第3歌 安息の日々

3-(1) 明けない夜

 川辺にて助けた女の子は丸一日たっても目を覚まさない。それどころか、このまま数日間はこの状態なのではないかとさえ思わせる程の熟睡ぶりである。様子を見にくる際、まるで彼女は永遠の眠りについているように思えてならず、その都度彼女の呼吸を確かめている。


 これではまるで眠り姫。姫様はいったいいつになれば起きるのです、と冗談まじりに胸中で呟いた。その馬鹿げた問いに対し答えを提示したのは自分だった。おそらくは最低でもあと半日は眠っているだろう。瀕死の雛鳥が回復までに少々時間がかかることは何よりも僕自身が心得ていた。

 これでは、眠り姫が目覚めるまで外出できないではないか、と思案したが、彼女の眠っているベッドの横にメモでも置いておけば、向こうもパニックにはならずに済むし、あらぬ誤解を受けることもないだろう、とすぐにこの事態の解決策を見出した。よって、大学やカーヤと約束のある日には、事のあらましを記述した紙切れと、それと一緒にリンゴ一つを女の子の横のデスクに置いておくことにした。


 こうしたあらましにより、現在僕は名も知らぬ眠り姫を自分の部屋に寝かせたまま、別の人間の家で夜の時間を過ごしている。今晩はマリーの家の寝室にマリーと僕しかいなかった。結局マリー一人相手が最も気楽だが、事後はなるべくなら一刻も早く場を退散したい。

 なぜならマリーは、無遠慮に人の心の中に入ろうとしてくるからだ。所詮自己満足のための相手でしかない人間に、自分の内側を曝け出すなど、吐き気を覚えて仕方がないのだ。そしてやはり予想通り――というか普段通りの馴れ馴れしさで、踏み込んできた。まあ、今回の件に至っては、以前同じ話題を持ち出したのが僕の方からなので、自業自得といえばそうでしかないのだが。


「まだあの女の子に教えてあげてるの? 本の読み方」


 シャツのボタンを閉じている間にその問いは降りかかった。思わず眉を顰めそうになったが、質問者に背を向けているのが幸いした。その何気ない鋭利な問いに、僕は淡々と答える。今日はもう長話はしない、という意向を含めて。


「約束は約束だからね、当然守るよ」


 僕のぶっきらぼうさにはもう慣れてしまったのか、僕の意に反してマリーは相変わらずずいずいと来る。


「やっぱり子供には優しいんだ。ちなみにその子ってどんな子なの?」

「……おい。僕もあんたも都合の良いだけの関係だろ。そこまで詮索して何になる」

「もう、そんなに嫌いにならないでよ。まったく、相変わらず人間嫌いなんだから」

「ああそうだよ。人間なんて嫌いさ。特に、あんたみたいに非常識で無遠慮な女がな」


 淡々と言葉を口から吐き出し終えるやいなや、熱い霜が心臓に張り付くような痛みが襲った。僕は知らず知らずのうちに僅かに俯きかぶりを振る。過ぎ去った雑念はこの女と出会い全く別の自分になった頃に置いてきたはずなのに。それでも今しがたマリーに向けて放った言葉が、もういないある人間に向けられているようで、そんな事を口にした自分と今この瞬間このような罪悪感を覚えている自分に嫌悪感が湧く。


「じゃあね、女嫌いのルーカス君。また今度楽しみにしてるからね」


 黙りこくっている僕の異変に勘づいてか、マリーは早くも別れの挨拶を口にした。こういう時には気の利くマリーの性分があったからこそ、これまで僕は夜のくだらない戯れに身を任せることができていたのかもしれない。僕は、ただ「悪い」とだけ言い残し、マリーの家を後にした。帰路の途中、マリーとの会話が何となしに脳裏に浮上した。

 ちなみにその子ってどんな子なの?

 次いで連鎖するようにカーヤの天真爛漫な笑顔が浮かぶ。カーヤは誰がどう見ようと絶世の美少女だ。その上無邪気で素直な、それこそ無垢という言葉が似合う、関わりを持てば誰も嫌いになどなれないような女の子。――第一印象はそうだった。


 だが、そんなごくシンプルな印象は本日上書きされた。カーヤが先日図書館で選んだ絵本の冒頭に、雛鳥が巣から落下し死ぬ場面があった。それが原因だった。

 僕は、子供向けの絵本でこのような描写はあまりに残酷なのではないか、とカーヤの心境を案じた。それは一人の大人として当然の心理だっただろう。が、結果として僕の心配は大きな杞憂に過ぎなかったのである。

 カーヤは例の場面を目にするなり、隣の僕を見上げて言った。それも、嬉しそうな声色で興奮気味に、「ねえ、このこ死んだの? 死んだの?」と。その時僕は、てっきりカーヤは死の概念がよく理解できていないが故に好奇心を駆られたのだろうと解釈した。恐ろしさを全く覚えなかった、と言えば嘘になる。だが、そうでも考えなくてはこのカーヤの反応はかなり不自然だ。子供には無垢故の残虐性というものが備わっている時期はあるが、そういった関心とはまた違うもののように思えたのだ。

 僕は、若干焦りながらも、そうであると答えた。


「そっか。それじゃあこのこ、ほんとうのほんとうにままみたい」


 僕は、カーヤの台詞の意味を理解するなり頭の中が漂白され、何も喋れなくなった。

 カーヤの母親は転落死しており、もうこの世には存在しない。その事実だけでショッキングであるのに――カーヤの明るい性格からは想像ができないから余計に――カーヤは、それを悲しむどころか全く反対の感情を胸の内側に膨らませている? もしかしてカーヤの母親は、彼女がまだ幼い頃に亡くなっていて、娘にはその悲壮がわからない? そもそもカーヤは、死というものについて本当に何も知らないのか?

