3-(4) 何できみがこんなところにいるんだよ!?

 目を開けるなり視界に飛び込んできたのは、意識を失った場所と同じ風景だった。唯一違うところといえば、不良の三人衆の姿が無い事だろう。それを確認するなり、後頭部に鈍痛が襲ってきた。

 おそらく、先ほど金髪の女に頭部を壁にぶつけられた時の衝撃が、未だ消えていないのだろう。現在はそれの鋭さを誤魔化していたてんかんの症状もない事で、より一層頭に重く響いた。

 だが、それよりも頭の中を刺激する音が耳に届いた。主に驚愕で。


「るーかす、やっぱり死んでなかったんだ。わくわくして損した」


 あまりに驚いて声がした真横を振り返った。やはり声の通り、隣で残念そうに眉を下げる人物はカーヤだった。今は、そんな悪趣味な冗談なんかよりも、カーヤがいるという事実の方がより大きな驚愕を与えた。


「なんできみがこんなところにいるんだよ!?」


 覚醒するなり大声を出してしまった。そのせいで既にダメージを受けていた頭が再びズキリ、と痛みを訴えた。だが、自分の頭の痛みなんかどうでもよくなるくらいに重大な状態である事は理解できた為、頭痛に構う事なくカーヤを叱りつける。


「きみみたいに小さな子がこんな真夜中に出歩くなんて、危険にも程があるだろ。なんでここにいるのかは知らないけど、とにかく早く家に帰るよ。僕が送っていくから」

「だって、るーかすとずっと一緒にいたいんだもん」

「変なこと言ってないで、さっさと帰るよ」


 僕は立ちくらみを覚えながらもなんとか路地裏の石畳の上に立った。そして済まし顔のカーヤの腕を掴んで立ち上がらせた。意外にもカーヤは嫌がる事なくされるがまま指示に従った。


「そういえば、あの人たちは逃げていったよ」


 歩き出すなり、カーヤはそう口にした。一瞬にして僕の背筋は冷えていった。


「カーヤ。もしかして、僕がされてた事見てたのか?」


 それは絶対にあってはならない事だった。

 不良と喧嘩している光景なんて、この子の無垢な瞳には毒でしかない。もしも僕の不安が本当だとすると、年長者としてありえざる姿を見せてしまった事となる。ましてや、家庭教師とまではいかないまでも、僕はカーヤに学を教えている立場だ。明らかにいけない事だらけだった。

 だが、カーヤから発せられた答えはそれらの不安を抹消してくれるものだった。


「ううん。私がここに来た時にはもう、あの人たちるーかすに何もできないようになってたよ」

「……そうか」


 僕は思わず安堵する。おそらく、僕が意識を失った事で、あいつらは焦ってあの場を逃げ出したのだろう。こんな時に持病が役に立つとは思いもよらなかった。

 そこで、ふいに意識を失う直前に見えた光景が脳裏をよぎったような気がした。けれど、それが具体的にどのようなものだったかまでは思い出せなかった。ただ、何か幻覚のようなものを見た、という自覚だけが薄らと残っているだけだった。


 カーヤに家の在処を尋ねるも、どうやら先日彼女が言っていたように、僕とほとんど変わらない所に住んでいるようだった。なんでも、途中まで僕と全く同じ帰り道だというのだ。

 あのような郊外にこれほどまでの美少女が住んでいるとなれば、自ずと目立つだろう。それでもこれまでその事実を知らなかったという事は、最近引っ越してきたのだろうか、とも考えた。

 だが瞬時にその考察は穴だらけであると自分で非難した。何せカーヤは僕と出会うまでろくな学を持ち得なかった子だ。となれば、相当な貧困層だと考えるのが自然であり、また、そのような人々がそう容易く住居を変更するなど、想像する事は難しい。

 それでも、このような事は考えても埒が開かない問題だ。何より、本人に問いただすのも気が引けたので、胸中に溜まるモヤモヤとした感覚を残したまま成り行きに任せる事とした。


