2-(5) 運命と出会う夜

 放課後になり、僕は図書館へと足を向かわせる。退屈な気分を紛らわすには学内にある樹木が立ち並ぶ広場の散策でも良かったのだが、なんだか今日は重厚な本の香りを味わいたい気分だった。

 サークルにはどれにも入っておらず、僕に学友と呼べるような人間は存在しない。

 元来、人と関わり合うのが苦手な性分であるうえ、僕の姓名を知った者は、大概が別の世界の住人を見るような目で見てくる。


 あたかも違う生き物にやるようなその視線は快いものでは無かったし、元から人間関係を深く築くことへの関心が薄い為か、自然と僕はそれがありのままの姿であることを知らしめるかのように、普段誰とも接せずに過ごした。

 大学生ともなると一匹狼は少ない方ではないが、そういった大学での僕の生活スタイルと夜の遊び人ぶりがイメージに合致せずに意外なのか、マリーを筆頭に夜を過ごす女の中で同じ大学の者は、やたらとプライベートについて詮索してくる。

 その好意だか好奇心だかよく分からないアピールには、こちらから別の話題を切り出すか無視するかで対応していた。


 マリーが同じ大学に通う学生であると知ったのは、町中で彼女に出会ってからだった。

 彼女との馴れ初めについては、自分でも納得はいっているとは思うが、あまり思い出したいものでは無いのは確かである。僕が彼女の家の前で倒れていた時、僕は相当やつれきっていたそうだ。

 思えばマリーは、そんな特殊な遭遇について、これまで一度も詮索を入れてきたことがない。

 そういう関係になった当初こそは僕の趣味や家族など、かなり個人的な事柄を執拗に聞いてきたが(今でも時々そういうふうにこちらの世界に踏み込んで来ようとしてくることはあるが)本来、僕と彼女二人について肝心な出来事である筈のあの日の詳細については、互いに口にしたことがなかった。

 まるでこちらを労わっているかのようなマリーの態度には正直なところ救われるくらいだ。僕としても、あの時のことについてはどんな僕の個人情報よりも口を割る気など起きやしない。

 それでも過去は過去だ。振り返っていても仕方がない――それは理解している。故に僕は昔の自分とはおさらばし、別人とも思えるまでの新しい自分となった。


 それでも、それを感じさせるような、回顧せずにはいられないような力が、僕をかつての僕の世界に閉じ込めるかのように外から襲いかかってきたら、その時はいったいどうすればよいというのだろう?

 それ程の強大なものに対抗する術を持つ程僕は強い人間なんかではなかった。

 むしろ、あまりに弱すぎたから――僕は、自らの悔恨が生み出した誤った感覚に無自覚にこうも侵されてしまうのだろう。

 それは図書館に足を踏み入れ、自習席の横に配置された、新しく入荷された書籍コーナーでのほんのひと時。いつもと何も変わらない見飽きた風景にただ一つ、新しい要素がぽつんと、それでいて僕の世界限定での存在感を放ちながら存在していた。

 ここは一般公開もされている故、学内で見かけない顔を目撃しても何ら珍しいことではない。


 だが、今回は自分にとって特別な目撃だった。降り積もってゆく罪の音にも気付かぬ程に、僕という愚鈍な人間はただ一人の見知らぬ人間に意識を持ってかれていた。

 横で何やら考えに耽るように神妙な面持ちをし頬杖をついている少女の視線は、机上の写真集に落とされている。ちらりと視線に入っただけでも、その写真集がどんなものであるか分かった。そしてどの写真のページであるかも。

 なぜなら自分も、一時期酷くその写真集の同じページを見ていたからだ。あの写真集はここら一帯の地域の風景が収録されており、今現在彼女が開いているページには、町に近い海岸が写っている。何の変哲もない、どこにでもある浜辺。

 それでも僕にとってはある残酷で、特別な意味を持っていた。だからだろう、それを見る人物に対して特殊な興味を抱いた。


 書籍を選んでから、相手に怪しまれないようにさりげなく前の席を通る。

 その際、ほんの僅かだが彼女の容貌を確認することができた。彼女の懐かしい瞳の色に僕の心臓は大きく反応を示した。

 その時の感情は同志を発見したような喜びに満ちたものではなく、まるで、果てしない苦痛の海から救い上げてくれる救世主を発見したような心地だった。

 彼女の座っている席の斜め後ろに腰を下ろす。彼女は写真集の隣にノートの紙切れのようなものを置き、何かを書きとめようとしているかのようだった。だが、彼女に握られたペンは一向に動く素振りを見せない。

 ストーカーじみた行為であることは自覚の上で、間隔をあけては彼女の方へ視線をやった。

 お前の使命は今ここに在る――そう神に告げられているかのようだった。幾度も彼女の横顔を見てある確信を得た。

 先程前を通った際に視界に映ったヘーゼル色……あれは僕の幻覚などではない。


 時間が経つにつれ、彼女の神妙な面持ちは、深刻さを増していくように見えた。僕はというと、ここに来たのはほんの少しの時間潰しのつもりが、予期せぬ事態によりほぼ一日まで引き延ばされてしまった。

