼の心に浮かんだのは喜びではなかった。むしろ、戸惑いと混乱が胸を締め付ける。
「……筆記試験は、首席?」
皓はその言葉を反芻するように、呟いた。自分が筆記で良い成績を取ったことには驚いたが納得できる。しかし、それが灯火守への道に繋がらないという現実が、何とも言えない無力感を伴って皓の心を打った。
男性は続けた。
「灯火守としての適性については基準値に満たなかったとしても、律燈技術の開発部門であなたの能力を活かせる場があります」
皓は封筒を見つめたまま、心の中で葛藤が渦巻いた。「灯火守としての適性に満たなかった」と言われるたびに、自分がどれほどこの職にふさわしくないのかを痛感させられる。十年も挑戦してきた結果がこれだ。最良の成績を取っても、結局は自分には灯火守になる適性がないという烙印を押されてしまったのだ。
「……適性がないってことは、つまりどういうことなんですか?」
思わずそう問いかけた皓の声には、自嘲が混じっていた。今さら何を聞いても、自分が不適格だという事実が変わるわけではないことを理解していたからだ。
男性は一瞬躊躇しながらも、丁寧に答えた。
「燈力適性を指します。ご存知のように、燈力というのは、灯火に対する感覚や心の強さなど、非常に個人的な要素が含まれます。灯火守は技術だけでなく、精神的な適性も必要とされます。その点で、太刀花さんの知識や技術は非常に高く評価されていますが、灯火守としての感受性がやや不足していると判断されました」
その説明を聞いた瞬間、皓は胸の奥で静かに何かが消え去ったような感覚を覚えた。知識や技術を持っていても、それだけでは不足だという現実が目の前に突きつけられている。まるで、自分が一生触れることができない何かを前にして、無力さを感じているようだった。
「……なるほど」
それだけを言うのが精一杯だった。
男性はそのまま続けて言った。
「あなたの情熱と知識は本物です。灯火守にはなれなくても、あなたが持っている能力は私たちの機関で非常に重要な役割を果たすことができると確信しています。律燈技術の開発部門で、あなたの力をぜひ活かしてください。前向きに検討していただければと存じます」
皓はその言葉に、身を炙られる心地がした。灯火守の夢が叶わないことはもうわかっている。しかし、その事実が再び突きつけられるたびに、心の中に無力感が広がる。それでも、精燈機関の打診を無碍するわけにはいかない。男性の熱意と誠意が伝わってくるからこそ、蔑ろにすることもできなかった。
「……考えさせてください」
皓はその封筒を受け取り、一礼を返した。夢を諦めることの重さが、ますます胸にのしかかる。扉が閉じる音が響くと、彼はそのまま封筒を持って椅子に腰を下ろし、しばらくの間、その封筒をただ見つめ続けていた。
――この俺が、開発部門? あの律燈技術の?
頭の中で、その問いが何度も繰り返される。
律燈技術は、今や灯火守の仕事を代替する技術となっている。しかし皓はその技術には懐疑的だった。それを扱うことにどれほどの意義がある? 自分が目指していたものとは違う。……しかし、それでも社会的な地位を手に入れるチャンスがここにある。親を安心させる事もできるかもしれない……。
――まさか、翅が関わっているんじゃないだろうか?
一瞬、そう考えが頭をよぎった。翅は精燈機関直轄の組織で働いている。確か研究部門のはずだ。もしかすると、自分の兄を助けるために裏で手を回してくれたのではないか?
――でも、翅がそんなことをするはずがない。
皓はすぐに、そう自分に言い聞かせた。翅は誠実な人間だ。自分の実力で道を切り開いてきた。彼が裏で何かを企むような性格ではないことは皓も分かっている。自分の中にあるその疑念が、どれほど理不尽であるかも、頭では理解していた。
――だが、それでも……。
心の奥底では、弟の成功がいつしか自分にとって重荷になっていたのだろうか? 彼が家族の期待を一手に引き受け、自分がその影に隠れるような気持ちを抱えていたことに気づかされた瞬間だった。翅が自分を助けたいと思ってくれたのだとしたら、兄としてそれを誇りに思うべきだろう。
しかし、皓はそれを素直に受け取れない自分が情けなく感じられた。
「俺は……ただ自分の力で、灯火守として来たかった」
封筒を見つめたまま、皓はポツリとこぼした。
もし翅が関与していたとしても、それは家族を思いやっての行動だろう。それに感謝すべきだ。だが、これまで自分が挑戦し続けてきたのは、自分の力で灯火守になるためだった。それが叶わないという現実に直面している今、新たな道を進むという選択肢が、ますます自分の存在価値を曖昧にしている気がした。
――この打診を受けることは、本当に自分のためなのか?