 道中幾度もカーヤに話しかけられたが、まともに相手をする事ができなかった。それは未だ僕を苛む二つの痛みによるせいだった。一つは、アンナを庇った際に不良達に襲われて出来た傷が発する物理的な痛み。そしてもう一つは、あの連中から確かに逃げる事ができたであろうアンナの現状への不安だった。

 情緒不安定な人間は何をしでかすか分からない。帰る場所がないだけでも精神的に不衛生であるのに、その上不良に追い詰められるなんて事、負の感情が爆発してしまってもおかしくはないだろう。それこそ、最悪な場合、自らの命を絶つことだって―――。

 そこで前頭部ら辺が分厚い雲に覆われたように違和感を生じさせた。その信号が何を示しているのか明確に理解する事はかなわなかった。ただ、自分は何かを勘違いしているような、それとも何かおかしな現象について思案したかのような気分だった。


 そんなふうに考え込んでいるうちに、見飽きた雑木林が視界に映った。それまでカーヤの言葉に対して簡単な相打ちしかできなかった頭も、ここまで来ると活発にならざるを得なかった。


「カーヤ、きみの家はこっちの方であっているんだよね?」


 僕は、雑木林方面とは反対の道を指さしてそう聞いた。

 向こうには木々に紛れて住居が点在しており、さらに奥へ進んでいくと、こじんまりとした住宅街が存在していた。あちらへは時々散策に出かける事があったので、送るには好都合だった。

 だが、カーヤは驚くべき事に、僕の問いに対してかぶりを振った。そして、雑木林の方へほんの少しだけ駆け寄って行き、元気良く「こっちだよ! 早く」と催促してきた。僕は、面食らった。数秒の後我に帰ると、いかにも楽しげにこちらを見やるカーヤの元へ歩み寄り、未だ少し困惑しながらも彼女に尋ねた。


「ねぇ、もしかして泊まって行く気? いや、もうこんな時間だし、別に良いんだけどさ」


 家族が心配するんじゃないの、と続けそうになって、すんでのところで口を閉ざした。それはカーヤの何やら複雑そうな家庭環境を考慮しての事だった。すると、僕が再度何かを口にするよりも先に、カーヤが歓喜の声をあげた。


「るーかすのところに行ってもいいの?」

「まあ、うん。今は僕以外に住んでる人はいないし、部屋はいくらだってあるし」


 そこで僕は、思い切ってカーヤに尋ねる。


「もしかしてきみも、家に帰りたくないの?」


 辺りを沈黙が覆った。カーヤは何も答えなかった。それは、答えたくないというよりも、質問の意図が理解できていないように見えた。僕は、たった今自分が放った言葉が失言ではないか不安になった。するとカーヤは、困ったような表情で、困惑気味に言った。


「家って、どっちの家? ままがいたところ? それとも、今の家?」


 一瞬の程、息ができなくなった。僕は今度こそ確信した。僕は聞いてはいけない事を彼女に質問してしまったのだと。


 今のカーヤの言葉から、以前から僕の中で存在していたカーヤへの憶測までもが半ば確定したようなものだった。やはりカーヤの家庭環境は良くない――それもだいぶ――事が窺える。

 だからだろう。僕は、自分自身とかつての光に似通った彼女に、なるべく力になってやりたいと思うようになっていた。僕は小さな両肩をそっと優しく掴み、目線を彼女に合わせた。そして、カーヤの澄んだ瞳を真っ向から見据えながら、もうほとんど残っていないも同然な精神を削る思いで言った。


「カーヤ。どうか正直に答えて欲しい。今いる家には帰りたくないと思っているの?」


 僕は、できる限り優しい口調を意識した。そしてカーヤが自分の本心を隠さずに正直に答えてくれる事をひたすらに願った。

 だが、カーヤの反応は、僕が思っている程重いものではなかった。むしろ軽すぎるくらいのものだった。

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