3-11 久しぶりの銀色に惑わされて
自室へ戻るなり扉に背を預けると、重い体がそのままズルズルと木材をこすりながら落ちていった。扉に腰を預けると真上へ突き出た両の膝小僧辺りが隠れるように両腕で両脚を覆った。
何故だが無性に泣きたくなった。その原因は紛れもなく、まるで死んだ大切な人と再会したかのような切なさと喜びが複雑に混ざり合って、混沌な色をしたこの感情のせいだった。
少しでもこの感情に心を許してしまえば、もう後には戻れないような恐怖がはっきりとある。
できる事ならば、今日はもうエドガーには会いたくない。もしもまた彼と顔を合わせてしまえば、それこそこれまでの努力が無駄になるような気がしてならない。彼は無自覚に私の奥深くの封を解くだろう。
そうなれば、いったい私はどうなってしまうのか、そして同時に彼もどうするのか、どうなるのか――
とめどなく溢れ出る思考とそれがもたらす不安に苛まれていると、不意に、背後の扉が軽くノックされた。次いで、今最も聞きたくない声が扉越しに響いた。
「もうすぐ夕飯にしようと思ってるんだけど、体調はどう?」
声の主はそう聞いてきたきりで、入室してくる事はなかった。ひとまずこちらの反応を待っているのだろう。
何か口にしようとしても、先ほど以上に膨れ上がった恐怖や不安が、そうする事を拒んだ。何かを言ってしまえば思い切り泣き出してしまいそうだったからだ。
扉を挟んだ向こう側に佇む人物は、いつまでも応答がなくて怪訝に思ったのか、「入るよ」と言いながらドアノブを回した。扉が開け放たれてしまう焦燥から、私は全体重を背後の木材に押し付けて、生じた僅かな隙間を埋めた。
そして、半ば反射的に「まだ少し気分が悪いの」と遅すぎる返答をした。するとエドガーは、「じゃあもう少ししたらまた来るね。それか、こっちに来るのが無理そうだったら、何か軽食を作ってくるよ」と配慮を配ってくれた。私はすぐに「お願い」と答え、それを受け取ったエドガーは居間の方へ戻っていった。
安堵から思わず脱力し、丸くなるように体勢が崩れた。俯いた拍子からか、水滴が膝に滴った。その時初めて私は、自分が泣いている事に気がついた。
どうして、という疑問はあっという間に自分の中に消えていった。考えたくないだけで、本当は心の隅で自覚している。
だから私は、エドガーの事を心の奥底から憎む必要があった。ここ数日、彼と過ごしていくうちに奇妙な感覚に呑まれて、ターゲットであるエドガーを心のどこかで認めるようになっていたのだ。それが何故なのかまでは分からなかったし、分かりたくもなかった。
エドガーは軽食を扉の向こうに置いて、労いの言葉と彫刻の特訓の次の打ち合わせについては明日にする旨を伝えてきた。私はそれらに「うん。ありがとう」と短く答えて彼が退散するのを待った。
腹が満たされると、冷静な思考が戻ってきた。そのおかげで私は、先程自分の中にしまい込んでしまった、何故エドガーを認めかけていたのか、という疑問にすんなりと答えを導き出せるようになっていた。
その答えとは、実にシンプルなものだった。エドガーという青年は私と同類の、あるいは非常に近しい人種なのである。これまで自分に似た人間に出会ってこなかった私は、たったそれだけの要素でエドガーという一人の人間を受け入れてしまっていたのだ。
自分の愚かさに腹が立った。それと同時に、私は、エドガーと出会ったばかりの自分に戻れたような気がして、その安心から気分が落ち着いた。
ふいに窓を見やると、もう既に外は夜の色に染まり、その暗黒を明るい満月が照らしていた。
その明かりが妙に心地良くて、気分を切り替えて読書を楽しむ事ができた。
だと言うのに。
それは、あまりにも突然すぎた。
私は活字を目で追っていくうちに睡魔に襲われ――それは数時間前に思い切り泣いて体力を浪費してしまった事も原因の一つだろう――読んでいたページに片手の親指を挟んだまま閉じて、デスクチェアに身を委ねてうとうとしていた。
そのまどろみの世界に、場違いで耳障りな音が紛れ込んだ。最初はそれを夢の中で鳴り響いている音だと感じていたが、幾度も同じ音が連続すると、意識が僅かに覚醒してきた。私はまだ浮遊感が抜けきっていない頭で、部屋の中を見渡した。すると、不完全だった覚醒が一気に完全となった。
コンコン、コンコン。
先程から耳を苛んでいた雑音の正体は、銀色の光が部屋の窓を叩いている音だった。
「―――カーヤ………?」
その私の声は、自分でも僅かしか聞き取れない程に掠れていた。