 つまり、彼女は閉館時間までここを離れなかったのである。

 その頃には彼女の面持ちは苦しみを堪えるような痛々しいものとなっており、館内の方は人影は僅かなものとなり、それらの大半がそろそろと退館していった――彼女と僕二人を除いて。

 係員が僕たちの方にやってくると、僕は鞄を机の上に置き、おもむろに荷物をまとめる素振りをし始める。そのおかげで係員からの注意の言葉を免れたが、問題は斜め前の彼女の方だった。

 係員が閉館時間を超えた旨を伝えても、彼女はどこか上の空で、短く力無い返答をしてから紙切れをリュックにしまい、手元の書籍を戻しに行った。

 その際彼女は僕の真横を通り過ぎたのだが、あの疲弊しきった表情からして彼女が何かに追い込まれているのは一目瞭然だった。


 彼女の動向がどうも気になって仕方なかったが、さすがにこれ以上長居するのは係員の顰蹙を買いそうだったので、例の女の子よりも先に退館する。

 依然として胸中はあの運命めいた目撃に焦燥を募らされていたが、僕の足はまるで何事も無かったかのように街道まで歩を進めた。そこまでは順調だったものの、再度あの女の子の影が心臓にさすと、石にでもなってしまったかのように両足は動かなくなってしまった。

 もしかするとこの機会を逃せばもう二度とお目にかかれないような気がしてならなかった。そうとはいってもいきなり話しかけても不審だし、何より、本来ならば正常に働いているが今ばかりは怠惰を謳歌している理性が、まだほんの僅かに仕事をしている。

 そんなふうに自分の本心もよく分からないままに、背後から足音が聞こえてきた。


 駄目だ。お前は今自分自身で定めた正しいレールの上から大幅に逸れようとしている。

 幾度も僕自身を咎めた魂の訴えが、今回ばかりはこれまで以上に強烈に内側に響き渡った。

 その咎めに全身を硬直されているうちに、例の女の子が通り過ぎてしまった。

 相変わらず顔色の悪い彼女は、僕の存在など気にもとめずに重い足取りで街道を進み、そしてそのまま町外れの方へと歩いてゆく。

 幸か不幸か、結局それに着いていくかたちで僕も帰路に向かうこととなってしまった。

 なんと、彼女の歩いていく方面と僕の家の方面が偶然すぎる偶然に同じだったのである。新たな道が現れる度、さすがにもうここでこの偶然は終わるだろう、と、自分を戒めるような、そしてそれを少しばかり誤魔化すようななんともない調子で心の中で呟いた。


 が、そのどれもはこの奇妙な帰り道の終焉とはなりえなかった。

 彼女の帰り道が自分と同じ方面であることも僕の間違いを後押しした。本来ならばその時点で内省するべきなのに、とうに狂い始めた心は自身の過ちと愚かさにも気づけずに、そのまま自己愛めいたものを精神に撒き散らしていくばかりであった。

 やがて彼女とその少し後ろを歩く僕は雑木林へと突入した。これまた不可解なことに、これまでずっと着けているかのように背後に存在する僕に、彼女は全く気づいていないふうなのである。

 そのことからも、そして先程のやつれ具合からしても、周囲に気がまわらない程の深刻な精神状態であることが窺える。

 まだ手入れのされている方である夜の林道は、ざわざわと木々が風にざわめく音もさながら怪しげな雰囲気に包まれている。

 ここに入るよりも少し前から若干そんな気はしてたが、彼女はもしや、帰路に向かっている訳ではないのではないだろうか。いやそうに違いない。何せここの林に住居と呼べるようなものは僕の自宅しかないのだから。

 ならば彼女はいったいなぜ、わざわざこんな奥まった場所までやってきたのだろうか?

 その疑問が生じた刹那、虫の知らせとでも言おうか、嫌な予感が強烈に、まるで閃光のように全神経を駆け巡った。


 そしてその知らせが本物であったことを証明するかのように、彼女は、ふらふらとした頼りない足取りで道中に流れる川へと向かっていく。

 彼女は川岸まで辿り着くと、それまで片側の肩にだけ背負わせていたリュックをするりと地面に落とし、ぼうっと水面を眺め始める。その横顔は静かな憧れと、僅かな幸福の色が滲んでいるように見えた。

 僕はほとんど直感から後方の片足で地面を蹴り、前方の足を勢いよく前へと突き出した。それと同時に彼女の片足も水面の上空に浮かんだかと思うと、そのまま彼女ごと川へと落ちていった。僕は駆けると同時に上着を脱ぎ捨て、彼女をさらった水中へと飛び込む。

