3-13 ■■■■の行く先は
銀色の幻影が何かを言ってきたが、耳に入ってこなかった。つい先程撒き散らしたばかりの嘔吐物やまとわりつく彼女の事など気にせず、そのまま林道へと足を運ばせた。
最初は視認できなかった彼の後ろ姿は、林道の半ばを過ぎた辺りから視界に小さく現れるようになった。私の両脚は知らず知らずのうちに速まっていた。それでも不思議と疲れは感じない。道中、彼に気づかれない範囲で距離をとりながらも決して彼を見失わないよう注意を払った。
林道を出ると、彼は住宅街に入っていった。夜の闇に浮かぶ大きな満月が飲み込もうとするかのように夜の街道を照らしていた。その不気味な輝きに照らされる■■■■の後ろ姿はさらに不穏に満ちていた。
私は時折、すぐ隣をついてくる空想物の耳に不快な無駄に陽気な声を黙らせながら、そのまま■■■■の大きい背中を追いかけ続けた。
道中一度だけ、二十メートル程先を歩く■■■■がふいに横をチラリと見やったが、幸いにも、その瞬間私は彼の死角にいた。どこかからか人の気配を感じ取ったのかもしれなかったが、彼はさして気にする素振りもなくある一軒家の前で足を止めた。
その一軒家は他の住居と比べるとこじんまりとしており、自家用車も見当たらない事から、学生のシェアハウスを彷彿とさせた。私はその住居から二軒程離れた辺りにある、草垣の生い茂った部分に身を潜めた。
僅かに顔を出し、■■■■の様子を伺う。玄関灯に照らされ、彼の横顔がはっきりと認識できた。あれだけ眩しかった満月は今では雲に隠れ、私の辺りを浸しているのは夜の暗闇と、それを僅かにかき消す周囲の玄関灯だけ。
何やら■■■■はその家のインターホンを押したように見えた。嫌な予感がひっそりと私を包む。
しばらくしないうちに、中開きの扉が開いた。私の嫌な予感は急速に強まっていく。そして、家の中から現れた人物によりその勘はほとんど確信に変わり、心臓が絞られたように息苦しくなった。
女だった。それも、彼とさほど歳の変わらない。若い女の瑞々しさを充分に保った美しい横顔に、雄猿共がいかにも喜びそうな豊満な肉体。しかも、その魅惑的な肉体を彼女はまるで見せつけるかのように、胸元や太ももを露出させていた。見ているだけでおぞましい光景だった。
そう。それだけでも充分おぞましいのに。女はさらに忌まわしい光景を私に見せつける事となった。
彼も彼で不愉快だった。何せ、女が突然接吻をしてきたというのに、抵抗する素ぶり一切なく、為されるがままになっているのだ。そしてさらに女は接吻したまま彼の耳を指でいじり始め、彼はその仕返しとでもいうように女の身体に触れた。二人はしばらくそのまま互いの身体を弄り続けていた。
私はすぐにでも目を閉じてここから走り去りたいのに、まるで金縛りにでもあったかのように身体が動かなかった。それだけでなく、視線も■■■■の方から逸らす事ができなかった。
すると、視線の先にいる忌まわしい二人の背後――おそらく女の住居と思われる家から、新たな女が出現した。その二人目の女が■■■■と未だ接吻中の女の頭を軽く叩くと、一人目の女は軽く笑いながら彼から身を引いた。
二人目の女は服装こそ不快でないものの、手癖が悪いにも程があった。彼と一人目の女に割って入るなり、彼の下半身を大胆にさわさわと撫でながら、反応を期待するかのように彼を見上げた。そんな事をされても彼は大した反応を示さなかった。それが不満なのか、手癖の悪い女が■■■■の胸元を小突いた。
すると一人目の女が愉快そうに笑いだした。彼は相変わらず笑顔らしい笑顔を見せない。またもや扉が開き、三人目の女が登場した。その女は■■■■を見て微笑むと、三人に早く家の中に入るよう命じたようだった。■■■■は、両手を別々の女――一人目の女と二人目の女――に塞がれながら家の中へ消えていった。
複数の猿共が完全に視界から消え失せても、私はその場を動けずにいた。フリーズした脳では運動神経に信号を送る事がかなわなかった。今ではもう世界の全てが疑わしく、ましてや自分の存在さえも酷く不明瞭に思えてならなかった。
ありとあらゆる拷問道具で精神を痛めつけられたように様々な傷みが骨の髄まで染み渡り、私の全身の骨はそれらのダメージだけで砕けてしまう程に脆いものだった。
「ね、言ったでしょ。るーかすは生きてるって」
どこからか音が聞こえたかと思いきや、背後の少女のような何かが何やら嬉しそうな面持ちで私を覗き込んできた。この彼女はいったい、なんだっただろう?