私と目が合うなり、“それ”は、現実離れした相貌を綻ばせた。その笑顔は夜闇に紛れていても輝きを損なっていなかった。
私は数十秒――下手すると数分もの間、硬直したままその場から動けずにいた。
だって。
“あれ”がここにいる訳がない。いや、そもそも存在している事自体がおかしいのだ。
だって。“あれ”は私の願望が見せた幻覚だろう? ならば、新たなターゲットが見つかった今、私の目の前に現れる訳がないのだ。
ないはずなのに。“それ”は笑顔を崩さないまま、窓を叩き続けている。叩く手の勢いは先ほどよりも増しているように思えた。
「―――なんで」
ここにいるの、と言葉が続かなかった。それでも、向こうは私が何かを言った事に気がついたのか、“あけて、あけてよあんな”といったふうの言葉を口にしたような気がした。
その時私はほとんど無意識に彼女の方へと近寄っていった。自分でもどうして拒絶しなかったのかわからない。それでも、私の中にある信念めいた何かが私にそうしろと命じたのは確かだった。
私は片手に挟んでいた本をデスクの上に置き、頼まれた通りベッド横の窓を開けた。夜の秋の冷たい風が顔を撫でた。
「久しぶり、あんな」
懐かしい微笑みだった。それでいて、つい先程まで一緒に過ごしていたかのような安心感が胸の奥から身体中に染み渡っていった。
「やっぱりあんなとるーかすはなかよしになれたって思ったのに……あんなはもう、るーかすのこと嫌いになっちゃったの?」
「るーかす……?」
どこかで聞いた事があるような気がする人名を、私は呪文のように唱えた。それはその表現の通り呪文だった。
今の私は、ここが夢の中であるのか現実であるのか、曖昧な感覚だった。まるで永遠に覚めることのない白昼夢を漂っているようだった。
以前と微塵も変わらない銀色の瞳が夜空に溶け込む一つの星のよう。同じく以前と変わらない銀髪は夜の闇を煌々と照らしている。
それは、彼女がいる空間だけ切り取られ、代わりにこの世ではない別の世界と目が合ったような気さえする程の、幻想的な光景だった。いつから自分が幻想の世界に迷い込んでしまったのかはわからないものの、できるならばずっとここにいたい気分だった。
「うん、るーかすだよ。でも、あんなはよくままと同じ呼び方をしてるよね」
るーかす……。ルーカス。
そして、彼女の言うあんなとはおそらく私の事だ。
という事は、私は知らず知らずのうちにその人物と会っていたのだろうか。いや、それはおかしい。何せ、エドガーに誘われない限りは滅多に外出しないし、その時もエドガー以外の人間と関わるような事はしていない。
と、そこで、エドガーとの初めての外出の際、昔の記憶に良く似た少女と遭遇した事を思い出した。
秋の陽光に照らされた稲のような眩い金髪に、海のように透き通った碧眼を持つ彼女は、私とは切っても切れない不思議な縁で結ばれているかのように、数年ぶりに突如として現れた。
そして確か、そんな彼女には取り巻きの男が数人いた。その事は、たとえここが夢の中でも明瞭に思い出す事ができた。だが、その中の誰がルーカスなのかまでは覚えていなかった。あるいは、元から知らないのかもしれない。
「ルーカスってどんな人だったっけ? ごめん。誰の事だか忘れちゃった」
問いかけられた彼女は、眉を下げて不満を漏らした。
「忘れたわけないよ。だって、今日もふたりで仲良くしてたじゃない。それに、わたしと離れてから、あんなはずっとるーかすと一緒にいた」
その時、私を覆っていた白昼夢の感覚は鋭利な現実感によって削ぎ落とされた。
なんと、自分でも信じ難い事に、カーヤと別れた事を完全に忘却し、それ以前と同じような恋人に対する暖かな心地で彼女に接していたのだ。
まるで悪い精霊に悪戯をされたような薄気味悪さに背筋が凍り始める。その上、それに連鎖するように、次々と彼女への不信感が私の胸中に舞い戻ってきた。
カーヤという存在は私の抑圧され続けた願望が作り上げた夢幻である事。カーヤは奇妙にも独立した自我を有している事。そして何よりも私への打撃となったのが、カーヤには、本当に存在しているかも分からない正体不明の友人がいる事。
私は、カーヤに自分以外の存在の話をされるのがいたたまれなくて、散々利用しておきながら彼女を捨てたのだ。
だが、そんな自己嫌悪は莫大な恐怖に呑み込まれて消失した。それは先程彼女が言った言葉を、正常に稼働するようになった頭が想起してしまったからだ。
そして当然、同時にその意味理解の処理も既に行われていた。
ルーカスって……エドガーの事なの?
