2-9 追求

 ひたすらに思考を空白に維持しながら目的地へと歩いた。それはまるで、「海岸まで歩いていく」という脳から伝送される指示に従うだけの機械のような心地だった。

 おそらくそうにでもならなければ、考えうるあらゆる可能性――私にとって良いものも悪いものも――にたった一つだけの心臓が耐えられなかったのだろう。


 潮風の冷たさなど感じない程に、今の私の中には目的の遂行しか存在しなかった。そのまま砂浜の奥の方へ歩を進ませ、岩礁の突き出た浅瀬に出る。

 すると前方に人影が見えた。どうやらかの人物は突っ立ったまま祠の前にある一際大きい岩礁に視線を落としているようだ。

 それを認識してもなお機械のような私は期待に胸を弾ませることも無く、その人影へと接近していく。

 するとその人影はこちらの気配に気がついたのか、俯いていた顔をこちらに向けた。私と視線が交差すると、少年は、さしてこちらに興味無さげにすぐに視線を大きい岩礁へと戻した。

 私は彼の背後へとまわり祠の中を覗いたが、それでも少年は言葉を一言も発さない。そして案の定、窪みの中には新鮮な香りを纏った花束が置かれていた。

 それを置いたと思しき人物は、未だに微動だにせず自分の世界へ入っている。


「ここにはよく来るんですか?」


 気づけば私は、その背中にそう問いかけていた。まずは目的達成の為の第一歩、それだけを考えて、彼の返答を待つ。

 しばらくした後、彼は静かに振り向いて、口を開いた。やはり彼の顔にはそばかすが散っている。


「ここは人が来るような場所じゃないんですよ。今後一切ここへ来ないで貰えますか」


 そう言い放った彼の瞳には、明らかな拒絶の色が浮かんでいた。それでも私は無機質に口を動かした。


「私、ここに来てから不思議なことが立て続けに起こるんです。それと何か関係があるのでしょうか?」


 少年の眉が、驚愕か怒りからかあるいはそのどちらもからか、ぴくりと動いた。そして即座に瞳を鋭くし、強めの語勢で怒りの言葉を言い放つ。


「知らない、そんなの。きっとこことは無関係でしょう」


 少年はその場から動く素振りを見せない。おそらく、私を今後ここに来ないよう完全に説き伏せるまで解放しないつもりだろう。ということは、ここは彼にとって相当大きな意味のある場所ということになる。私はいかにも奇妙で堪らないといったふうを装って少年に尋ねる。


「ここである少女と会ってから、その子が頻繁に私の元に現れるようになったんです。しかもその子、どうやら私以外の人には見えないらしくて……。私の体質上、こういった例は過去にもいくつかあるんです」


 その時、それまで不機嫌そうだった少年の表情が初めて真剣なものへと変わった。それを確認してから、続けて私は語る。


「そして再度ここを訪れたら、ここの祠みたいな場所に花束が備えてあって……。そこでやっぱり、と私の直感が的中したのを確信したのです。……失礼を承知で窺います。ここでどなたか亡くなられたのでしょうか?」


 少年は私が語る最中、まるで偶然発見してしまった知らない世界を眺めるような、途方に暮れた瞳で話を聞いていた。

 私の思惑から生じる見え方なのか、それは私に視線をやっているというよりも、それよりもさらに奥にある、彼しか知りえない出来事を振り返っているようにも感じた。

 彼は私の長い語りに応答することなく、数秒間沈黙を貫いていた。それは答える気はない、といった意味合いではなく、あまりの唐突な私の発言に呆気に取られ、思考が追いついていないように見える。


 私は確信した。やはり、ここではかつて何かの命が潰えた過去がある。

 少年のこの困惑のしようも当然といえば当然だろう。既に死んでいる自分にとって重要な存在が幽霊となってそういう素質のある人間の前に現れていた、など、それ程心惹かれる話もないだろう。

 一つ目の目的が達成したことに満足を覚えながらも、思考は次の段階へ入っていた。次に探るべき情報は、カーヤの中身がその故人であるかどうかを、どうにかしてこの少年から判断してもらわなければならない。

 そこで、それまで遠くの彼方へ思いを馳せるようにどこでもない場所を見つめていた少年は、久しぶりに口を開いた。


「それが……俺の姉だって、確証はあるのか」


 なるほど、と私は心の中でかつてない納得感を覚えた。それまでもやもやと私の脳の一部を覆っていた気味悪い霧が、この少年の一言により一気に晴れていったようななんとも言えない心地に、氷と化していた頭が僅かに楽になったような気がした。

 死んだのが兄弟ならばここまで頻繁に供養に来るのも頷ける。しかも彼からユーレイ(嘘)と故人の照らし合わせを望んでくるとは、これもまた好都合である。

 だが、なぜだか少年は、まるで何かに怯えているように……あるいは苦しみを覚えているかのように、口元を片手で隠し、視線は下の方へ向けられていた。


「なるほど、お姉さんがここで……。ごめんなさい、嫌な記憶を思い出させてしまいましたね。そこで、その子……私以外に見えない不思議な子の特長なんですが」


 いかにも申し訳なさそうに視線を斜め下に向け、再度少年の方へ戻す。

 と、思わず狼狽えてしまった。つい今しがたまで苦しそうな仕草をしていた少年の眉は僅かに寄せられ、目は見開かれ、それまで以上の鋭い眼光の中で蠢くブラックホールのような黒目が、私を見据えている。