皓は自分に問い続けた。翅の存在を意識しすぎているのか、それとも自分自身に問いかけているのか、答えはまだ見つからない。胸の中で揺れる灯火が、どこかで風に吹かれて消えかかっているような感覚だけが残った。
◆ ◆ ◆
その日の夜、皓は寝台に横たわったままで何度か瞬きをする。眠気は訪れず、天井を見つめながら止まらぬ自問し続けていた。都市の灯火が無機質に輝く夜の中で、彼の心の灯火だけが見つからず、揺れていた。
彼の心には、憧れていた煇さんの姿が何度も浮かび上がる。その灯火は、今でも彼の胸の中でかすかに輝いていたが、その光は遠くに感じられる。
「煇さんも辞めたのに、……俺は何を追い続けているんだ?」
皓は、自分がいつから灯火守を目指し始めたのか、頭の中で振り返っていた。なぜ、あの夢を持ち続けているのか――その根本を思い出す必要があると感じていた。
暁月煇との出会いは、皓がまだ子供の頃だった。皓が八歳、煇は十八歳だった。煇は灯火守になりたてでありながら、すでに注目を集めている人だった。
彼は強くて美しい灯火守で、村の燈塔を手入れしに来てくれたのだ。彼が扱うその輝きに心を打たれ、夢を抱いた。煇さんが灯火を操る姿は、まるで魔法のようだった。彼の灯火の中に宿る命がはっきりと感じられた。あの瞬間から、皓の中で灯火守になることが生涯の目標となった。
幼かった頃のことをじっくりと思い出す。夜が訪れると、空には無数の星が広がっていた。彼の故郷の村には燈塔があり、それが村を照らしていた。ある晩、その燈塔が突然不調をきたしたという噂が広まり、人々は一時的に光を失った村に不安を抱いていた。
その夜、皓は母親に手を引かれて、灯火守が塔を修理しにやってくるのを待っていた。暗闇の中で見上げる空は、まるで無限に広がる星の海だった。星々が遠くから淡い光を放つ一方で、村の燈塔は今や沈黙している状態だった。人々が息を潜めて見守る中、突然、塔のてっぺんが明るく輝き始めた。
その瞬間、皓の目に飛び込んできたのは、一人の若い灯火守の姿だった。それが煇だった。彼が優雅な手つきで灯火を修復していく様子は、まるで星々を操る魔法使いのように見えた。まだ幼かった皓は、その光景に心を奪われ、言葉を失って立ち尽くしていた。彼の心に、その姿が強く刻まれた瞬間だった。
「灯火守って、すごいな……」
そう呟いた言葉は、夜風に乗って静かに消えていったが、その時の感動は胸の奥深くに残り続けた。
それから何日かして、皓は灯火守のその若者――煇に偶然出会った。村に滞在していた煇が、燈塔の手入れをしているところに、小さな皓は勇気を出して近づいていった。彼の目にはまだ、その光景が鮮明に映っていた。
「どうして灯火守になろうと思ったんですか?」
幼い皓は、心からの疑問をそのまま煇にぶつけた。煇は驚くこともなく、優しく微笑んだ。
「誰かの道を照らし、希望を与えることができるからだよ。それが灯火守のお役目なんだ」
その言葉が、胸に深く染み込んだ。自分もいつか、そんな存在になりたい――そう強く感じた瞬間だった。煇の言葉には、単なる職業としての説明を超えた、使命感と誇りが感じられた。彼らの役目は、単に灯を管理することではなく、命や心を照らし守る存在であるということを、その時初めて理解した。
「……俺も、与えられたんだ」
さらに、もう一つの出来事が彼の記憶に蘇る。
ある夜、皓は村の外れで遊びすぎて道に迷ってしまい、暗闇の中で泣きそうになっていた。怖さと不安でどうしたら良いか分からなくなっていたその時、ふと背後から灯火が近づいてきた。振り向くと、そこにいたのは煇だった。彼は優しく笑って、皓に手を差し伸べ、灯火をかざしてくれた。
「大丈夫、こっちだよ」
