3-(5) おかえり


「ううん。今の家、別に嫌いじゃないよ。それに、近くにはるーかすがいるもん」

「え?」


 僕は一瞬、彼女の言う意味がわからなかった。


「それに、るーかすが言ってくれたように、るーかすの家に行きたいよ。でも、それだと怒られるから、できないの」


 カーヤは、普段通りの裏表を全く感じさせない態度でそう答えた。

 僕の頭の中では今、注ぎ込まれた情報の波が荒れ狂っていた。カーヤは言葉をそのままの意味で使う事が多い子だ。となると、彼女の言う通り、僕の存在が近くに感じられるような場所に住んでいると考えられる。

 いや、それよりももっと重大な部分を耳にした。彼女は家に戻らなければ怒られる、と。それはやはりそれだとカーヤの家族にとって不都合があるからだろう――それがいったいどんな事かは想像の余地もないないが。

 そんな理不尽な大人達の世界で生きているカーヤを救いたいのは山々なのだが、それは赤の他人の僕が踏み込んでいい問題では無い。僕は結局またこうして、自分の無力さを嘆くしかないのだ。


「―かす、るーかす」


 そこで僕は、カーヤの呼び声により我に返った。目の前にいる、悲惨な境遇を垣間見せない無邪気な女の子に、なんと言えば良いのか分からない。その為、ただぼうっとカーヤを眺める事しかできなかった。だが、ここで永久に思考停止している訳にもいかなかった。


「とにかく帰ろうか。その、もしかしてなんだけど」


 僕は、先程から頭の隅で考えていた事を口にする。それにはかなり勇気がいる事だったが、聞ける時に聞いておいた方が良いように思えてならなかった。


「もしかして、僕の家の方とは違う分かれ道の方にある建物に、カーヤは住んでるのか?」


 雑木林方面で僕の家の近くとなると、もうそこ以外に思い浮かばなかった。それに、もし本当にそうだとしたら、初めて会った日にカーヤが一人で雑木林にいた事も納得できる。

 カーヤは、唐突な僕の問いに対して平然と「うん」と頷いて見せた。家族から口封じを受けている可能性も考えたが、どうもそれは無いらしい。

 それとも、カーヤがあまりに純粋すぎて、懐いている相手の質問に素直に答えてしまっているだけなのか。とにかく、この事は絶対に口外しないよう心に刻んだ。でなければ、カーヤが家族にどのような報復に合うかわかったものでは無い。


 僕とカーヤ二人並んで雑木林に向かう。木々のざわめきが何処か遠くへ感じた。それは停止しようとしている思考のせいだろう。まるで粘土で塗り固められたかのように、頭部全体が重苦しかった。やがて二手に分かれる地点まで来た。

 そこでカーヤは、ごく自然な足取りで元旧軍基地のある獣道の方へ歩を進めた。僕は何も言えなかった。向こうには僕の知らない世界が広がっているように感じてならず、それが心の奥底に潜む影を呼び起こした。


「じゃあ、またね。じゃ無くて、えーと、おやすみ? こういう時って、おやすみって言うんだっけ? とにかく、おやすみ」


 そのカーヤの愛くるしい別れの挨拶に対して、何も反応できない自分。そんな立ちすくむだけの僕にお構い無しに、無邪気な妖精は獣道の向こうへ消えてしまった。そのまま僕は数分間その場で立ち尽くした。

 カーヤの後を追い掛けて、話をよく聞こうという考えも頭をよぎった。だが、それは最終的にはばかられた。流れる時間と共に、混濁した思考が元の自然な流れを取り戻した事によって。


 先程よりかは比較的冷静になった頭で再度思案してみる。カーヤは、家族と共にあの元旧軍基地に引っ越してきた――隠れ住んでいると考えるのが現実的だろう。その点は僕としては何も問題は感じない。この雑木林がロイエンタール一族の保有地であっても、あのような世間に忘れ去られた場所をどう使われようが一族にとっては些細な事だろう。

 ただ、問題はカーヤの事だった。カーヤの家族のような貧民層が、新たな住処――というよりかは隠れ家にやってきて、十分に暮らしていける程の余裕があるのだろうか。いや、無いだろう。となると、今こうして思い浮かぶ中で最も現実味があるのは、まだ年端もいかないカーヤまで労働に出ている可能性があるという事だ。

 どちらにせよ、カーヤが過酷な状況にある事は確かである。カーヤはあの家が嫌いでは無いと言ったが、それはカーヤからしてみれば当たり前となっている為不満を感じないようになっているだけであって、実情はカーヤにとって苦しいものである可能性は非常に高い。


 頭痛がした。これは不良達からの攻撃による名残ではなく、明らかに精神的なストレスから来るものだった。カーヤのように非力で、かつ可憐な容貌を持つ少女が金を得る方法ならば僕はよく知っている。それに確か、ちょうどアンナを助けた路地の辺りにはそういった女達が集うアパートがある。

 もしもカーヤがその女達の一人であるのならば、カーヤが今日このような時間帯にあんな場所に現れたという疑問が、皮肉にも解消してしまう。

 その想像するのもおぞましいカーヤについての光景と、フラッシュバックしそうになる嫌な光景を、すぐさま鋭い靄で粉切れにしてやった。自分の周囲の世界がどうしようもなく荒廃している現実に打ちのめされながら、重い足取りで普段よりも長く感じる林道を抜けた。


 だが、そういった重苦しい心地は次の瞬間には無くなる事となる。俯いていた頭を上げると、鉛のように重かった僕の全身から力が抜けていった。それと同時に、それまで僕の中を占めていたあらゆる雑念が一瞬にして全て吹っ飛んでいく。

 それはカーヤへの心配を早くも忘れた事を意味する訳では無い。ただ、それと同等の破壊力を持つ現実が目に映ったのだ。

 僕は傷の痛みも忘れ、玄関先に駆け寄った。階段式になっている玄関扉の前に佇む女の子は、僕の足音に気がついたのかやや緊張の面持ちでこちらを振り返った。

 僕は軽く息を整えながら、張り詰めた様子の女の子を見上げた。どうしたの、とは聞けなかった。当たり前のように、自然な感じで迎えてやりたかった。


「おかえり、アンナ」


 僕は頬が綻ぶのを制御できなかった。

 一方、アンナは小さい声で強がりを口にした。


「ただ、忘れ物に気がついて戻ってきただけ」


 そんなふうに言う彼女の声は震えていた。それだけでなく、寒さに耐えるかのように足も震えている。


「大丈夫、護身用のあれならちゃんととってあるから。それよりも、まだきみは鳥の彫刻が終わってないだろ?」


 僕がそう言うと、それまで俯いていたアンナは、顔を上げて僕の目をちらりと見た。それはまるで、叱られると思っていた子供が、大人に許された事に安堵するような仕草だった。


「特訓は終わらないものだよ。ほら、明日もちゃんとパフォーマンスを発揮できるように早く寝るんだ」


 僕は階段を上がり玄関の鍵を開けた。そして背中を押す事で突っ立ったままのアンナを開け放った扉の向こうにやった。それに続いて僕も家の中に入り、玄関の鍵をしめようとした。が、それは既のところで静止した。僕の耳に届いた声が、僕の動きを止めたからだ。


「私の彫刻勝手にいじってたら、許さないから」


 その緊張した声が紡いだ言葉は、短く素っ気ないものだったが、彼女の本心を推し量るには充分なものだった。僕はといえば、その言葉に対して、自分でも滑稽だと思える程の明るい声音で「そうこなくちゃ」とおどけて見せていた。

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