 彼は間違いなく強烈な緊張を覚えていることが肌にまで伝わってくる。少年の追い詰められているとも感じとれる気迫やひりひりと重苦しい空気に全身を射抜かれながら、私は、それに決して負けないよう、見てくれの部分は隠しながらもカーヤの内面の特長をなるべく細かく説明するよう努める。


「ええと、その子の外見は真っ黒で見えないんです。ですが会話は普通にできます。話していくうちにわかっていったのは、彼女はまるで世間をあまり知らないような幼い子供のように純粋無垢であり、それでありながら、とても少女とは思えない程の死生観の持ち主であること。そして本を読みたがり、今は」


 瞬間、息が詰まった。

 少年の顔面が、逃がすものかとも言いたげな恐ろしい程の速度ですぐ間近に接近してきたのだ。私は反射的に顔を仰け反らせるが、その接近と同時に私の両肩は強く掴まれた。出会い頭とはまるで別人な少年は、血走った眼で、怒鳴り声にも近い大音声で問いを投げ掛けてくる。


「それはどんな本だ!!」


 この並々ならぬ反応から、ああ、これはもう間違いないと、これまで以上の確信を得るはずだった。そして本来ならば二つ目の目的も達成した気になり、次の段階へ進むはずだった。

 だが、この少年の反応はそれら全てを打ち砕く予想外の要因となり得た。あまりの少年のこの必死で殺伐とした気迫に打ち負け、それまでよりも頭の中をうまくコントロールできなくなってしまったのだ。

 故に私は脳内で計算もできずに、ありのままのことを自然に答えることしかできない。


「あの、有名な銀の鳥の童話です。でもあの子、うっ」


 私の肩を掴む少年の手の力が、ぎりり、とさらに強まる。骨が軋むのではないかと心配になるまでの痛みに、私は呻く。


「――あの野郎……。いったいどこまで……死んだ後まで姉さんを苦しめるつもりか!!」


 少年が、深く息を吸い込んだかと思うと、腹の奥から叫び散らした。

 少年の激情に当然ながらついていけない私は、しどろもどろになりながらも遮られてしまった台詞を続けて語る。


「でもあの子、字の読み書きができないらしくて……」


 その途端、少年の手の力が弱まった。


「姉さんは字の読み書きくらいなら最低限はできる。ならやっぱりそれは、姉さんじゃない。別の人間の魂だ」


 少年の分厚かった気迫がいくらか弱まった。台詞の最後の方は、まるで納得させるように自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。やっと少年の手が肩から離れ、私はヒリヒリと痛む両肩をさする。

 平生を取り戻した少年は、「見苦しいところを見せてすみませんでした。その、最後に一つ質問いいでしょうか」と、光の宿っていない瞳で問いかけてきた。私は、喋る気力もなくこくんと頷く。


「その子は、何歳くらいでした?」


 そうだ。考えられる精神年齢はかなり重要な情報だ。なぜ思い至らなかったのか、と内省する。


「……だいたい、十歳くらいかと」


 カーヤは外見は十二歳くらいだが、中身は実年齢よりも幼く思える。つい今しがた故人とは別人だと言い切ったくせになぜそのようなことを、と疑問に思いながらも、だいたいの感覚で返答した。


「……そうですか。ちなみに、姉が亡くなったのは姉が十七の頃です」


 少年はそう口にすると静かにこの場から去っていく。私は、遠くなっていく背中をいつまでも眺めていた。その背中が視界からいなくなっても、伽藍堂な頭のまま、呆然とその場に立ち尽くすことしかできないでいた。

 それから頭の整理にしばらくかかったものの、カーヤがここで亡くなった者の亡霊でない事実が証明されると、それだけで気分は少しばかり軽くなるものだった。


 好奇心と言うのだろうか、それとも当然の疑問と呼べばよいのだろうか。なぜこのような場所で人が亡くなったのだろう……それが引っ掛かる。

 真上を見上げると、視界に移るのは断崖絶壁である。誤って転落してしまったのか、それとも誰かに突き落とされたのか、はたまた自ら命を絶ったのか。考えられる可能性としては断然、自殺だろう。いったい誰が危険極まりない崖っぷちにのこのこ足を進ませるものか。

 それに、あの少年の、岩礁へと注いでいたなんともいたたまれないようなしんみりとした表情。身近な人の死んだ場所に来れば、死因がなんであろうと、その多くが同じように感傷にふけることだろう。