 幸い、僕はそれまですぐ後ろを歩いていたうえに女の子が落下した時間と僕の反応した時間がほぼ同時であったため、すぐに彼女を抱き抱えることができた。

 何より彼女は片腕でも収まるのではないかと思うほど小柄な体躯だった。そんな彼女を抱き抱えたまま地上へと上がるのはそこまで難しいことではなかった。


 女の子の肩を抱き、彼女の顔に張り付いた前髪を掻き分け、声を掛ける。「大丈夫ですか」、あまりの事態にそれしか口から出てこない。

 その呼び掛けに対し、ぼんやりと虚空を見やる女の子は、応答なのかよくわからない言葉をその小さな唇から零す。


「探さなきゃ……私だけの……………」


 探さなきゃ。まるで訴えるかのように、あるいは何かに取り憑かれているかのように、その言葉を幾度も途切れ途切れに口にした。


「何か落としたの?」


 そう問いかけるも、まるでこちらの存在を認識していないかのように、噛み合った返事をくれはしない。相変わらず、彼女は「探さなきゃ」と繰り返している。


「とにかく探し物は後にしよう。このままだと風邪引くから、とりあえずここからすぐ近い僕の家まで連れてくからね」


 この状態では相手に聞いたところで意味が無いだろうと判断し、ほとんど抜け殻状態である女の子に先程脱ぎ捨てた上着を羽織らせてから肩に乗せ、川岸に落ちている彼女のリュックを拾う。

 夜の冷たい秋風も水浸しでありながら尋常ではない焦りのせいかさほど気にならなかった。短い帰路の最中も、女の子はずっと同じ言葉を繰り返していた。

 衝動に任せて行動したのはいったいいつぶりだろう。自分のことながらその身勝手さに辟易する。それでもこれは――この名も知らぬ少女を救うことは、僕にとって生きる意味を見出させてくれる唯一の救いであることに変わりはない。

 そうだ、この今にも事切れてしまいそうな程にか弱い少女はこの僕の行動によりなんとか一命を取り留めた。それが素晴らしいことには何も変わりないではないか。

 現実を忘れかけている自分の熱い心臓にそう言い聞かせ続けること数分、見飽きているどころか愛着さえ覚えることのない我が家まで到着する。


 ひとまず女の子を居間のソファにおろし、すぐ隣にあるヒーターを点灯させる。次いで浴室から持ってきた大きめのタオルで全身びしょ濡れの彼女をなるべく優しく大雑把に拭いてやる。

 依然として彼女の瞳は虚ろなままだった。どこか違う世界に居るようで、こちらの存在にまるで気付いていないかのようになされるがまま。何度か声をかけるも、彼女の口からは応答らしいものは何一つ返ってこず、相変わらず「探さなきゃ」みたいなことを蚊の鳴くような声で繰り返すばかりで会話が成立しない。

 こんな状況なのにも関わらず、案外今の僕は冷静な方だった。すぐに彼女が着れそうな服を探し、いくつかピックアップして彼女に渡す。それでも彼女は自分が今どこにいるのかわからないといったふうに、受け取った衣類をぼんやりと見やるのみ。

 ただ、一言だけほんの小さな声で「暖かい」と自然に呟いた。その時、ようやく彼女はこちらを――僕を見た。そして掠れた声でひとりごとじみた問いを投げかけてきた。


「お父さん……?」


 ああ、これではいくら呼びかけたところでダメだ。そう判断するには十分な一言だ。

 僕は諦め、空想を彷徨う女の子の肩を大きく揺さぶり、なんとか彼女をこちらの世界へ呼び戻そうと奮闘する。


「このままじゃ風邪引いちゃうからとにかく着替えて、僕は出て」


 いくから。そう言葉を続けようとした途端、女の子はまるで僕が見えていないかのように服を脱ぎ始めようとした。僕は慌ててそれを静止し、すぐに居間から飛び出した。

 そしてその時、自分自身も雨でずぶ濡れだったことにやっと気がついた。本当なら今すぐにでもシャワーを浴びたいところだが、あの女の子の存在がある以上そうもいかない。ここはひとまず水滴をタオルで拭き取り、簡単な私服に着替える。

 居間に戻るタイミングが非常に難しいため、せめてあちらから出てきて欲しかったが、あの様子ではそうもいかないだろう。僕は、居間へ向かって声を投げかけた。だがそんな小さな試みもことを成さず、恐る恐る居間の中へ視線をやる。

 女の子がいるであろうソファ付近には彼女の衣類が散らばっており、その奥に倒れている足が見えた。急いで駆け寄ると、どうやら彼女は再度眠りについたようだった。服だって乱雑ではあるがきちんと着替えている。


 ひとまず女の子は僕の部屋のベッドまで運んでいった。先程までとは打って変わり、すやすやと心地良さそうに寝息を立てている。

 自室を後にすると、彼女の下着を同じく脱ぎ捨てられた衣服で覆い、それらをまとめて洗濯機に放り込んだ。

 この時の僕に、それからのことを深く考える余地などなかった。疲れたからとりあえず、といったノリで身元のわからない女の子のことなど重く捉えずにシャワーを浴び、居間のパーソナルチェアで眠った。

 ただ、一つ確かに言えることは、この時この瞬間の僕は、酷く満ち足りた気分であったことだ。

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