第4歌 殺されてゆく私
4-1 ほんとうのわたしのすがた
生暖かい夜の湖水に全身浸かっていた。だが、私を浸しているのは湖ではないようだった。なぜならば、この場所には空というものがどこにも見当たらず、光の無い暗闇だけが唯一認識できる環境の要素だったからだ。
それ故に、このぬるま湯の正体が、海なのか川なのか湖なのか、てんで検討がつかなかったのである。それでもそのような事はどうでもよかった。たとえ流れゆく雲や輝く星々が見えなくとも、それらに勝る安心感が、ここには満ちていた。
私は何も考えることなく、このぬるま湯に潜り込む。それだけで、これまで空虚で溢れていた内側の全てが満たされた気分だった。このままこのぬるま湯に溶けてしまいたい、そう切に願うのも当然な程に。
だが、それを妨害する雑音が耳に届いた。くぐもっていて聞こえづらいが、どうやら私の名前を呼んでいるようだった。このままずっと呼ばれ続けるのも不快なので、私は仕方なく、ぬるま湯から顔だけ出してみせた。
すると、頭上――視界の先に、何かが目視できた。
暗闇の中にそれは浮かんでいた。それと表現したのは、視線の先にあるものがいったい何なのかが全く分からなかったからである。ぼやけていて、輪郭もぐちゃぐちゃだ。こんな雑なシルエットに思い浮かぶ代物等私の頭の中には登録されていなかった。
目を凝らしてそれを注視してみる。すると徐々にそれの姿が鮮明に認識する事ができるようになり、私はあまりの気持ち悪さに吐きそうになった。
先程から私に認識される事を待っていたのは、ただの肉塊だった。それは言葉の通り肉の塊だった。粗雑に粉切れにされ、血がしたたっていて、それが寄せ集まっていた。これがかつて生き物だったなんて、信じたくもない。それではあまりに惨すぎる。そう感じたのだ。
私は、その肉塊を目にするのが嫌でたまらなくなり、再度水中へ潜ろうと試みた。だが、全身金縛りにあったようにいうことをきかず、瞼も閉じられない状態となっていた。私の見開いた両目から、涙がこぼれ落ちる。
こんな残酷なもの見たくない、気が狂ってしまう。私は必死にそう訴えた――主に胸中で。言葉も発せられないが為に、そうなるしかなかったのだ。それでも、叫ばずにはいられなかった。このままこうしてあの血なまぐささと死の香りが充満する肉塊を見せられるのは、拷問に等しい。
そうすると、私以外の声が響いた。それは私の頭の中に直接届いているようにも、この謎めいた空間全体に響いているようにも感じた。
「これがほんとうのわたしなんだよ! あんなにはもっとたくさん見て欲しいな」
嫌だ。冗談じゃない。こんなもの、一秒でも見てられるか。
「あれ? あんなって、血が好きなんじゃなかったの? それとも、わたしが嫌いなの?」
場にそぐわない天真爛漫な声が響くと同時に、肉塊が私に迫ってくる。
「あんながわたしを嫌いって言っても、それは嘘でしかないんだよ。だって、今もこうして繋がってるんだもの。ほら、見て見て! わたしだよ」
ぴちゃぴちゃ、ずるずる、と血が滴り肉が擦れる不快な音をたてながら迫ってくる謎の物体。いや、謎なんかでは無い。今こうしてこのぬるま湯に浸かる私には、あの正体が、なぜあのようになったのかが本能的に理解できてしまう。だからこそ、こんなにも恐怖に駆られ、悲嘆に暮れているのだ。
肉塊から溢れる赤い水が頬にぼたぼたと滴り落ちた。血まみれの肉の塊が顔に触れる直前、私は喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
こんなのあんまりだ、残酷すぎる!
