3-2 対面
普段とは異なるベッドと毛布の感触に、自分はとうとう道端で気絶でもして病院送りにでもなったのかと疑った。
だが、それにしては、辺りの風景は病室といった名には相応しくない。誰かの自室のようであった。
壁に貼られた映画かなんかのポスター、書物がめいっぱい敷き詰められた貫禄を感じさせる本棚、すぐ隣に設置してあるデスク、そしてその上には小さな鉢植えが置かれている。私の部屋とまではいかないにしても全体的にかなり質素な部屋だった。
もしや誘拐犯か。その自分の発想に、なんて馬鹿な笑える冗談だ、と胸の内が愉快に染められたが、段々と、もしも実際にそうだとしたらどうなるのだろう、と薄暗い恐怖が蔓延り始めた。
もし本当に、私をここに連れてきたのが誘拐犯なのだとしたら、どうか乱暴者あるいは変態でないことを祈るばかりである。
そう自然に流れた私の思考はごく普通な反応であるはずなのに、我ながらどこかおかしいような気がした。そこで私は思考を一旦ストップすることにした。そうすることが必然であるかのようにごく自然と思考の停止は行われた。
それと同時に、扉の向こうからコンコン、とノックする音が響いた。扉を叩いた主であろう、次いで「起きているか?」と呼びかける声が耳に届いた。その声からして、どうやら扉の向こうの相手は非常に若い男らしい。
それに対し私の口は恐怖や不安から言葉を発することに抵抗し、頭の中も真っ白で、ただ固唾を飲んで体を強ばらせることしかできない。しばらくの沈黙の後、部屋の中の人物はまだ就寝中であると判断したのか、部屋の前から足音が遠ざかっていった。
私は、謎の男が本当に部屋の付近にいはしないか、耳を研ぎ澄ませた。だが物音らしきものは一向に耳に届く気配がない。私は恐る恐る上半身を起こし、ベッドのすぐ横に配置された窓の向こうを見やった。そこから目に入ってくるのは、黒々とした木々の群れだった。
どこかで目にしたことのある風景に、思い当たるものがあった。最近まで隠れ家として利用していた廃墟を取り囲んでいる雑木林を連想させるためか、その風景は妙に見慣れて見えた。
こんな森の中にまで連れてこられたとなると、やはり不信感は募るばかりだった。私をこのベッドに寝かした男あるいは連中は、邪な考えで弱りかけた少女を軟禁しようとしているに違いない――。
こうなるならば早めに命の全てを無に帰すべきだった……そんな悔恨が痛烈に心臓を伝った。
私は、再度窓の向こうに視線をやり、そこら辺に監視者らしき人影がないか確認したが、幸運にもそれっぽい存在はどこにも見当たらない。
次いで、決して音を立てないように、静かに窓の取っ手に手をかける。相手は痛快なミスをしでかした。なぜ軟禁の対象を一階の一室に閉じ込めてしまったのか!
取っ手を握った手をそのままゆっくりと上へ動かすと、いとも容易く外との境界は開け放たれた。そのまま窓の向こうへと身を翻す。いつもは不遇に感じざるを得ない自身の小柄な体躯に救われた。
着地する際、足元にうまく力が入らずよろめいて崩れ落ちそうになったが、反射的に伸びた両腕によりなんとか最悪の事態は免れることができた。
その時、自分が身にまとっている衣服が知らないものに変わっていることに気がついた。奴あるいは奴らに着させられたのだろう。そこで悪寒が走り、嫌な想像が脳内を駆け巡ってしまった。
ということは、私を着替えさせた人間は私の裸を目にしたということか――そのうえその時の私は気絶状態である、何でもし放題という訳だ。私は、逸る心音に全身を揺らされながら、恐る恐る衣服の中を覗いた。やはり下着は取り外されている。感覚からして、それはおそらく下も同様だ。
私の身体はしぼみ、内側では何かが壊れる音が響き渡った。そして敵の近くであるにも関わらず、私はその場に倒れ伏した。そうする他なかった。そうすることしかできなかった。次第に歪みかけた脳に電流が走っていき、それは早い間隔で鋭さを増していく。今度は割れそうなまでに痛む頭部に全身を支配され、身動きがとれなくなった。