その言葉と共に、煇は小さな灯を手にし、皓に道を示した。その光が、まるで星の光が地上に降りたかのように、周囲を穏やかに照らしていた。煇は、ただ道を照らしているだけではなかった。彼の灯火には、温かさと安心感が込められており、皓は心の奥底でそれを感じ取っていた。
「ひかるさん! おれも灯火守になる!」
「本当? じゃあ、いつか一緒に
そうとも、それで、煇さんから託されたんだ。
「これには、俺の燈力が含まれてる。ほら、ほんのりあったかいだろう? ここぞという時、助けになる。使うべきときに使うんだぞ」
煇さんの燈力が込められた、柘榴石の首飾り……。
「あの時、煇さんは……俺に道を示してくれたんだ」
幼い頃の記憶が、皓の心に染み渡る。あの瞬間、灯火守はただの「職業」ではなく、人々を導き、心を守る存在だと、幼いながらに確信した。自分もいつか、そんな存在になりたいという思いが、彼の中で芽生えたのだ。
それからというもの、皓は灯火守への道を真っ直ぐに見据え、努力を重ねてきた。だが、今の自分は……。
そこまで考えて皓は目を強く閉じる。じわりとした歪みの中に、幼い頃見た灯りが滲んでいった。
――あの人は最も尊敬されている灯火守だった。そんな人が、職を辞した。
時代の流れに押されて、彼までもが灯火守の役割に見切りをつけたのだろうか。それとも、煇さんさえ必要とされなくなってしまうほどの変化が訪れているのだろうか。
「このまま、この街で、灯火守を目指し続ける意味があるのか?」
……心の奥底で感じていたその問いに、ついに向き合う時が来たのかもしれない。皓は深まる夜と共に、幾つものことに思いをめぐらせた。
灯火は、命と心の象徴とされている。燈力はそれを扱う能力のこと。灯火守は、燈力を用いて能力を用いる物であり、かつては生活と暮らしの要――……
人々の暮らしを照らし、導くための光であり、心の状態を反映するものと信じられてきた。かつての都市では、すべての灯火が人々の手によって灯され、守られてきた。それは、人々の生きる力や意志そのものを表しているとも言える。
都市の中央にある燈塔は、その象徴的な存在だ。塔の頂上にある巨大な灯りは、都市全体を照らし出し、人々に安心感を与えている。だが、その灯りは単なる物理的な光ではない。灯火は、人々の心や生命力に深く結びついているとされている。
各家庭にも小さな灯火があり、それはその家族の繁栄や幸福を象徴するものとされている。灯火が強く燃え続ける家庭は、繁栄し、幸せな生活を送ると言われている。逆に、灯火が弱くなったり、消えかけることは、その家族や個人が何か重大な問題に直面していることを意味すると信じられてきた。
灯火はまた、人生の目的や使命感を象徴するものとしても扱われている。人々は、「自分の灯りが見つかった時、それはその人が自分の進むべき道を見出した時だ」と言う。心の灯火が強く灯っている者は、迷いなく自分の生きる道を歩むことができるとされており、灯火が輝いている状態は、その人が充実していることを示す。
しかし、時代は変わりつつある。
律燈技術が導入されてから、灯火守の立場が揺らぎ始めているように思う。かつては人の手によって管理されていた灯りも、今では魔導技術によって自動化されている。灯火守が持つ長年の知識と技術を体系立てて再現可能なように定型化し、精燈機関に所属する灯火守の役割は縮小傾向のある。そんな中で、皓は何とかして自分の灯りを見つけようと必死に挑戦してきた。
「ふふ、――すぐ、受かると思ってたんだよな」
自嘲に満ちた笑いと共に、独りごちる。
挑戦を繰り返す中で、本当に望んでいるのは何なのか――皓はそれが次第に分からなくなっていた。
――ただ、失敗を認めたくないだけなんじゃないか?