言葉にするのも恐ろしいその一言は、案の定、私の口から発される事はなかった。
だが、半ば無意識に漏出した私の否定の言葉が間違いである事、また、カーヤの言葉の真相が事実であるという事は、頭の隅ではわかっていた。
あまりの偶然を納得させたのは、以前カーヤに見せられた腕時計だ。アレにはベルトの部分に高級ブランドのロゴが描かれており、そのような代物を買えるのは余程金に余裕のある人間だろう。
そしてそんな高価な代物を何の執着もなく手放せるのは、自分の世界をきらびやかに飾る事を知らないような、世間に無関心な浮世離れした人間だろう。それらの条件に非常に合致する人物を、私は確かに知っていた。
螺旋階段のようにぐるぐると回り続ける思考から救ってくれたのは、皮肉にも、私の手を揺するカーヤの両手だった。
「あんな、やっぱりわたしのことまだ嫌い? やっとまた呼んでくれたって思って、はなしかけたのに……」
カーヤの存在感によって我に返る。
「呼んだって……私が? ていうか、ルーカスは……」
そこでこれまで私は極めて重要な事を見落としていた事に気がついた。
「そもそも、名前が違う。私が一緒にいるのはエドガーって人だよ」
カーヤの言うお友達は“ルーカス”であって、私の知るエドガーとは名前が異なる。ならばエドガーとカーヤのお友達が同一人物であるという可能性は無くなる。なぜそんな簡単な事にこれまで気が付かなかったのか、自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
だが、その時の私は、その辻褄を合わせるある真実が存在する事を知っていながら、それを見ないフリをする事で誤魔化した。そんな真実を受容する事などできやしないと、心臓が発する謎の声に従って。だが、そんな私の自己防衛も、無垢という名の武器によって、呆気なく砕かれた。
「もしかしてあんなはまだ知らないの? ルーカスは、エドガーって名前でもあるんだよ。どっちがホンモノの名前なのかは、わたしも知らないんだ」
私の中の空気が一瞬にして蒸発してしまったように感じる程の打撃だった。それから私はカーヤに対し何も言葉を発する事ができなくなった。
つまり、私の言うエドガーとカーヤの言うルーカスが全くの同一人物であるという不可解な現象が、確定してしまったのだ。いや、どこも不可解なんかではなく、むしろ、ようやく合点がいったというところだ。
まず、行く宛てのない私に無条件で衣食住を与えてくれるような人間がそう都合良く存在する訳がない。その上、そんな彼の名前が、銀の鳥の童話の作者と同姓同名だった事。
そして、そのように私にとって都合の良い条件揃いの彼が、私の欲しいものをくれた事。これでもう全てが判明した。判明してしまった。
要するに、彼も、私の幻影の一人にすぎなかったのである。
ならば、カーヤが彼を知っているのも頷ける。彼もカーヤもどちらも私の幻影であり、その二人が何らかのきっかけで繋がりを持つ事は、どこも不自然ではないのだから。
では、私とカーヤとの間でそれぞれ呼ばせている名前が異なるのはいったいどういった意味があるのだろうか。私には、創造主である私が本来望むような呼び名を教えたところまでは分かる。だが、幻影同士のカーヤにはなぜ一般人のような名前を教えたのか。
答えは簡単だ。おそらく私は無意識下で、カーヤという幻が実際に生きているように実感できるような理由を求めていた。その結果が、エドガーが偽の名前をカーヤに教える事となり、あたかも“ルーカス”という存在が別にあるかのようにカーヤ経由で私に伝わり、カーヤという幻にまで現実味を帯びさせた。
そう、これまでの疑問も恐怖も温もりも、全ては、私の孤独が生んだ紛い物にすぎなかったのだ。
自然と頬に涙が滑り落ちた。私はまた泣いていた。だが、涙の理由は先程とは違っていた。ただただ虚しくて、伽藍堂になった心のようなものに強迫されるように泣いた。
「どうしたの? 何もかなしいことなんて、ないはずだよ」