身の危険など意識する余裕もなく、あまりの激痛に呻き声が漏出した。それは付近の森に潜む野鳥さえ気が付かぬほどに小さなものだったであろうに、敵をおびき寄せるには足るものだったらしい。
窓の向こうの奥の扉を乱暴に開け放つ音が響いたかと思いきや、僅かに上の方――おそらくはつい今しがた私がくぐり抜けてきた窓からだろう――から声が降り掛かってきた。
「……! 大丈夫か」
この声はおそらく、つい先程扉の向こうから起きているか否か問いかけてきた男と同一人物だろう。
この状態では逃げようにも逃げられない。私が全神経を蝕む苦痛に喘いでいると、悪魔が芝生の上を走る音が段々と近づいてくるのが嫌でも耳に届いてきた。
「くるな……」
私の固く強ばった唇から、呻きに近い牽制の声が漏れた。
「こっちへくるな……」
今の私にはそう拒絶する言葉を口にすることしかかなわない。それでも、ろくに働かない頭であろうとも圧倒的な不利な状況であることは理解できていた。
まるで懇願するかのように、相手に対して何かを訴えかけるように、私の両手は芝生を強く握りしめる。
「もういやだ……」
私は、腹の底から這い上がって出てきた、消え入りそうな自分の声に、なんとも言えない惨めさを覚えられずにはいられなかった。
もう限界だ。これ以上苦しむのならば、いっそのことこの場で全てを終わらせて欲しかった。これまで幾度となく夢見た虚無への案内人が自分自身でないことへの不満など、持ち合わせる余裕さえ今の私にはなかった。
そんな私の背中を優しくさする手があった。正確に言えば、私はそれをこの目で確認した訳では無い。蹲り丸まった私の背中がそういった感触を覚えたのだ。
私は恐る恐る頭を上げ、目の前にいるであろう人間を見た。若い男が、しゃがんで私の背中に腕を伸ばしていた。彼の表情は、まるで私を心配しているかのような、どこか悲しそうで、それでいて何をも跳ね返しそうな程神妙な色を帯びているように映った。
私は真っ白な頭で何も言葉にできないまま、震える体を芝生に置いておくことしかできないでいた。それでも彼は嫌そうなそぶり一つせずに、体の震えが収まるまでそっと私の背中に片手を置いてくれていた。
「ごめんね。君の断りなく勝手に僕の家に連れてきてしまって。でも、そうでもしなければ、君はあのまま死んでしまいそうだったんだ」
青年は、よく見ると鳶色の艶かな髪色をしていた。それが彼の背後にそびえる陽の光に照らされて、柔らかい明かりを生み出している。
「覚えているかな、君は一昨日、川に自ら転落したんだ。無事助けられたけど、水浸しで風邪をひきそうだったし、何より心ここに在らずって感じで虚ろだった。そしてちょうどそこから僕の家が近かったから連れてきて、服だけ着替えるよう言ったんだ。……ここまでは、覚えてるかな?」
青年は、改めて問うた。
「……あ……」
そうだ、川に身を投げたような記憶がうっすらとだけ残っている。けれど逆に、それ以降は全て覚えていない。おそらくそれからは完全に乖離状態だったのだろう。
あの日私は、図書館で浜辺に関する記憶を探ろうと必死になっていた。そうすることで、自分に空いている穴の正体へのヒントが見つかるかもしれない、そんな半ば使命感に駆られて、できもしないことをやり遂げようと自分自身に多大な負荷をかけてしまった。
おそらくはそのストレスが、それまで精神の牢獄に蓄積されていた膨大な疲労と絶望を、釈放させてしまったのではないか――。
「……川に落ちたことは覚えてる。でも、それ以外は何も覚えてない」
次いで、私は両腕で微かに震えはじめる自分自身を抱きながら、彼に迫った。
「それで、私は実際に、自分で着替えたのか」
青年の表情の微々たる変化にも気づけるよう、全神経を彼の表情観察に集中させた。少しでも怪しい素振りを見せた暁には、どうしてやろうか、どうするべきか、気づけばそんな思考が脳内でうねり、低下していく集中力を何とか目前の男に注ぎ込む。
