3(2)
兄は心配そうな顔を隠そうともせず、私の傍らに座った。
「お前が寝付くまで、そばにいるから。怖い夢を見ないように見張っているから安心して寝な」
兄のこういう優しさが私は大好きだ。
前世のことを思い出してから私はずっと、キミボエなんかよりももっと重要な、前世の両親や友人……、大切な人や思い出をひとつも思い出せないことに罪悪感を感じていた。
おそらく、私が今思い出せる前世の記憶は、あの最後の瞬間、カラオケボックスでの出来事だけなんだと思う。
あれは、友人ゆっちゃんとの二人だけの女子会。今回の女子会では、ゆっちゃんはキミボエのことを熱く語っていた。だから思い出せることが偏っていたんだろう。
ゆっちゃんは無事だったろうか。
前世の記憶の曖昧さが、今までミチカとして生きてきた人生にまで侵食してきてしまい、目の前にいる兄の存在すら不確かに感じられる。
「お兄ちゃん、寝るまで手を握ってて」
心が落ち着かず、普段なら絶対言わない言葉が口からこぼれてしまった。
そんな私を兄はからかうことなく、黙って優しく私の手を握ってくれた。
兄の存在を確かめるように握る力を少し強くすると、兄も握り返してくれた。その手に安心して、私は目を閉じた。
眠りに落ちる瞬間、中年の男性と女性の笑顔が頭をよぎった。今の私の知らない人だけど、でもとても懐かしい人。あれはおそらく……。
誰かに優しく頭を撫でられ、嬉しくて寝ぼけながらも少し笑った。そしてそのまま私は深い眠りについた。
翌朝はスッキリと目が覚めた。
自分の中でなにかの折り合いがついたような、なにかとても不思議な感じ。
前世の家族のことはほとんど思い出せなかったけど、今の家族と同じくらい良い関係だったという確信がなぜかある。
おそらく私は若くして事故で死んだのだろう。
前世の家族を悲しませてしまったことに胸が痛んだ。
のろのろとベッドから起き上がりカーテンを開けると、太陽はずっと高いところにいた。思った以上に熟睡していたようで、陽の光のまぶしさに目を細めた。
窓を開けると気持ちの良い風が髪を揺らす。
見慣れたはずの窓からの景色が違って見えるような気がした。
着替えて階段を降りていくと、リビングでスマホをいじっていた兄が飛んできた。
「チカ、大丈夫か? 病院行くか?」
「ううん。もう大丈夫だから行かなくても平気。昨日はありがとう」
そう言うと、兄はホッとしたように笑顔を見せた。
「朝メシ! 朝メシは食べるか?」
「あ、うん」
台所で朝食の準備を始める兄の背中に声を掛ける。
「お母さんは?」
「仕事。チカが心配だから休むと言ってたけど、仕事で緊急事態発生したって電話が来たから、俺がチカを見てるから仕事に行っていいって言った。なにかあったら連絡しろ、だとさ」
「心配しなくても大丈夫なのに……」
母は仕事で多忙だが、子供である私達をとても大切にしてくれている。
私達もイキイキと仕事をしている母が好きなので、家事のほとんどを兄妹で分担をして行っている。
ちなみに料理は兄のほうが上手だ。
私がテーブルに着くと、私の前に野菜がたくさん入った卵雑炊が置かれた。私が体調を崩すといつも兄が作ってくれる料理だ。すぐに出てきたところを見ると、私が起きる前から仕込んでいたんだと思う。
レンゲで掬って口に入れる。小さい頃から食べ慣れた優しい味が私の体内を巡っていく。
「あー、おいしー……」
黙々と食べる私の向かいの席に兄は座り、私が食べる姿をじっと見てくる。
「何?」
「……しんどいことがあるなら言えよ。俺は絶対チカの味方だから心配するな」
私が思わずふっと笑うと、兄が、なんだよ、と不満そうに口をとがらせた。
「それ、昨日ナブにも言われた」
「そうか」
兄も少し笑った。
「本当にもう大丈夫。いっぱい寝たからね」
食事が終わり、食器を洗おうとすると、兄に「今日は大人しくしてろ」と止められた。
手持ち無沙汰のまま、リビングでぼんやりテレビを見ていると、兄のスマホが鳴った。
「ナブからだ。うちに来てもいいかって」
「いいよ」
私の返事を待って、兄が返信をした。
少しすると、ナブが小さな箱を両手で抱えてやってきた。
「チカ、起きてたんだ。体調はどう?」
「もう大丈夫。昨日は心配かけてごめんね」
「謝らなくていいよ。……はいこれ」
ナブが箱を差し出した。
「小松菜も貧血予防にいいらしいから小松菜のパウンドケーキ作ってきた。食べられる?」
「食べるよ。ありがとう」
兄もそうだが、ナブもなかなかに心配性だ。
台所を借りるねと、ナブはケーキを持って台所に移動する。
私の家に小さい頃から出入りしているナブには、我が家の台所を自由に使って良いという許可を出している。
「そういや、サブスクに新作サメ映画が公開されてたぞ」
兄がテレビのリモコンを操作して、画面に出した。
「見る見る」
前世の私は乙女ゲーム好きだったが、今の私はサメ映画好きだ。ちなみに兄も好きである。
私が食いつき気味に反応すると、ナブがケーキとコーヒーを持って戻ってきた。
「ナブも見ていくでしょ?」
私が誘うと、ナブは嬉しそうに頷いた。
私たち兄妹のサメ映画好きに引きづられるように、ナブもすっかりサメ映画ファンになった。
そのまま、三人でナブの作ったケーキを食べながらサメ映画を見た。
前世を思い出す前からある、当たり前の日常だ。
今度は、今度こそは、家族も友達も悲しませることのないように生きていこう。
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