そんな言葉が、頭の中にこだまする。十年も挑戦を続けてきた理由は、本当に灯火守への情熱だったのか? いつからか、あるいは、それとも……ただ自分が灯火守にそぐわぬ存在であることや、不適格であることを認めたくないだけではないのか。
適性が無い。しかし才能を補うだけの何かがあれば。そう思って行き着いた先が、この夜だ。
夜の静寂は、心の水面に顔をつけるようだ。皓は緩やかに沈んでいったものを一つずつ拾い上げていく。
――煇さん、あなたはなぜ辞めたのですか。
煇は皓にずいぶん優しく接してくれた。滞在している間、灯火守の訓練や試験について、どんなに忙しい時でも、皓の質問に丁寧に答えてくれた。
「灯火守とは、人々の命と心を守る仕事だよ」
そう言っていたその言葉が、今でも耳に残っている。
その煇さんが、自らの手で灯火を扱うことをやめてしまったのだ。
「あの人が辞めたのは、時代のせいなのか……それとも、他に理由があったのか?」
時代の流れに逆らえないことは理解している。律燈技術の進化により、灯火守の役割は縮小し、自動化された灯火が街中を照らしている。
役割が変わっていく中、煇さんはその変化を受け入れたのか、それとも何か他の理由があったのか。煇さんがあれほど誇りを持っていた仕事を辞めるには、何かもっと深い理由があったのではないかと、皓は考えずにはいられなかった。
「煇さんが時代の波に押し流されたとは思えない。あの人はいつも、誇りを持って取り組んでいた人だ」
煇さんのような心の灯火が憧れだった。しかし……
――少なくとも、今の俺の心は湿気っている……。
最初は純粋に灯火守に憧れ、夢を追い続けていた。浪人する事も珍しくは無い。しかし十年も挑戦しては失敗を繰り返す中で、その情熱は徐々に薄れ、気づけば自分を守るための行動になっていたのではないか。ただ「自分は灯火守にふさわしくない」という現実を認めたくないだけだったのだ。
煇さんとの思い出が次々と浮かんできた。ある日、煇さんが皓に特別な言葉をかけた日のことを思い出す。
「皓、お前が本当に灯火守になりたいと思うなら、迷わず進め。ただ、もし自分の灯火が違う場所にあると気づいた時は、その灯を追いかける勇気も必要だ」
当時は深く考えずにしていた言葉が、今になって皓の胸を強く揺さぶった。「違う灯を追いかける勇気」……煇さんは、それを実行して新しい道を選んだのだろうか?
「今の俺には、……」
煇さんの言葉が、心の奥底で静かに響き続けていた。「迷わず進め」という言葉も、「違う灯を追いかける勇気も必要だ」という言葉も、どちらも煇さんが本当に信じていたものだと感じられた。
「今の自分がどこにいるのかを見極めるためには、違う灯りに目を向けなければ……」
皓は意を決して寝台から起き上がった。都市に留まることは、煇さんが言った「進むこと」とは違う。打診を受けて、安定した向いている仕事に打ち込むうち、見つかる灯りもあるかもしれない。
けれど今は、自分の灯りがどこにあるのか、探さなければならないのだ。
煇さんの辞職は、きっと後ろ向きな理由ではない。彼自身が、その言葉通りに新しい道を見つけて歩き始めたのかもしれない。
「俺も、自分の灯を見つけるために、進まなければならない」
皓は窓の外に広がる都市の夜景を見つめた。律燈技術で灯された光が、無数に輝いている。その光はどこか無機質で、生命の温かさが感じられない。かつて、煇さんの手で灯された灯火は、もっと力強く、優しい光だった。その灯は、今もどこかで輝いているのだろうか?
皓は鞄を手に取った。都市を離れ、旅に出ることでしか、この答えは見つけられないと確信した。
「俺の灯火は、どこかにあるはずだ」
皓は真っ先に持っていくものを手に取った。煇さんからもらった柘榴石の首飾りだ。灯火守を目指す決意をした時に煇さんから贈られたもの。その石は赤く輝いており、今もなお皓の胸元で力強く存在感を放っていた。
「……煇さん、俺も行きます」
皓は心の中でそう呟くと、勢いをつけて立ち上がる。
窓から見える都市の無機質な光が、彼の背中を淡く照らし、新たな決意の種火が宿り始めているかのようだった。
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