3-3 エドガー
居間は案外質素だった。促されるままにダイニングテーブルに腰掛けると、青年はすぐにゆで卵を出してくれた。私は、自分の目の前に置かれたゆで卵を、まるで知らない食べ物を見るような心地で眺めた。
一向にゆで卵に手を伸ばさない私に向かって、青年はまたもや心配そうに――本当にそうであるかのように、案ずる言葉をかけた。
「もしかして食欲無い感じ? それでも何か食べなくちゃ健康に良くないよ」
青年は当たり前のように向かいに座った。
その時、確かに私は彼を拒絶できた筈だった。それでもそうしなかったのは、身体のどこからか溢れてくる変なものに取り憑かれていたからなのだろう。
私は黙って彼に従った。一言も発することなく朝食を済ませると、静寂が訪れることなど許さないとばかりに青年が口を開いた。
「ベッドの横のデスクに一応メモ書き置いてたんだけど」
青年の口にしたメモとやらは記憶にない。なにしろ、目が覚めたらいきなり知らない人間の部屋で横になっていたのだ。混乱のあまりそんなものに気を配る余裕などあるはずがないだろう。
私は、ただ首を小さく横に振る。すると、その反応は想定済みであったかのように次の質問ははやかった。
「これから君はどうするつもり?」
すごく短い問だった。
私は沈黙で応える。正確に言えば、何も答えることができなかったのである。彼は間違いなく私を利用しようとしている――そう考えきっていたからこそ、こちらの意思を聞かれたことに意表をつかれた。
そしてますます青年のことが分からなくなった。もしここで私が帰る、とでも答えたら、彼はいったいどのような行動に出るのだろうか、と底知れない恐怖が襲う。
先程の問いかけは鎌掛けであるとなると、やはり暴力を使ってでも阻止するのだろうか。私の頭はこんがらがって、空になった皿をぼんやりと見つめることしかできないでいた。
青年はそんな私をただただ見ていた。どうやら私の口から何か発せられるのを待っているようだ。その瞳にはいつかしょっちゅう目にしたことのあるような優しさが浮かんでいるようにも思えた。
その優しさの正体は見えていない筈なのに、酷く私の内側を恐怖で満たした。私は、なぜか、目の前の男にかなわないと畏怖めいたものを覚えて、混乱した。
「……家出……家出、してきた」
私は、青年の優しい気迫に打ち負け、半ば白状めいた言葉で応答した。
それに対し、青年はあまりにも都合の良すぎる提案を口にした。
「君が嫌じゃなかったら、ここ使っていいよ。一人で住むには広すぎてね、ちょうど空き部屋が何室もあるんだ」
とんでもない内容に反してあんまりすぎる程にあっさりとした口調に、一瞬何を言われたか理解が追いつかなかった。私は、思わず頭を上げて青年を見やった。
「もちろん、食事とか服とかの生活費もこっちが用意するから気にしないでいい。金だけは大量にあるんだ」
青年は自分自身をエドガーと名乗り、私はそれに応えてアンナと名乗った。一瞬、身の安全のために偽名を名乗ろうという考えも横切ったが、私の心はそれを無視して自然体を重んじた。名前など個人を区別するための単なる記号のようなものでしかないと思っていた私にとって、この場面はいささか違和感を生じさせた。
それも、私が私自身の名をさほど意識していない故に起こる現象であるともとれた。アンナという複数の音は、いつも世界の外側にある無関係なもののように思えていた。
私が宛てがわれた部屋は、シャワールームとトイレのついた二階の奥の部屋だった。青年は去る前、庭やバスルームなど、この建物に含まれる場所は何でも好きに使っていいと言った。
私はというと、未だ現状が整理できないまま、ベッドに腰掛けていた。
どうしてこんなことに?
どうしてこんなにも簡単に?
