3-(3) もう全てが月に飲み込まれてしまえばいい
現在も三日月は僕達を呑気に見下ろしている。僕はどこか縋るような思いでその光源を見上げながら、住宅街を歩いていく。その足はまっすぐ帰路に向かうのではなく、家とは反対方向の旧市街方面へと向かっていった。
あの大きいだけで伽藍堂な家に何となく戻りたくない気分だったのだ。虚しい気分を紛らわすにはやはり散策が有効だ、なんて頭の隅で考えながら住宅街を抜ける。思ったよりも遠くまで来てしまった。この家からの距離は僕の内側の空虚さを表しているようにも思えて我ながら滑稽だった。
もうすぐ旧市街地だというところで、野蛮な怒声が耳に届き足を止めた。どうやら路地裏で不良共が揉めているらしい。最初はそう思い、踵を返そうとした。が、その声が聞き覚えのあるものだったので、再度足は静止する事となった。
そのまま耳を済ませて、彼ら――いや、彼女らの会話を盗み聞きするよう試みる。どうやら怒りを孕んだ声で相手を威嚇しているのは少女らしい。そして、その相手も同じく少女らしかった。
その声を聴覚が処理した瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
間違いない。先程微かに聞こえてきた力のない声は、キノコを描くのが全くもって下手くそな子のものだ。それを認識した瞬間、僕は駆け足で声の聞こえる路地裏に向かった。
路地裏内の光景を直視するなり愕然とした。予想通り、圧をかけられていたのは家出の少女アンナだった。彼女は何もかも諦めたかのように、壁にもたれかかって座り込んでいた。その瞳には希望も生気も一切感じられず、ただ虚ろに沈んでいた。
「何やってるんだ、アンナ!」
僕は思いがけず声を掛けていた。思考よりも言葉が先だった。
ところが、先に僕の存在に反応したのはアンナではなく不良側、それもどこかで見覚えのある金髪の少女の方だった。他に男しかいないのを見るに、どうやら先程までアンナを追い詰めていたのは彼女らしい。いかにもがらの悪そうな男二人は、金髪の少女の背後で佇み、アンナを見下ろし睨んでいた。
が、予想外の乱入者に、金髪の少女も男共もその鋭い視線をこちらに向けざるを得ないようだった。
金髪の少女は、露骨に不快感をあらわにした。つり上がった方頬がヒクヒクしていた。
「またあんた? 男はでしゃばんなって言ったでしょ」
鋭い眼光とドスの効いた声が、彼女の尋常ではない苛立ちを物語っている。
彼女の物言いで思い出した――この連中とは、以前アンナと本を買いに言った際に遭遇した事があった。女王様らしく気取っている金髪の少女が、アンナに対して何か小言を口にしていた覚えがある。いったい二人の間にどのような因縁があるのかは知らないが、さすがにこの状況を黙って見過ごす訳にはいかない。
「何言ってるんだ、そういう君だって男を連れてるじゃないか」
「それは事実だけれど、私の場合はちゃんとコイツらに出しゃばってくるなって言いつけてあるから。だからこれは私とこの女の一対一の話なの。私達について何聞かされてるのかは知らないけど、部外者なアンタは引っ込んでて。さすがにあんたも三対二でやり合うのはごめんでしょ?」
彼女の言い分を信じるとすると、かなり筋が通っている。その上今ここに来たばかりの僕では、その彼女の物言いに疑いを向ける事ができないのが確かである。それでも、そのままコイツらの言いなりになる訳にはいかなかった。
僕は、立場上彼女の言い分に反撃できないのもあり、あえて彼女を無視してアンナの元へと駆け寄った。そして抜け殻同然の状態のアンナの両腕を掴み、彼女を立たせようと試みる。するとアンナは僅かながら腰を浮かせ、僕の顔を見てそれまでの無表情が驚きに染まった。おそらく、今初めて僕の存在に気がついたのだろう。
その推測を裏づかせるように、アンナの小さく開かれた口からは「何で、エドガー……?」という驚嘆の声が漏れていた。
案の定、ボスの背後で我慢していた男二人が阻止しようとしてきたので、僕は思い切りアンナを路地裏の外へ突き飛ばした。すぐに金髪の少女がアンナに近づこうとしたので、襲い来る男共の股下から足を伸ばす。するとボスの少女はそれに足を引っ掛け、小さく「きゃっ」と悲鳴を上げて転倒した。それを見計らい、僕はすぐさまアンナに向けて声を上げた。
「アンナ! なにトロトロしてる、早くこの場から離れるんだ!」
男の太い腕に視界を妨害されながらも、未だ事態を完全に把握できていなさそうなアンナが足をもつれさせながらも走り去っていく光景は確認する事ができた。ボスがすぐさま起き上がりその後を追うかと不安になったが、ここまでくると攻撃の対象は僕に移り変わったようだった。
金髪の少女は、怒りに顔を赤くしながらゆっくりと起き上がるなり、オロオロする取り巻き男二人を払い除けながら、僕の襟元を掴んできた。
「あんた、よくもやってくれたわね、あんたっ!」
そう叫びながら、ボスは襟元を掴んだ腕を大幅に動かした。襟元を前後に押しやられる事で僕の後頭部は思い切り壁に衝突し、まるで頭の中を大量の針で刺されているような衝撃に襲われる。これが後頭部を思い切りぶつけた事による刺激だけではない事は瞬時に認識できた。
もちろん、物理的な刺激による原因で生じた痛みも相当あった。だがそれに掻き消されないかたちで、これまでの人生において幾度も僕を苛んできた衝撃までもが、最悪なタイミングでやってきてしまった。全身が硬直していくかと思いきや、手足が勝手にガクガクと痙攣し始める。外気の冷たさが遠のいていき、意識が朦朧とし始めた。
きっとこのまま僕はろくに抵抗できぬまま、この場でリンチに合って死ぬのだろう。そう思う事は自然であったし、そうなる事を願ってもいた。このてんかんのせいで、僕は一度唯一の光を失い、そして今は命までも失いそうになっている。罪と堕落で汚れている自分にはお似合いな、実に皮肉の効いた終わりである。
そんなふうに、ぼんやりとした頭で物思いに耽っていたが、いつまでも次の攻撃がやってこない。もしや既に自分は死んでいて、感覚が失われて意識だけの状態なのではないか。だが、そのふんわりとした推測が事実である可能性は低いようにも思えた。
なぜかというと、先ほどまで僕の襟元を強引に掴んでいた金髪の少女が、なぜか今は地に伏しているように見えたからだ。それも少女だけでなく、取り巻きの男たちも同様で、うち一人は仰向けの状態で頭を掻きむしっていた。果たしてこの摩訶不思議な光景が現実であるのか、それともてんかんの見せる幻覚であるのか判断はできない。
刹那、後者の説を裏付ける光景が目に飛び込んできた。朦朧とした視界でもわかる程に可憐な銀色の乙女は、突如僕の視界に現れたかと思いきや、脱力して身動きできない状態の僕に抱きついてきた。
僕のよく知る女の子に酷似しているその子は、耳元で何か言葉を喋ったようだったが、遠ざかってゆく意識ではそれを全て認識する事はかなわなかった。
「ぱぱが―――なら、―――がいい。――でわた―――も」
水中で響くようなくぐもった音が全て終わるよりも先に、こちらの意識が途切れていった。
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