3-12 どれが現実で、どれが幻想?
ルーカスって……エドガーの事なの?
言葉にするのも恐ろしいその一言は、案の定、私の口から発される事はなかった。
だが、半ば無意識に漏出した私の否定の言葉が間違いである事、また、カーヤの言葉の真相が事実であるという事は、頭の隅ではわかっていた。
あまりの偶然を納得させたのは、以前カーヤに見せられた腕時計だ。アレにはベルトの部分に高級ブランドのロゴが描かれており、そのような代物を買えるのは余程金に余裕のある人間だろう。
そしてそんな高価な代物を何の執着もなく手放せるのは、自分の世界をきらびやかに飾る事を知らないような、世間に無関心な浮世離れした人間だろう。それらの条件に非常に合致する人物を、私は確かに知っていた。
螺旋階段のようにぐるぐると回り続ける思考から救ってくれたのは、皮肉にも、私の手を揺するカーヤの両手だった。
「あんな、やっぱりわたしのことまだ嫌い? やっとまた呼んでくれたって思って、はなしかけたのに……」
カーヤの存在感によって我に返る。
「呼んだって……私が? ていうか、ルーカスは……」
そこでこれまで私は極めて重要な事を見落としていた事に気がついた。
「そもそも、名前が違う。私が一緒にいるのはエドガーって人だよ」
カーヤの言うお友達は“ルーカス”であって、私の知るエドガーとは名前が異なる。ならばエドガーとカーヤのお友達が同一人物であるという可能性は無くなる。なぜそんな簡単な事にこれまで気が付かなかったのか、自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
だが、その時の私は、その辻褄を合わせるある真実が存在する事を知っていながら、それを見ないフリをする事で誤魔化した。そんな真実を受容する事などできやしないと、心臓が発する謎の声に従って。だが、そんな私の自己防衛も、無垢という名の武器によって、呆気なく砕かれた。
「もしかしてあんなはまだ知らないの? ルーカスは、エドガーって名前でもあるんだよ。どっちがホンモノの名前なのかは、わたしも知らないんだ」
私の中の空気が一瞬にして蒸発してしまったように感じる程の打撃だった。それから私はカーヤに対し何も言葉を発する事ができなくなった。
つまり、私の言うエドガーとカーヤの言うルーカスが全くの同一人物であるという不可解な現象が、確定してしまったのだ。いや、どこも不可解なんかではなく、むしろ、ようやく合点がいったというところだ。
まず、行く宛てのない私に無条件で衣食住を与えてくれるような人間がそう都合良く存在する訳がない。その上、そんな彼の名前が、銀の鳥の童話の作者と同姓同名だった事。
そして、そのように私にとって都合の良い条件揃いの彼が、私の欲しいものをくれた事。これでもう全てが判明した。判明してしまった。
要するに、彼も、私の幻影の一人にすぎなかったのである。
ならば、カーヤが彼を知っているのも頷ける。彼もカーヤもどちらも私の幻影であり、その二人が何らかのきっかけで繋がりを持つ事は、どこも不自然ではないのだから。
では、私とカーヤとの間でそれぞれ呼ばせている名前が異なるのはいったいどういった意味があるのだろうか。私には、創造主である私が本来望むような呼び名を教えたところまでは分かる。だが、幻影同士のカーヤにはなぜ一般人のような名前を教えたのか。
答えは簡単だ。おそらく私は無意識下で、カーヤという幻が実際に生きているように実感できるような理由を求めていた。その結果が、エドガーが偽の名前をカーヤに教える事となり、あたかも“ルーカス”という存在が別にあるかのようにカーヤ経由で私に伝わり、カーヤという幻にまで現実味を帯びさせた。
そう、これまでの疑問も恐怖も温もりも、全ては、私の孤独が生んだ紛い物にすぎなかったのだ。
自然と頬に涙が滑り落ちた。私はまた泣いていた。だが、涙の理由は先程とは違っていた。ただただ虚しくて、伽藍堂になった心のようなものに強迫されるように泣いた。
「どうしたの? 何もかなしいことなんて、ないはずだよ」