いったいなぜ、彼はあんなにもあっさりと私の居候を許したのだろう。あの青年が何やら訳ありな上にお金持ちであることはこれまでの会話内容からも、こんなに立派な家に一人暮らししている事からも大いに推測できる。
となるとやはり、下心だろう。どんなに金があっても、薄汚い本能が満たされることは無いということだ。
だがそれよりも、急に安静な日々を約束されてしまったことに対する動揺の方が大きい。これまでの非日常体験がまるで夢の中の出来事であったかのように私の中で違和感を放っていて仕方がなかった。
疑問に思う物事、恐ろしく思う物事、それらの様々な感情が思考の海を掻き乱し、いったいどれから考えれば良いのか整理できずに混乱するばかり。
刹那、鮮明に脳裏を駆ける、ある言葉があった。
――わたしとあんなは、欲しいものがいっしょなんだもの。
その言葉は不意に、思考の汚濁の中をまるで風のように横切った。その風を起こしたのが何者であったのか、ずきんずきんと脈打つ頭痛に阻まれ思い出すことはできない。
それでも、私の目的、私の魂に課せられた使命を心の中に甦らせてくれた。
私は探し求めていたのではなかったか。いつからか空いていた胸の空洞の正体、そしてそれを埋めるものを。
徐々に冴えつつあった私の頭は、ある可能性を提示した。自分が今ここにいるのは、気まぐれな天からのチャンスなのではないかと。
より具体的に言えば、完全に油断しきっているあの青年を、本能を満たすために利用できるのではないか、ということだ。
あれは男だ。そして私は一応女だ。同じ屋根の下で暮らしていれば、相手はおのずとそういう気になるであろう。そもそも、彼がここに私を置いてくれると口にしたのはそういう目的である可能性が高い。九割そうだろう。
そしてもしもその時が来れば――隠し持っていた刃物なりで脅し、私の支配下に置けばいい。だが、そう簡単にいくわけもあるまい。下手にやらかし警察に突き出されでもすれば、それこそ本末転倒だ。
いや、そうなる前に殺してしまえばいい。まさか奴は、私がこんなことを目論んでいるなどと想像だにしていないだろう。
世界に絶望し、自ら命を断とうとしたお年頃の家出少女、そんな印象に違いあるまい。なぜなら人間は、自分よりも弱いと確信した相手にはやたらと優しくするものだから。
そういえば、青年の名乗った名前であるエドガーという文字の羅列は、どこか聞き慣れた……いや、読み慣れた綴りだった。そんなふうに感傷に耽りかけたところで、ぼんやりとだけ思い出したことがあった。
確か、私が幼い頃に大好きだった絵本の物語の原作者がそんな感じの名前だった気がする。というのは、その絵本はある有名な小説を童謡風にアレンジしたものであって、その原作小説を手がけた人物がエドガーという名だった、ということである。
当時の私は毎晩布団に潜りながら、その絵本を脳内で何度も再生していた覚えさえある。そうにも関わらず、残念ながら、原作小説は未だにお目にかかれていない。あの図書館に置いてあるだろうか……今度探してみよう。
そう思ったところで、扉をノックする音が響き渡った。
私は機械じみた心地で扉の向こうの人物に入室を促す。「今、少しいいかな?」とエドガーは遠慮がちに尋ねてきた。私は無言で頷いた。思ったよりもはやい展開に全身が張り詰める。
負けるな、お前ならできる。そう自分に言い聞かせ、どうにか慌ただしい心音を鎮めようとした。エドガーは、ベッドに腰掛ける私の向かいの床に腰を下ろした。
まずは私から何かを言った方が有利になるかとも思ったが、それに引きかえ私の心はしたいようにしてくれない。有効になり得るような言葉が、頭の中にてんで思い浮かばない。
そんなところで、やはり、エドガーに先手を打たれてしまった。
「体調はどう? ……っていっても、そんな短時間じゃ良くならないよね」
「何が目的なの?」
気づけば私はそう口走っていた。即座に胸中でまずい、と自分を戒めた。反抗的な態度に愛想を尽かされここから追い出されてしまえば、元も子もない。
私の淡々とした言葉に、エドガーは一瞬ビクッと体を震わせた気がした。そして先程までとは打って変わり、どこかぎこちない笑みをつくり、口を開いた。
「いや、その、アンナはまる二日間もの間眠ってたんだよ。それくらい疲労が溜まってるっていう証拠だ。そうともなれば心配くらいするだろう」
「そんなに、眠ってたの?」
私は、心中のどこかで納得を覚えながらも、意外そうな声色を意識した。もしもここで納得したような素振りを見せれば、これまでどんな目にあっていたのか、等と詮索されかねないと思ったからだ。
「今もまだ顔色が悪いね。もう少し安静にしているといい」
エドガーは、ほんの僅かに眉を顰めたかと思うとそう労いの言葉を口にした。それに続いて発せられた台詞は意味不明なものだった。
「落し物なら、代わりに僕が探してくるよ」
私は、目の前の人間の言った言葉の意味が心底理解できず、ただ呆然とすることしかできずにいると、エドガーは首を捻った。
「あれ? もしかして僕の聞き間違いかな? キミが何やら探し物をしているっぽい言葉を呟いてた気がするんだけど」
その刹那、私の中の大事な何かが汚されたような感覚に襲われた。
「探し物なんて、ある訳ない」
私は、強い口調でそう言い切った。反吐が出てしまいそうなレベルに不愉快だったのだ。それはまるで自分の内側を無遠慮に覗き見られたような苛立ちだった。
第一、私が家を出てきた理由の一つである「探し物」は目に見えるものではないような気がしていた。故に、他人からの助力は得られないに等しい。
エドガーは、相手の地雷を踏んだ事に気がついたのか、慌てて場を取り繕うとした。何か食べたいものや飲みたいものはあるか、暇つぶしとしてしたいことはあるか、と尋ねてきた。