「うん。僕が替えの服を差し出すと、それを持っておぼつかない足取りながらも別室に入っていったよ。でも、そのまま数十分経っても戻ってこなかったから、部屋の扉を叩いて呼んだんだ。それでも返事がなかったから、その、申し訳なく思いながらも安否確認として部屋に入ってみたんだ。そうしたら、着替え終わった君はその場で眠っていた。……それで、えーと」
青年は、ふいに言葉を詰まらせた。
様子を見るに、青年が嘘をついているような仕草は感じ取れない。人は嘘をついたり緊張したりすると途端に瞬きの回数が多くなったり、目が泳ぐなど、わかりやすい特徴があるが、今の彼にそのようなものは一切見られなかった。
手強い青年の仮面にこめかみがひりつくのを感じながら、続いて私は青年に質問する。
「……下着。私の下着はそこにあったの?」
青年は、途端にそれまで以上の真剣な表情になった。怪しさは感じなくとも、異様な雰囲気が彼を包み始めたような気がした。
「もちろんその場に脱ぎ捨ててあったよ。――やっぱり、そうだよね。君が僕に不信感を覚えたり自分の身の安否が気になるのも無理は無い。けれど断言する。僕は一切君に野蛮な行為は行っていないよ。下着は、すぐに回収して洗濯機に入れたもの。その前に、眠った君を僕の自室のベッドに運んだ。……これがこれまでの成り行きだよ、信じて貰えるかな?」
青年は、ひたすらにとつとつと語った。まるで彼の方が下の立場に置かれているように、これまでの道程と自分の信頼性を訴えるかのように真剣に弁明した。
だが私はそのような巧妙な偽装に騙される程愚かな人間ではないと自負している。人間という生き物は嘘が上手。誰もが騙されると思ったら大間違いだ、と内心で蔑みながら返答する。
もちろん、こちらも相手を真似て、警戒心のない風を装い力無く目線を下にやった。
「……そうだったの。ごめんなさい、最近疲労感がすごくて、ほとんど思い出せない。とにかく、助けてくれてありがとうございました」
私は、ほんの僅かにぺこりと頭を下げた。演技をしようとしたところで、体が衰弱しきっていて嫌でもそうなってしまうのだ。
それから青年は私の手を取り、朝食のために家の中へ戻った。青年の後を追う最中、私の体は見知った光景を目にして氷のように固まった。住居の手前まで歩き、ようやく気がついた。
なんと、今まで自分が隔離されていた部屋は、隠れ家へ向かう際に現れる別れ道を直進した奥に存在する、いつかのアレが違和感を覚えるまでにこだわっていた建物の一室だったのである。
そして疑問が生じた。
このようなお屋敷に住めるような人間が、誘拐してまでなぜ慰安婦を求めているのか。このような立派な建物の住民であるならば、相当な金持ちに違いない。そして女は金を持った男を求める。
その上この青年は顔の造形は整っている方だ。ならば女なんて選び放題、遊び放題なのではないか。それともこれらは私の単なる偏見に過ぎないのか――。
私が玄関付近で立ち止まっていると、それを察した青年がこちらを振り返った。演技だとは思えないまでに自然な、その不思議そうに心配する表情が、不気味なまでに私の心臓に大きく映った。「どうした? 歩くのが辛いならおぶって行こうか?」青年はごく普通にそう言い放った。
その言葉を脳が認識した瞬間、なぜだか胸の中で妙な強い感情が急激に湧き上がってきて、それが締め上げるように私の内側を傷ませるものだから涙が溢れ出そうな感覚に陥った。
次いで私が感じたのは鮮烈な恐怖だった。こじ開けてはいけない扉が自然とほんの僅かに外の空気を取りこもうとした。それをなんとしてでも阻止しなければなかった。
私は、しばらく間を置いてから「平気、少しだけ考え事をしていただけ」と返答し、案ずるように近づいてくる青年の助けを借りることなく家の中へ入った。
その時から、居間のダイニングテーブルに腰かけるまで、私の足取りは頼りなくふらついていた。
青年はその間黙って私の少し後ろを着いてきた。見張られているような息苦しさの中にいるはずなのに、どこか懐かしい心地よさを同時に覚えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます