しばらく経ったある日、家に帰ると、すでに兄はもう帰宅していた。

普段なら、平日に早めに帰った時は、いつも私に任せっぱなしな家事を張り切ってこなしながら、おかえりと迎えてくれるのだが、今日は、家事も手つかずのまま部屋に籠もっていた。


心配になって、兄の部屋のドアをノックすると、中から

「悪い、調子が悪いから寝る。夕食はいらない」と兄の暗い声が聞こえた。


それが嘘なのは、私にはすぐにわかった。


兄は本当に辛いことがあると私の前に姿を見せない。部屋に籠もったり、一人で外出をしたりする。

私に心配をかけたくないとか、落ち込んだ顔を見られたくないとかいう理由だと思うが、今日のもおそらくそれだろう。


私はリビングに戻り、一人で家事をこなして行く。

朝は皆忙しいので、いつも家事は帰宅後にまとめて行う。兄は部活があるので平日の家事はほとんど私が請け負っているが、部活が休みの日や休日は兄が率先して家事を行ってくれる。


いつものように、家事をこなし、夕食を用意する。今日は母は出張なので二人分だ。

一人で食事を済ませると、残りの家事を済ませ、さっさとお風呂に入り、後は寝るだけとなった状態で、再び兄の部屋のドアをノックした。

返事はないが、おそらく寝てはいないだろう。


「私も疲れたからもう寝るね。夕食、ダイニングテーブルに用意したからよかったら食べて」

ちゃんと聞こえるように少し大きな声で伝えると、兄の返事を待たず、隣にある自分の部屋に入る。

わざと大きな音を出してドアを閉めることも忘れない。


兄が私に会いたくないのなら、私が部屋に引きこもったほうがいい。

しんどいからと何もせず部屋に籠もっていると、余計に気持ちが沈んでしまうような気がする。

時計を見るとまだ21時だったけど、たまには睡眠をたっぷり摂るのも悪くないとそのまま寝た。


 翌朝、ダイニングテーブルの上に兄の字で、朝練に行くとのメモ書きがあった。

昨夜、私が用意していた夕食は無くなっていたので、兄が食べてくれたんだと思う。


「よかった」

一人つぶやいた。




 学校に行くと、隣の席の菜月くんが、机に突っ伏して寝ていた。

朝練で疲れているんだろうと、特に気にすることなくいると、担任がやってきて、今日は席替えをすると言い出した。

菜月くんに声を掛けると、ゆるゆると顔を起こした。


「朝練ハードだったの? お疲れ様」と言うと、菜月くんは、私をぼんやりした顔でゆっくりと見た。

その顔は疲れたというより……「しんどそうだけど、なにかあった?」

菜月くんはしばらく私の顔を見ると、やがてふるふると首を振って、別に、とだけ言った。


 順々に席替えのくじを引いて、私も引く。廊下側の一番前。続いて菜月くんも引いていた。

机を動かそうとすると、菜月くんが、「常磐はどこの席?」と聞いてきた。

いつもの〝常磐妹〟呼びとは違う呼び方に違和感があったが気にせず

「廊下側の一番前。菜月くんは?」

「窓際の一番うしろ」

「そう、遠くなったね」

菜月くんは机をガタガタ運ぼうとして、最後に

「コクって振られた。世話んなったな」

と小さく言うと、私に背を向けて去っていった。


私は、息を呑んで、彼の後ろ姿をただ眺めていた。


 新しくなった廊下側の一番前は教室入口のすぐ近くで落ち着かないが、振り返れば、教室全体が見渡せる席だ。

窓際の一番後ろの方角を見るが、間に人がいるため隙間からちらりと彼が見えるだけだ。

彼は頬杖をついて、窓から外を眺めていた。


昨夜、兄が落ち込んでいたのはこれだったのか。


サポートキャラになると一人ではしゃいで、結局やったことは、兄と菜月くんを傷つけただけだった。

自分がやっていたことは傲慢なだけだったと気付かされて落ち込んだ。


 お弁当は私が兄の教室に届けに行った。


いつもは教室の前の廊下に女子生徒といることが多い折原先輩が、教室のずっと手前にある階段の踊り場に一人でいて、私を見かけると、声をかけてくれた。

いつもの他愛のない挨拶のあと、折原先輩は、言葉を選ぶように

「菜月、どうしてる?」

「あー、……」

なんて言っていいのかわからず言葉を濁す。この様子からすると、おそらく折原先輩は菜月くんが告白したことを知っているのだろう。

もしかしたら、その話をするために、ここで私を待っていたのかもしれない。

目線をそらし、唇を噛む。

折原先輩は、ごめんと少し笑って私の頭をくしゃくしゃにした。

「俺たちのことで心配かけて悪いな」

私の手からお弁当を取ると

「これ、翔太に渡しておくから」

私は黙って頭を下げて帰った。

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