「……かなしい? そんな感情、もうとっくに遠くへ置いてきた。私が苦しくてたまらないのは、あんたとアイツの存在そのものなんだよ」
「どうして?」
「本当に生きてない存在なんかに愛されても、嬉しくも何ともないんだよ!!」
私は、無神経な銀色の少女の首元を激情に任せて掴んだ。彼女自体は何も悪くないという事は頭では分かっていても、虚しさの根源である対象に憎しみをぶつけないと、すぐにでも自分が壊れてしまいそうな気がしたのだ。
カーヤは、唐突な私の乱暴に臆する事なく、いつもの無機質な瞳を不思議そうに瞬かせる。そのあどけない仕草さえ今の私にはこちらを朝笑っているかのように見えて気に食わない。
「まって、あんな。あんなは勘違いしてるよ」
「誰がそんな言葉に騙されるか」
私は、カーヤの襟元を掴む手にさらに力を込めた。
「言ったじゃない。るーかすは、あんなとおんなじで生きてるって」
「嘘だ。どこにもそんな証拠――」
無い、と言いかけたところで、私はハッとした。その拍子に、手の力が僅かに緩んだ。
ルーカス……いや、エドガーは、以前旧市街に出かけた際に、あの金髪碧眼の少女――昔噴水広場で諍いを起こした――に声をかけられていた。それだけじゃない。私のかわりに本を買ってくれもした。
私の煮詰まった脳は、さらに混沌さを増していく。彼が幻影だとするならば、あれらの光景は有り得ないはずだ。ならば、やはりカーヤの言う通りに彼は個として生きている人間なのか。もしもそうだとしても、新たな難問が生じる。
では、なぜ彼にはカーヤという存在が認識可能なのか。それとも、お友達というのは単なるカーヤ側の思い込みで、実際は彼はカーヤの事を微塵も知らないのではないか。カーヤが彼から貰ったという時計やカレンダーも、彼がうっかり落としてしまった物を拾っただけではないのか。
それにしても、小型と言えどカレンダーを持ち歩く人間なんているのだろうか。特に彼に至っては尚更その疑問が強まる。
短期間ではあるが、これまで同じ屋根の下で暮らしてきた。その日常生活の中で彼から感じ取ったものといえば、いわゆる世捨て人という印象だ。
自分が些か特殊な性癖の持ち主であると自覚しながらも、それを隠してどうにか社会で生きていこうとしていた私とは真反対に、彼は、そもそも初めから自分は社会に属していない人間であり、それをどうにかしようともせず、かといってそれを喜んでいるようにも見えなかった。そんな彼に抱く印象と、わざわざ毎日日付を確認する程の世界への関心がどうにも合致しない。
出口のない迷宮を彷徨っているうち、ふいに新たな可能性がよぎった。それは、できるならばよぎって欲しくはないものだった。
もしかして、これまでの記憶は、とっくに気の狂った私の妄想でしかないのではないか。
実際の私は、エドガーという青年に出会っておらず、一人で空き家で凌いでいたのではないか。
それとも、身を隠す為に、その住居に元々住んでいた青年を殺害し、ここを占領したのではないか――。
そしてカーヤという存在も、今こうして私に襟首を掴まれているこの少女も、私の壊れた脳がそう見せている幻覚。
私は、幻覚かよくわからないモノから手を離し、口元を両手で覆った。私の思考のどれもが現実味に溢れているが故に否定し切る事ができず、その不快感が吐き気を催した。そのまま堪えきれずに、胃の中の物を吐き出した。
部屋には胃酸の酸っぱい臭いが充満し、それを振り払うようにひたすら咳き込む。こうしてずっと咳き込んでいれば、酸欠で意識を失う事ができるだろう。そうなる事を望みながら酸素を吐き出す。
「あんな、ちょうどさっきるーかすが家から出てったよ。ついていってみたら、るーかすが生きてるってことがきっとわかるよ」
咳き込む私にお構いなく、一人目の幻影は妙な提案をし始めた。
私は、その提案に促されるまま窓から外へ出た。確かめたかった。彼が先程与えてくれたものが本物であるのかを。
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