 だが、少年は確かに口にしていた。「あいつ、いったいどこまで姉さんを追い詰めるんだ」……朧気だが、私に掴みかかりながらそのようなことを叫んでいたのは記憶に確かだ。

 ならばやはり、何者かによって精神的に追いやられた人間が、終わりの見えない暗闇から解放される手段として死を選んだというのが適切だろう。

 私は、洞窟へと向き合い、静かにゆっくりと瞳を閉じて心の中でアーメンを唱えた。

 あなたの魂は主がお導きになられるでしょう……牧師のような真似をして、私はささやかな慰霊の言葉を心中で続けて唱えた。神の存在などこれっぽっちも信じていないが、故人が生前どうだったかは分からない。故に、弔いの方法として無難なものを選んだにすぎない。同じ死に魅入られる魂の同士として、何か少しでも言葉をかけてやりたかった。


 カーヤについて一つの説……それも最有力であったものが消失したとなると、これまで以上に考察が難解になるのではないかとも一瞬思ったが、そうでもなかった。むしろ、カーヤは本当にただのイマジナリー的存在でしかないのではないか、そちらの考えに吹っ切れることができた。

 強い自我だの、私の知らない友人の存在など、それらのどこに問題があるというのだ。幻想がリアルさを増していくのは、それ程までに自分の世界が明瞭に構築されつつあるという証拠ではないか。

 それなのにいったいどうして、こんなにも私の全身はざわめいているのだろう。無意識下でこの海岸に特別な何かを募らせていることに心当たりがないからだろうか。


 数年前の誕生日に初めてここを訪れ、そこで不思議なオーラを醸し出す女性と遭遇したことは覚えている。もしかしたら、当時のその女性への憧れめいた感情が強烈なばかりに、ここが自分にとって「特別な場所」と刷り込まれていたのかもしれない。それか、元々そこまでここの海岸にさほどの意味はなく、私の単なる考えすぎという可能性だってある。

 いったんこのことは忘れよう――そう自身に言い聞かせるが、なぜだか私の心はどうしても、この場所へのこだわりを手放そうとしない。それは、私の求めてやまない何かがここにあるもしくは関連している、そう暗示しているように思えてならなかった。


 そこで私はそんな自分の心境に違和感を覚える。

 そうだとすると、カーヤはどうなる。カーヤは、私が探し求めていた何かではなかったというのか?

 自分に流れる自然程、誤魔化しようのないものは存在しない。自然とそう思えてしまったということはそういうことなのだろう。

 いつの間にか、頬に冷たい涙が滴っていた。旅の終わりが見えない虚しさから流れたものであるのか、それとも、一時期銀の鳥と信じて疑わなかった自分への哀れさから溢れたものであるのか、当の私自身には分からなかった。

 それから数分ほど潮風を浴びながら地平線の向こうを眺めていた。あの向こうへ辿り着くことができれば、私の荒廃した世界に色彩が訪れる。

 ……これではまるで、初めてここにやってきた日に女性と別れた後、娘に意識を寄せることなく海の向こうへ思いを馳せていた母と同じではないか。

 何かからの助けを待つような、当時のあの母の姿――。

 もしかしてあの時の母は、今この瞬間の私と同じような感覚だったのだろうか。私は、その重なり具合になんとなく嫌気がさして、海岸を後にした。


 次に足を運ぶ場所はどこにしようか、などとわざわざ考える必要は無い。相変わらず頭部の鈍痛や胸中の気持ち悪さは消えていないものの、館内の落ち着いた雰囲気と充満した本の香りは、私を拒むことなく歓迎してくれる。今日一日中続く拭えきれない気分の悪さを払拭したいが為に、連なる本の背表紙を慎重に目で追っていく。

 すると、現状の私にはちょうど良さそうなタイトルが目に止まった。それはここら一帯の写真集らしく、試しに手に取ってページをめくると、素朴な風景写真が謙虚な様子で載っていた。

 私はその書籍を腕の中にしまうと自習席に腰を下ろす。頭の鈍痛は未だに過ぎ去る予兆を見せない。それに抗う気分と共に写真集のページをめくり、体調の悪さを誤魔化すように切り取られている数多の風景に思いを馳せる。


 ある風景を目にした途端、時が止まったかのようだった。先程滞在していた場所が、紙の上に忽然と広がっていた。そばかすの少年と会話したあの奥まった場所まではさすがに写ってはいなかった。

 が、砂浜と打ち寄せる波や、どこまでも広がる二つの青い世界を遮る地平線が、確かに私の目の奥へと侵入してゆく。私はすぐにリュックからノートとペンを取り出した。ノートはそのまま置くと邪魔になるので、一ページだけ切り取って、本体はリュックにしまった。

 何か思い出したら即座にメモできるように紙の上に置いた利き手にはペンを握らせている。粘土で塗り固められたような頭を片手で抱え、浅くなってゆく呼吸など問題ないと強く自分に言い聞かせる。

 今の私の中は砂浜海岸の風景だけで満ち溢れ、乱れつつある思考は虫食いのようにところどころ穴の空いた記憶と例の風景の照らし合わせを強制した。

 それだけが今自分にできる唯一のことだった――いや、しなくてはならないことだったのである。

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