「前にるーかすに夜にも会いたいって言ったんだけど、絶対に会わないって断られちゃったの。だから、こうやってこっそりついていってるんだ。あの女の人たちも、るーかすの大切なのかな?」
不可解なこの音声はおそらく異界から発せられた代物だろう。何となくその様な感覚がした。
「ねぇ、なんでずっと黙ってるの。やっぱりわたしのこと嫌い?」
気持ち悪い。
「あんな。返事をしてよ」
気持ち悪い。
「あんな?」
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。痛い。
気づけば私は銀色に光を飛ばす害虫を押し退けていた。そして来た道を重い足で戻っていこうとしたが、途中でそれは遮断された。住宅街を出た辺りにある橋の下には川が流れていた。再び地上に顔を出した満月が映っていて、それは非常に幻想敵な眺めだった。私は思わず川辺へと足を向かわせ、水面がすぐ目の前まで近づいてくると、両膝をつき両手を地面について、水面を覗き込む体を支えた。
あの満月に行く事ができれば、私は楽になれるだろうか。
それとも、私を待っているのは楽園ではなく、虚無だろうか。
正直なところどちらでも構わなかった。
この精神的苦痛から解放されるのならば、行先に拘る必要なんて無い。
ああそれでも、腐敗したこの世界に比べて月という異世界は、非常に魅力的だ。
「あんなも、水の奥底に行きたいの?」
隣から耳障りな雑音が聞こえた。
「そんなのずるいよ。わたしだってるーかすと一緒になりたいのに。なんでままもあんなも、わたしを置いていっちゃうの?」
“あれ”の口にしている事は相変わらず理解不能だししたくもないが、ただ一つ、ルーカスという言葉が私の胸の奥を力強く叩いた。それはおそらく、同時に私のよく知る――知っていたつもりだった――あの人物を意味する言葉だったからだろう。
それまで混濁していた頭に鋭い閃光が走った事で、一気に私の思考は加速した。
私は、あのよく分からない不気味な青年を手篭めにし好き勝手利用するまで絶対に死ねない。太陽の熱よりも蒸したこの欲望から逃げる事等、到底許されない。何せ私という人間は、これまで沸々と腹の奥で煮えたぎる血への欲望を、この息苦しい社会で過ごす為に押し殺してこなければならなかった不憫な生き物なのだから。
それに何と言っても、そんな私と反して、およそ大半の人間は自分の内側から生じる自然な欲望……性欲という忌まわしいモノを、何の危機感もなく幸福な感情と共に発散できているのだ。先程の気色悪い光景からして■■■■も今頃あのふしだらな女たちと下劣な幸福を味わっているに違いない。
これを不公平と言わずして何と言おう。このまま死んでしまうのは、私という人間があまりにも可哀想だ。これまで鬱積した昂りの抑制による苦痛に耐え、親や友人には異常者と軽蔑され、幸福な時など一瞬もなかった私は、もうそろそろ救われるべきなのだ。
私は、既に散々傷ついている自分自身を救う為に、あの家へ帰る事にした。あの、底辺人間な裏切り者の住まう呪われた家へ。
帰路の途中、私の頭は氷のように冷え切り、削いだばかりのナイフのように冷え切っていた。故に何の問題行動も起こす事なく、そのまま直進に帰る事ができた。
途中まで着いてきたモノは分かれ道にて退散させた。ここで別れないと嫌いになる、と言ってやるとすんなりと獣道の向こうへ帰っていった。
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