「……かなしい? そんな感情、もうとっくに遠くへ置いてきた。私が苦しくてたまらないのは、あんたとアイツの存在そのものなんだよ」
「どうして?」
「本当に生きてない存在なんかに愛されても、嬉しくも何ともないんだよ!!」
私は、無神経な銀色の少女の首元を激情に任せて掴んだ。彼女自体は何も悪くないという事は頭では分かっていても、虚しさの根源である対象に憎しみをぶつけないと、すぐにでも自分が壊れてしまいそうな気がしたのだ。
カーヤは、唐突な私の乱暴に臆する事なく、いつもの無機質な瞳を不思議そうに瞬かせる。そのあどけない仕草さえ今の私にはこちらを朝笑っているかのように見えて気に食わない。
「まって、あんな。あんなは勘違いしてるよ」
「誰がそんな言葉に騙されるか」
私は、カーヤの襟元を掴む手にさらに力を込めた。
「言ったじゃない。るーかすは、あんなとおんなじで生きてるって」
「嘘だ。どこにもそんな証拠――」
無い、と言いかけたところで、私はハッとした。その拍子に、手の力が僅かに緩んだ。
ルーカス……いや、エドガーは、以前旧市街に出かけた際に、あの金髪碧眼の少女――昔噴水広場で諍いを起こした――に声をかけられていた。それだけじゃない。私のかわりに本を買ってくれもした。
私の煮詰まった脳は、さらに混沌さを増していく。彼が幻影だとするならば、あれらの光景は有り得ないはずだ。ならば、やはりカーヤの言う通りに彼は個として生きている人間なのか。もしもそうだとしても、新たな難問が生じる。
では、なぜ彼にはカーヤという存在が認識可能なのか。それとも、お友達というのは単なるカーヤ側の思い込みで、実際は彼はカーヤの事を微塵も知らないのではないか。カーヤが彼から貰ったという時計やカレンダーも、彼がうっかり落としてしまった物を拾っただけではないのか。
それにしても、小型と言えどカレンダーを持ち歩く人間なんているのだろうか。特に彼に至っては尚更その疑問が強まる。
短期間ではあるが、これまで同じ屋根の下で暮らしてきた。その日常生活の中で彼から感じ取ったものといえば、いわゆる世捨て人という印象だ。
自分が些か特殊な性癖の持ち主であると自覚しながらも、それを隠してどうにか社会で生きていこうとしていた私とは真反対に、彼は、そもそも初めから自分は社会に属していない人間であり、それをどうにかしようともせず、かといってそれを喜んでいるようにも見えなかった。そんな彼に抱く印象と、わざわざ毎日日付を確認する程の世界への関心がどうにも合致しない。
出口のない迷宮を彷徨っているうち、ふいに新たな可能性がよぎった。それは、できるならばよぎって欲しくはないものだった。
もしかして、これまでの記憶は、とっくに気の狂った私の妄想でしかないのではないか。
実際の私は、エドガーという青年に出会っておらず、一人で空き家で凌いでいたのではないか。
それとも、身を隠す為に、その住居に元々住んでいた青年を殺害し、ここを占領したのではないか――。
そしてカーヤという存在も、今こうして私に襟首を掴まれているこの少女も、私の壊れた脳がそう見せている幻覚。
私は、幻覚かよくわからないモノから手を離し、口元を両手で覆った。私の思考のどれもが現実味に溢れているが故に否定し切る事ができず、その不快感が吐き気を催した。そのまま堪えきれずに、胃の中の物を吐き出した。
部屋には胃酸の酸っぱい臭いが充満し、それを振り払うようにひたすら咳き込む。こうしてずっと咳き込んでいれば、酸欠で意識を失う事ができるだろう。そうなる事を望みながら酸素を吐き出す。
「あんな、ちょうどさっきるーかすが家から出てったよ。ついていってみたら、るーかすが生きてるってことがきっとわかるよ」
咳き込む私にお構いなく、一人目の幻影は妙な提案をし始めた。
私は、その提案に促されるまま窓から外へ出た。確かめたかった。彼が先程与えてくれたものが本物であるのかを。
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