3-1 深淵

 気がつけば私は、ガラスのような半透明なようでそうではない奇妙な膜に取り囲まれていた。腕を伸ばす余裕もない程にそれは私をコンパクトに包み込んでいる。頭を回し、三百六十度見てみても、それは変わらず私を密閉していた。

 閉所恐怖症の類の人間であればとっくのとうに失神しているであろう、見事なまでの閉鎖感だった。私が意識を取り戻してからそうたたないうちに、眼前の膜あるいはガラスに、模様か何かが浮かび上がった。徐々にそれがある光景を映し出していることに、気がついた。


 それはまだ幼い私が故郷の噴水広場で金髪の少女に反撃をしている場面だった。少女は泣き始めたかと思うと、いつの間にか成長した姿となっており、つい最近遭遇した時の容貌で、涙に濡れた瞳を私に向ける。

 その瞳には怒りも苦しみも浮かんではおらず、人形を思わせるほどに無機質だった。少女と同様に初めの場面から成長した私は、狼狽えながらも謝罪の言葉を口にしていた。それに対し、少女は感情の無い声色でこう返答した。


「一度根付いた傷は一生涯消えることがないのよ。それはあなた自身もよく『知っている』でしょう」


 少女がそう言うと、砂嵐のようなものが膜全体を覆い、すぐにまた別の光景を現した。

 それは、かつて頻繁に通っていたパン屋の前で、その店の娘エマ・アムゼルに会話を吹っかけられた時のものだった。エマは、胸が疼くほどの懐かしい笑顔で、


「私とアンナちゃんは今からお友達、いいわね?」


 と言った。私はそれに対し、記憶にあるものとは異なる反応を示した。ほんの少しだけ小さく、けれど確かに相手にきちんと聞こえるように、


「うん」


 と肯定の意を示したのだった。

 その直後、周囲に広がる風景は昼下がりの街から夜闇の漂う森の中へと変貌した。私の目の前にいるエマは、先程の健康的な様子とはうってかわり、血の気のない青白い肌と生の灯火が損なわれた虚ろな眼差しだった。

 気がつけば私の足元は血の海で濡れている。その出処はエマの太腿からである。その泥のように赤黒い液体は、膜を通り抜け、傍観者である私の足元まで及んでいる。膜の内側にいる私は僅かにしゃがみ、その赤い液体に触れようとそっと手を伸ばす。


 が、突然膜の中にさした影に反応した私の手は空中で静止し、思わず膜の向こう側を見上げた。すると、屍のように生気のないエマが、膜に両手を突いて青白い額を押し当て、膜の中に閉じ込められている私を見下ろしていた。紫色の唇が蠢いたかと思うと、膜を隔てていてもなおこちらへ聞こえてくる音があった。


「やっぱり、自分が本当に求めるているものに気づいてないんだね。その愚鈍のせいで私を見殺しにしたこと、覚えてるの?」


 それが膜の中全域を揺るがしたかと思うと、またもや膜は砂嵐に覆われ、足元に揺蕩う血だまりは消え、新しい場面に切り替わった。

 それはまだ幼い私と母が列車に揺られている光景だった。車窓の向こうには海が広がっている。そこで母は、あえて臨席する私に聞こえるであろう声量で淡々と呟いた。


「あんたみたいな化け物産まなければよかった」


 その刹那、母から幾度も嗅いだ鉄の匂いが漂い始め、母は、生きていないように微動だにしない膜の向こうの私の頭を掴み、私の顔を自分の顔へと近づけた。その額には穴が開き、そこからはどくどくと赤黒い液体が溢れている。

 膜の向こうの私も母も、どちらも無表情だった。死んでしまっているのだろうか、私の瞳にも生の名残は感じられない。

 そして屍のような母は、相変わらず抑揚のない声で、私の耳元で囁いた。


「結局あんたもあいつと同類だったんだよ。何もかも他の人と違った気味悪い異常な子」


 それが耳に届いた途端に、ただの傍観者でしかない私の頭は脳みその中で巨大な虫が暴れ回っているような激しい痛みを訴え始めた。あまりの激痛に私は両手で頭を抑えて蹲る。

 それでも膜の向こうの私のような誰かは、先程と変わらず無反応だった。しばらく経たないうちに膜は例の砂嵐で覆われ、それから新しい場面が現れることはなかった。


 未だ引くことの無い頭痛に蹲る私の周囲には砂嵐の奏でる気味悪い音色が永遠に響いていた。頭痛は良くなるどころか、激しさを増していく一方である。そんな時、突如砂嵐が消え、これまで膜と呼んでいた存在も消失していた。人の気配を感じた私は、両手で頭部を抑えたまま息も絶え絶えに前方を見やった。

 すると、様々な色が混ざりあったような混沌とした気色悪い世界の遠くに、この辺りで唯一美しい色が輝いているのが見えた。銀灰色の光は、なんとなく少女のようなシルエットをしているように思えた。激しい頭痛のためか、視界が朦朧としていていまいち自分の認識に自信が持てないのである。

 おそらく、あの少女はカーヤだろう。そんな気がした。むしろ、それ以外に思い浮かぶものなどなかった。カーヤであろう少女はかなり遠くにいるにも関わらず、その口が発する鈴の音のような声は、稲妻で荒れ狂う頭の中にも鮮明にこだました。


「いくら否定してもムダだよ、あんな。だってわたしとあんなは、欲しいものがいっしょなんだもの」


 その言葉を皮切りに私の意識は覚醒した。

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