 それらの思考と同時にある光景が脳に浮上しそうになり、すんでのところで阻止する。記憶の奥底に押し込むようにして封じられた光景はほとんど砂嵐で覆われていたため、次の瞬間には完全に忘れていた。僕は雑然とした脳内で半ばこんがらがりながらも、あまりに幼すぎるこの少女に、何か言葉をかけてやらなければと遥か彼方を浮遊する単語をつかもうとした。が、それよりも先に、カーヤが再度喜ばしげに口を開いた。


「るーかすもそうおもうよね?」


 カーヤのその問いかけはどう考えてもおかしいものだった。何といったって、僕はカーヤの母親を知らない。故に、僕は混乱のあまりついカーヤの話を聞き漏らしていたのだろうと思案した。適当にそうだね、とでも相槌を打とうとも思ったが、それによりさらにカーヤの母親の話が続くかもしれないと考えると億劫だった。これ以上憂鬱な気分に染まりたくない。

 そのため、僕は正直に「ごめん、僕にはそれはわからない」と吐露した。他にもっと良い言葉があっただろうが、その時の僕は咄嗟のことにそう言ってしまった。するとカーヤは、それまで期待に満ち溢れていた両の瞳に失望の色を宿し、捨てられた子犬のように寂しそうに表情を変えた。


「るーかすはわすれんぼうさんなんだね」


 ぎくりとした。まさか、話をろくに聞いていなかった事を見抜かれるとは思いもしていなかったのだ。これこそまさに年長者の驕りというものだろう。僕は、なんだか子供に叱られたようでなんとも言えない気分になった。

 それでも、ここで何かを口にしなくては、さらにカーヤに失望させてしまうだろうことはわかっていた。故に、苦し紛れではあるものの、率直な疑問を投げかけた。


「……どうしてそんなに嬉しそうなんだ?」


 できるだけ柔らかい口調を意識したが、自分の口から発せられたそれはどことなく張り詰めていた。


「あのときままはね、わたしに夢をくれたの。とてもとても幸せな夢。それを叶えるために、こうしてるーかすとなかよしになったのもあるくらいなんだよ。もちろん、それがなくてもるーかすのことは大好き」

「夢……?」

「いつかままみたいに、大切な人といっしょになるの。この夢は、ぜったいに叶えたい。今のわたしが生まれた意味でもあるんだから」


 言葉にならない切ない感情が喉元まで込み上げてくるのがわかった。

 この時の僕は、瞬時にそのカーヤの夢を、美しいものであると認識したからだ。母親を早くに亡くしているカーヤだからこそ鮮明にそして独自に理解出来る、命の尊さ。その限られた時間の中で、自分より一回りも幼い少女は、母親の果たせなかったパートナーとの生涯の付き添いを精一杯やり遂げようという信念を大きな心に抱いている。この歳の段階でそこまで生の在り方について豊かな視点で見れる子供はそうそういないだろう。


 まさしくカーヤは僕とは真反対の存在だった。僕は今のカーヤくらいの年齢の時、いったい何かを考えて、何かに情熱を注いでいただろうか。そしてそれを、自分の存在を肯定した上で、こんなにも堂々と、眩しい瞳で語ることができただろうか。相対的に「僕」という存在がこれまでよりさらに小さく醜いものに思えてきてならなかった。


「……それは、とてもいい夢だ。本当の、本当に」


 それしか口に出すことができない自分がもどかしかった。もっとカーヤに、彼女自身の素晴らしさを教えてやりたかった。それでも僕は年甲斐もなく嫉妬にも似た感情も同時に覚えていた。さして良いとは言えない自分の境遇を言い訳に世界に絶望し、自分の世界を彩ることがついぞかなわなかったいつかの自分の影が、未だに胸の奥底に潜んでいたのだろう。

 それでも僕は、自分が一応大人であることは自覚していた。自分より一回りも幼い女の子に気を遣わせるような真似は恥ずかしいというものだ。そうはいってもこれ以上この話題を続けたくはない……そんな薄暗い心緒が場を切り替える言葉を発させた。


「じゃあ、次のページに進もう」


 それからも醜い少年時代への悔恨は心の奥底で密かに蠢いており、その薄汚い魔物が芯まで這いつくばってくるのを牽制するつもりで、小さな読書会を続けた。

 なぜ僕はカーヤのようになれなかったのだろう、と無意味に悔いる感情を決して直視しないように。

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