その叫び声は、先程までの訴えとは異なり私の口から音となって外側に発せられた。それを自分自身で聞くなり、意識が現実世界に戻ってきた。私の左腕は、何かを牽制するように天上へ突き出ていた。
これまでの緊迫感が全て夢だったのだと認識するなり、一気に気が緩んだ。私は突き出た左腕をベッドの上におろし、天井には何も浮いていない事を確認すると、覚醒しきってない頭でぼうっと天井を眺めた。
目覚めたばかりの今、先程見ていた夢の内容が嫌でも脳内に浮かび上がる。できるならば思い出したくもないような気味悪い夢である事に変わりは無い。それでも、どうしても頭を悩ませる事があった。
幻のような声に何気なく問われた事が頭の中をひとりでに歩き続ける。彼女は私に質問した。血が好きなのではなかったのか、と。
確かに私はいつからか自分以外の生き物の血液を求めていた。だが、今となっては自分でも検討のつかない疑問が生まれていた。無論、生命の象徴への渇望は未だ胸に潜んでいる。だが、いったいなぜそれに惹かれるのかが、自分でもよく分からなくなってきたのだ。
それも、こうしてエドガーと共に暮らすようになってから、その曖昧な自己認識は酷くなっていった。そのような実状に不安が募らないはずもなかった。
その事もあり、私は、エドガーという人間の思考回路が本当に理解できなかった。時には自分以上におそろしい相手なのではないか、とありえない錯覚に陥る程だ。
エドガーという人間は、自分に殺意を向けてきた人間に対して、現在も違和感を覚える程親切にしてくれている。その彼の生真面目さ、あるいはお人好し加減が、一度も怖いと感じない人間が、果たしてこの世にいるだろうか。いたとしたならば、其れは余程鈍感な者か、あるいは恐怖心が欠如している者だろう。
あの日の夜、私は警察に突き出される覚悟でこの家に戻ってきた。もちろん、私を助けてくれたエドガーへの期待が微塵も存在しなかった訳ではない。だが現実的に考えて、さすがのお人好しも自分を殺そうとした人間を再度迎え入れる事は無いだろう。
エドガーがこれまでの親睦を忘れ私を追い払おうとした場合、警察に突き出してくれと頼むつもりだった。もしもそうなったとすれば、私は社会的に不利な前科がいくつもつく事になる。
だが、それでももう良いと思ったのだ。生きるか死ぬかの瀬戸際の中で流浪するくらいならば、いっその事最低限衣食住のある刑務所で過ごした方が楽だと思ったのだ。そうすれば、因縁の相手と夜闇の元で再開し、過去の罪滅ぼしを強要されるだなんて不幸には見舞われないだろうし、何より、労働や独房での質素な生活により、私の異質な性質に悩まされる時間も減るだろうと考えた。
その様な私の決意も、可能性は低いだろうと考えていた結果によって無駄となった。極寒のような緊張感も無駄にさせる、エドガーの歓迎するような態度により全て灰と化した。
だが、その灰が外界に放出された代わりに、その時私の中には何やら奇妙な熱いものが生じていた。
それは既に知っている熱のようでもあり、手に入れようとするも絶対に届かないものと似ているような気もした。当然私は混乱した。
それらの事があってから、私はこれまで以上にエドガーという人間に用心するよう心掛けた。
だが、それ以上に精神を不安で揺さぶるのは、カーヤの存在だった。
現在はもう極力あれがいる場所を意識しないようにしているが、あの日の夜は驚くべき事にあちら側からやってきた。となると、あの存在は私の意思関係なしに移動できるようになっているという事だ。これでは、いつまたあの夜のように幻覚で弄ばれるかわかったものではない。
あの日の夜というのはもちろん、私がエドガーに対して銃口を向けた日の事だ。あの日、私はカーヤなる存在によって、趣味の悪すぎるエドガーの幻覚にとらわれてしまった。そこで疑問が生じるのだ。なぜカーヤは、私の嫌がる光景をわざわざ創り出して見せたのか。
その答えは簡単だった。カーヤは、私が彼女を捨ててエドガーと共にいる事が気に入らないのだ。それゆえ、エドガーに対して嫌悪感を抱くような幻覚を見させた。そう考えるのが自然だった。
だが、そうするとなると、ただでさえ奇妙に思えていたカーヤの存在が、さらに奇妙なものとなる。ようするに、カーヤはもう完全に自我を有する一個の存在となりえたのだ。それは私の内側をじわじわと恐怖で侵食していく。
創造主が創造した相手に弄ばれるなどまるでおかしな話ではないか。
私は、あまりのおぞましさに乾いた笑いを漏らす事しかできなかった。
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