3-14 狂気の夜《再》

 ■■■■の住居に戻るなり、自室へ入りベッドの下に隠しておいたショルダーバッグを手元に手繰り寄せ、中にしまってあるピストルを取り出す。彼を手籠にできるか否か、といった疑問は一切存在しない。


 何せ、彼は私の生み出した偶像に過ぎないのだから。その為、私が脅迫すればすんなりと現実を受け入れる事だろう。そこで、自分の思考の一部分にはて、と妙な違和感を覚えた。

 現実とは一体どういう概念を指すものだっただろうか。ズキリ、と頭の奥で鈍痛がした。一体どこが現実で、何が現実で、誰が現実か。

 だが、そのような曖昧な物事に頭を使う必要などない。私をようやっとその気にさせてくれたからには、最後までやり遂げてみせるだけであり、それ以外の思考は不必要だ。ひとまず、あの青年がこの家に帰ってくるまで静かに待機しているとしよう。それまでは精神統一の時間だ。


 カチ、コチと鳴る時計の秒針の音がやけに大きく部屋に響いた。それにしても、何だかこういった事は初めてではないような気がする。そう遠くない時に、今と似たような心地で静かな殺意と共に、誰かの帰還を待っていた事があるような、そんな気がした。

 そのようなどうでも良い事を頭の片隅で覚えながら、月光だけが光源である薄暗い部屋でただただ待っていた。獲物の帰還は体感にして二時間程度後の事だった。玄関扉が開く音を、研ぎ澄まされた鼓膜が確認した。


 その瞬間、私はあの時のように――どの時だったっけ――静かに立ち上がり、獲物が彼の自室あるいは居間へ向かうまで、扉の前で待機した。そのまま耳を研ぎ澄ませ、近くの部屋の扉を開け閉めする音が鼓膜を刺激すると、音を立てないよう慎重に目の前の扉を開けた。

 あの青年の部屋までさほどかからなかった。私はノックもせずに勢いに任せて扉を開け放つ。とにかく殺したかった。一刻も早く殺したかった。そうしなければこれ以上自分がおかしくなりそうだった。


 彼は着替えの途中らしかった。そんな彼は、私の来場に気がつくなり、シャツのボタンを上から半ばまで開けているところで硬直した。ベッドに腰掛けている様子から、私がやってくるまでよほど呑気にくつろいでいた事が想像できる。

 その彼の有様が、いかにも滑稽に思えてならなかった。何故なら彼は、これからもう二度とそのような堕落の生活を送る事等叶わないのだから。


 楽しかったかい、女どもとふしだらな行為に没頭するのは。楽しかったかい、私を都合の良い存在として自己愛から生じる嘘の愛で利用してきたこれまでの嘘だらけの日々は!

 そう腹の底から嘲ってやりたかったが、それらの感情はなぜか声になって口から出る事はなく、ただ空虚な自分の内側で鳴り響くだけに終わった。


 結果として私は無言でピストルを目の前の男に向ける形となった。男は生殺与奪の権をこちらに握られているにも関わらず、慌てふためく様子はない。おそらく現状に脳の整理が追いつかず呆気に取られているのだろう。

 そんな瞬時の解釈は、瞬く間に崩れ落ちた。狼狽えるのは今こうして命の危機に脅かされている彼ではなく、彼を追いやっている筈の私の方だった。

 どうしてなのか、彼は怯える事もパニックになる事もなかった。彼の瞳は至って冷静であり、どこか澄んでいた。そして真摯に私の瞳を見つめてきた。今の私にはその瞳がどんな悪魔の瞳よりも恐ろしく見えて、ピストルを構えた腕が次第に震え始めた。

 その緊張は瞬く間に全身に広がり、気がつけば足元も震えていた。そんな私に反して、彼には震えている部分がどこも見つけられない。ただ一つ、あの恐ろしい両目を除いては。


 彼の瞳は、まるで私の行動を心の底から受容するかのような、ある種の慈愛に満ちているように思えた。それが気味悪くてたまらず、少しでもその穏やかな表情を崩したくて、私は威嚇する言葉を吐いた。


「弾はちゃんと入ってるんだからね」


 それでも彼は抵抗する事も、顔色一つ変える事もない。まるで、今すぐにでもこのピストルから弾が放たれるのを心待ちにしているかのようだった。私はそんな彼の態度が気に入らなくて、どうにか彼から命乞いの言葉を引き出せる事を願いながら、必死に捲し立てた。


「何で抵抗しないの!? このままだと死ぬんだよ、あんた!!」


 その私の声が、なぜだか今にも泣きそうな切羽詰まったものだったので、さらに私の壊れかけた精神に追い打ちをかける事となった。


「死んでも良いっていうの!? 死ぬっていう事がどういう事だか、わからないの!? あいつらともう楽しい事とかできなくなるんだよ!!」

「分かるよ。その上で、僕はもう死んでも良いんだ」


 彼は、普段と変わらない爽やかな声色で応答し、そのまま続けた。


「何より、こうした形でっていうのも、きっと運命なんだ。そうだよ、僕はきみに殺されて死ぬ事が正解だったんだ」


 彼の突拍子のない発言は理解不能だが、彼が今謎の納得感に包まれている事は簡単に理解ができた。それだけに、私の憎しみはより一層高まった。


「意味わかんない、意味わかんない! あんたはどうしてそう狡いんだよ! 私は手に入らないのに、どうして」


 あんたばっかり、と続けようとしたところで、彼が僅かに俯いて絞り出すように声をだした。その声は先ほどよりかは小さなものだけれど、強い芯を感じさせるが故に、無意識に私は閉口し、彼の言葉に耳を傾けてしまった。


「確かに僕は強欲だ。自分の人生の在り方を受け入れるべきだというのは、頭では分かっているんだ。なのに、それに逆らおうとして……本当に愚かだ」


 彼の独白は間違いなく彼自身に向けられたものだった。だが私の秘められた部分を抉り抜くには十分な力を持つ言葉の羅列でもあった。


 私は気がつけばピストルを彼に思い切り投げつけていた。放られたピストルは彼のはだけた胸元に直撃した後床へと転がり落ちた。そして衝動に任せて私は彼に襲い掛かった。男女の体格差など感じさせない程に簡単に彼を押し倒す事ができた。彼は後頭部から思い切りベッドに倒れ、すぐさま私は憎らしい首を両手で押さえ込んだ。

 先ほどだって、その気になれば彼は私など容易く返り討ちにできた筈だった。それでもそうしなかったのは、やはり彼の謎めいた決意のせいなのか、それとも私への慈悲なのか。どちらにせよ、侮辱されている心地に違いはない。


「死ね!! 後悔しろ、私を拾った事を、あいつらと夜な夜な楽しんでた事を、私に優しくした事を!!」


 そう絶叫すると同時に彼の首を絞める両手に力を込めた。するとみるみるうちに、憎たらしい童顔は苦悶の表情を浮かべ始め、うめいた。それでも彼は抵抗の素振りを何一つ見せない。


『本当に殺しちゃってもいいの?』


 沸騰し切った脳内で、誰かの声が鮮明に轟いた。

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