3-15 捨ててしまった安寧
『あんなは、わたしとおんなじで▒▒が欲しかったんでしょ。るーかすは、あんなにとってのそれみたいな大切でしょ?』
「うっぅ」
その呻き声は今にも窒息しそうな彼ではなく、私の口からこぼれたものだった。
霧のように靄がかかって聞き取れない箇所はあったものの、その言葉の言わんとしている意図は、本能的に的を射ていると感じ取る事ができてしまったからだ。
それを認識した刹那、私はこれまで以上に複雑化した自分の思考に飲み込まれそうな恐怖に陥った。そしてそのままずるずると不安の奈落に落下していった。そのせいか、彼の首を絞める力も急速に弱まっていく。それを阻止すべく、私は奈落の底に落ちながらも、どうにかしてそこから這い出る気迫で彼の首に回した両手へ力を戻そうと試みた。
だが、あいにくそれでも内側に蔓延る恐怖を打ち負かす事はかなわなかった。その恐怖は生じてから初めの方こそ漠然としていたが、精神を支配している今では、明瞭に感じられてしまう。それは、母親の死を奪った記憶や、私の下で呻いている彼との日々の記憶であり、それらの記憶が繋がる事である悲劇的な未来を連想させた。その未来は間違いなく私を完全に破壊するであろうものだった。
何かが私の頬を撫でる感触で、私は僅かに我に帰った。私の頬に触れたのは彼の指先だった。彼は、咳き込みながら私の頬に伝う涙をなぞっていた。
そこで私は、両手が彼の首元から離れて、何かの痛みに耐えるかのように彼の脇のベッドのシーツを強く握っている事に初めて気がついた。確かに私は痛みに喘いでいた。その痛みの源は心臓のようにも感じたし、腹の奥のようにも感じて、明確に判別ができない程に曖昧としていた。それでも苦しい事に変わりはなかった。
激痛に耐えきれず、とうとう私は真下に倒れている人間に全身をぶつける心地で縋りついた。シーツを握りしめる両手はそのままに、彼のはだけた胸元に涙で濡れた顔面を埋めた。そして内側から生じる自然な感情に任せて絶叫した。
その叫びは憤怒や絶望や悲愴に塗れた泣き声となって部屋に充満していった。シャツの間から感じる彼の体温は、ひたすら泣き叫ぶ赤子をあやす親のような暖かさがあった。泣き叫ぶ最中、何故か背中も温もりに包まれたように感じたが、それがいったい何によるものだったのかは定かでは無い。
やがて泣き疲れた赤子は、そのまま深い眠りに落ちていった。目覚めた時には、私は宛てがわれた部屋のベッドの上にいた。カーテンから覗く空は夕焼け色に染まっており、その赤い色の刺激のせいか、はたまた寝起きのせいか、ズキリと頭痛が走った。
何故自分が現在ここにいるのか覚えておらず、虫食いにあったようにところどころ空白な記憶は、思い起こすだけで脳に雷を走らせた。しばらくぼうっと窓の外を眺めているうち、昨夜の尋常ならざる出来事が想起された。それぞれの記憶が明瞭になっていく度に、私の呼吸は浅く速くなり過度の緊張に精神が悲鳴を上げた。
私は知らず知らずのうちに、青年の名前を――エドガーの名前を虫のような小さな声で呼んでいた。それは本当に彼をこの場に呼びたいといった心理からではなく、孤独に苛まれる病気の子供が安心感を得るために親の存在を求めるような、そういった類の呪文だった。
そんなふうに彼を求めるも、既に私にそのような資格は無いという事は自覚していた。自分はいったいエドガーに昨日どのような事をしでかしたか、それが事実である以上、私がここにいられる権利も資格も無かった。
ならば、彼がわざわざ私をここまで運んでくれた理由はいったい何であろう。普通の人間ならば、自分を殺そうとした相手なぞ警察に送り届けるに決まっている。それでも彼はそうはしなかった。その上こうして以前のように私を同居人として扱っている。
いや、生真面目なエドガーの事だからもしかしたら、私が起き次第、話し合いをしてから私をここから追い出すつもりかもしれない。
今こうして安息を得ていられるのも、彼の愚直さ故のものかもしれない。そう思うと、私はいたたまれない心地になった。それはエドガーに拒絶される事への恐怖なのか、それとも運良く得ることのできた安全地帯を失う情けなさから来るものなのかは、判然としない。
私は熟考の末、この家の主に話を持ちかけられるよりも前に、ここを後にする事を決意した。もう人から直接拒絶されるのは御免だった。
静かに部屋を出て、廊下の影から居間を覗き見ると、ダイニングテーブルに突っ伏して居眠りしているエドガーの姿を確認できた。
その際、彼の片手首のリストバンドに目がいった。確かエドガーは、いつもあのリストバンドをはめていた。そんなどうでも良い事が、今になって思い出された。
終焉になるとこれまで気にしていなかった物事まで意識してしまうようになるのは、熱中していた本を読み終える時とどこか似ている気がしなくもなかった。昨日の出来事が嘘のように呑気に眠りこけているエドガーを起こさないよう、静かに家を出た。
林道の分かれ道に差し掛かると、私はふいに変な事を思い出した。だが、頭を振り、気分を切替えようと試みる。銀色の輝きをまとった幻想の少女にいつまでも取り憑かれている余裕なぞないのだから。
そのまま何事も無いよう祈りながら分かれ道を通り過ぎると、一気に脱力する。もうあのような不可解な幻に惑わされなくて済むと思うと気が楽だ。
そこで私は、自分に生じている矛盾に気がついた。これまで鬱積してきた欲望の為に私は迫害され、こうして逃げてきた。
そこで、異端と軽蔑された私の性質を満たしてくれる存在と奇跡的に出会う事ができた。それも二人――一人は幻想だが――も。それだというのに、なぜ私は自ずからそれらを手放そうとしているのか。それはこれまでの私の苦悩を自分で嘲笑している事に他ならない。
足取りがおぼつかなくなっていく。私はとんでもない失敗をしてしまったような気がしてならず、不安という名の鎖に不快感を覚えながら、雑木林を後にした。
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