私は、特に何も腹の中に入れたいとは思わない。なにしろ食欲がない。それでも確かに、このままずっとこの部屋にいるだけでは退屈なばかりか、何もすることがないせいで嫌なことで頭の中が埋め尽くされそうな気がしてならなかった。
故に私は、本を読みたい、と要求した。
すると、青年は一瞬不思議そうに表情を固めてから、どんな本が好きなのかと問うてきた。この家にありそうならば持ってくるし、なさそうならば買ってくる、と。
正直、そのようなおせっかいには居心地の悪さを感じるものの、安定した生活の享受のためには耐え忍ぶしかなかった。ここは無難に近代文学の作家の名前をあげた。
それならばうちに置いてあった気がする、と言い青年は早速該当する本を探しに部屋から出ていった。
気づけば、私の中でもう彼はエドガーではなくただの青年になっていた。どうせ互いに利用し合う関係だ、名前などろくに覚えておかなくても良いだろう。
ふいに横に目をやるとデスクの上に、先程朝食の際に青年が口にしていたものであろうメモ書きが平然と置いてあった。そして私はハッとした。今のうちに、この部屋のどこかに凶器になりそうなものはないかと周囲に目を配る。
もしかしたら、青年が戻ってきてからそういった展開になるかもしれない。欲望の為にならばそれまでの芝居を捨てて本性を剥き出しにできるのが男という生き物だ。
だが、つい先程まで空き部屋だっただけあり、デスクの引き出しには何も入っていない。そこで自分が焦っていたことに気がつく。
何も初回で仕掛ける必要はない。むしろ、数回ほど体を許すことで相手を大いに油断させることが可能だろう。その間が苦痛を超えた拷問ではあるが、この状況下では仕方がない。自分は何よりも安定性を重視する方だった。
そうこうしないうちに青年は戻ってきた。慌ただしそうな足音が近づいてきたかと思いきや、ノックもせずに扉を開けて入ってくる。その片腕には三冊の文庫本が抱えられていた。
「こういうのあったんだけど、どうかな?」
エドガーとかいう青年が見せてきた三冊の本にはどれも見覚えがあった。その著者の代表作とも言える古典的名作たちだった。
「全部知ってる。ありがとう、どれも私が好きなやつだ」
「読んだことあるのか、全部? どうせならまだ読んだことない作品の方がいいんじゃないかい。ほら、うちには他に何にもないし、新しいものに触れた方がより充実した時間になるんじゃないかな」
そうは言われても、私は返答に困った。私は、気に入ったものなら何度でもそれに触れるのが好きな性だった。子供の頃、銀の鳥の絵本を気にいるあまりそれ以外読むことを断固して拒絶した程だ。
それに、青年……エドガーも気に食わない。より充実した時間を提供したがる度を越した世話焼き、あるいは打算が、鼻について仕方がない。
「ここから町までそう遠くないし、図書館とか本屋に行くっていうのもありかなって思ったけど、今のその状態じゃ無理そうだね」
エドガーとかいう青年は一人で勝手に話を進めていく。どうやら私自身にはあまり興味がないようだ。
「じゃあ、今日のところはこれを読んでて欲しい。体調が良くなったら、町まで一緒に行こう」
「え? いや、さすがにそこまでしてくれなくても……」
「言ったろ。金ならいくらでもあるって」
エドガーの野郎は、気持ち悪い程に晴れやかな笑顔で、つい先程聞いた言葉を再度口にした。そしてそれから「あ、でも僕大学があるんだった。予定が合う日に行こう」と付け加えた。
私は咄嗟に、そんなに世話を焼いてくれなくていい、と反撃に出ようとしたが、すんでのところで思い止まった。
ここは従順でいた方が、より向こうをその気にさせるだろう。そうだ、今の私は奴にとって都合の良い存在だ。そう自分に言い聞かせ、静かに頷いた。
すると、エドガー野郎は満足し切った笑みを見せ、本をデスクの上に置いてから部屋を後にした。
その直後、それまで固まっていた疲れが一気に溶けて、全身を飲み込んだ。どうやら自分はかなり緊張していたらしい。
デスクに置かれた本のうち一冊をなんとなしに手にとり、ベッドの上に仰向けになって天井を仰ぎ見た。まだ本の表紙を捲る気にはなれなかった。
私が実際に読書を開始したのは、それから数十分とも感じる長い時間が経過してからのことだった。
私が手にした作品は長編物語で、五百ページ越えの分厚さを誇る代物である故、すぐに読み終わることはなかった。ちょうどクライマックスに差し掛かったところで、エドガー青年が夕ご飯を持ってきた。
「僕、夜からちょっと用事あるから家空けるね。もしまたお腹空いたりしたら、あるものなんでも食べていいから」
そうか勝手にしろ、と内心で呟きながらハムとチーズが乗った皿を受け取る。それらを平らげた後、私は再度読書に耽った。読み終える頃には時計の針がちょうど九時をさしていた。
本をデスクに戻し、他のものと取り替えようとしたところで、ガチャン、と玄関扉の閉まる音が響いた。先程口にしていた通りエドガー青年が家を空けたのだろう。
奴がどこへ何しに行こうがどうでもよかったので、さして気にもとめずにこれまでと同じように活字の世界にのめり込む。
やけに静かな夜だった。かつて実家だったところも静かではあったが、私の内側はあまり静かとは表現できない状態だった。
なにせあの不気味な生き物と家族として同じ屋根の下で暮らしていたのだから。あの頃と比べ、今は私の世界の邪魔をする者は存在しないし、その影も感じない。それは到底言葉に表せぬ程、心地の良いものだった。
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