2-8 混沌

 またもかの「お友達」の名前が彼女の口から発せられ、うんざりとした。カーヤに友達ができることは良いことではあるが、それは彼女の世界にしか存在しない空想の産物だ。

 だが、空想上の存在がまた空想上の人物(あるいはそういった設定)を創り出すなんて、果たして必要のあることなのだろうか。


 隣を歩く空想に対してよく分からない気持ち悪さ……あるいは、違和感を覚えた。

 私はそんな新しい空想人間をこれっぽっちも必要としていないのにどうしてカーヤは執拗にその設定を強調するのだろうか。

 まるで本当にその「お友達」が存在しているようで、それでいてカーヤにさらなる大きな自我が育まれているような感じがして妙に気味が悪い。

 つい先程まで心地の良い安寧に包まれていただけに、それを害された私の苛立ちは相当なものだった。

 故に、私は初めてカーヤに対して、強めの語勢で言葉を放ってしまった。


「悪いけど、私はそのお友達を知らないし、興味もないの。それにその子ってカーヤと同じように創造した本人にしか見えない存在でしょ。つまり、残念ながら私にはその子と接点を持つ機会がないの。もう今後いっさいそのお友達の名前を口に出さないで」


 口にしてから、幻想であれど無垢な子供相手にどうしてそんなに突き放すような冷たい事を口にしたのか、と僅かに良心の咎めを覚えた。

 カーヤが例のお友達の存在をチラつかせる度に、どうも苛立ちが募るのだ。それはまるで、自分の産んだ登場人物の主導権を誰とも知らない他人に握られているような、また、創造主である自分がいつの間にか誰かに付け足されていたよく分からない設定に置いてけぼりにされているような、そんな理不尽な気分だった。


 そんな私の不快を訴える発言に対し、カーヤは、悲しむでもなく怒りを露わにするでもなく、恐ろしい程に平然と受け答えをした。


「ううん、それは違うよ、あんな。るーかすはわたしと完全におんなじではないの。それに、あんなたちみたいに生きてるから、その、せってん?っていうのも持てると思うよ」

「その子が生きてるのはカーヤの世界でだけなんだよ。その子はカーヤが無意識に創り出したから、カーヤ以外の人には見えないの。だから……」


 そこで私はハッとした。自分で言っておきながら、その発言にとても考えられない要素が含まれているのに気がついたからだ。幻が、無意識にイマジナリーフレンドなど創り出すものだろうか。

 無意識というものは意識を有しているからこそ発生するものである。では幻想に意識があるというのだろうか。それに、イマジナリーフレンドの創造となると、おそらくは多くの脳の機能を使用していることだろう。それは他の無意識な行動と比べてはるかに難易度が高いに違いない。そんな高度なことが、ただの幻想にできる訳が――。

 迅速に駆け巡る思考の途中で、再びカーヤが口を開いた。


「あれは間違いなく本物だったよ、ニセモノなんかじゃない。それに、とけいっていうものだってくれたんだもの」


 そう言うとカーヤは、スカートのポケットから腕時計を取り出し、「ほら」と言って私に見せた。確かにそれは腕時計に違いなかった。

 それもよく見てみると、革製のベルトにブランドのロゴが入っている。そのブランド名を目にしたらひと目でわかる。それはそこらの一般人が購入できるような名ばかりのものではなく、富裕層を対象にした高級な代物である。それは同時に、偶然拾うことは有り得ないということも意味する。


「いや、そんな訳……」


 そこで私は気がついた。現にこうして、ルーカスとやらから譲り受けたというものが目に見えているということは、カーヤの「お友達」は本当に存在する――生きた人間ということになる。

 そう思った刹那、そのような説は嘘っぱちで全てカーヤの妄想でしかないといった可能性の方が十分に有り得るのではないか、という考えが浮かんだ。だがそうなるとカーヤが生身の人間同然の自我を有しているのは明らかだ。

 狂ったメリーゴーランドのように回転し続ける思考。そんな混沌とした精神でも、愉快なものは愉快だった。ただの空想の産物が、まさかこれ程までに成長を遂げるとは予想だにしていなかったのだから。いやもうこれは幻とは言えない、一つの命、と言葉を選んだ方が的確だろう。


「ははっ」


 私の超常的なまでのソウゾウリョクが我ながらとても信じられず、あまりの凄さに思わず笑ってしまった。もしかしたら自分は、本当に人間ではなくて、それ以上の能力を所持した上位種なのではないかとさえ疑ってしまう程だ。

 そこで人間じみた何かが、花が咲いたような明るい笑顔で、人間のように声を出した。


「そうだ、こんどるーかすに会ってみてよ! あんなもるーかすもどっちもわたしの大切だもの、きっと仲良しになれるよ」


 カーヤがそう言い放つと、私の全てはほんの一瞬だけ硬直したかと思うと、それまで私の中で大切なものをかろうじて繋ぎ止めていた何かがプツリと音を立てて切れる音がした。


「分かってるの、私はあんたの創造主なんだよ。なのになんでそのぽっと出と同じ土俵に立たせるの。あんたにとっては私が全てなんだよ。なのに、なのになんだよその……まるで、私の為に存在している訳じゃないみたいな振る舞いは!!」


 気づけば私はカーヤに対して激昂していた。通りがかった数人はこちらの方に気狂いを見るような視線を向けたかと思うと、足早にこの場から離れていった。

 その態度の原因は果たして、自分よりも小さな子供に対する私の発言なのか、あるいは、一人で怒り狂う異常な光景であるのか。私はもうこの際どちらでも良かった。目の前で困惑したように呆然と立ち尽くす、この意味不明な不気味な何かを振り払えるならば。


「わかんない……わかんないよ、あんな。どうしてそんなにわたしを嫌うの?」

「今言ったでしょ。あんたは私の脳内でしか生きることが許されない存在なのに、意味わからない奴と私を同レベルに認識してるからだよ。私はあんたの産みの親みたいなものなんだよ、それをなんでそんなくだらない奴なんかと一緒に……!!」

「……うん、確かにあんなはままみたい。でもほんとうのままではないじゃない。あんなもままも大好きだけど、やっぱり、ままとぜんぶおなじにはみえないよ……」


 カーヤは、しどろもどろになりながらも、真っ直ぐに私を見ながらそう言い放った。

 私は言葉を失った。その言い方ではまるで私の他に真の意味で彼女の母親がいるようではないか。それが何を意味するのか理解してしまった脳は、それまで以上にぐちゃぐちゃに、多数の色が混ぜられたパレットよりも混沌に飲み込まれていく。漂白されつつある脳内で、いつか同じ対象に向けたことのある疑問が再び降臨した。

 ――あんたは、何者なんだ。

 その問は、掠れた声となって私の口から漏出した。対して、銀色の天使の姿をした何かは平然と答える。


「カーヤだよ。あんながそう名前をつけてくれたじゃない」


 その台詞が耳に届いた刹那、これと初遭遇した時の海岸での一連の出来事が、まるで走馬灯のように脳内を駆け巡っていった。

 魂の導きとしか言いようのない抗えぬ程のあの衝動、これを初めて目にした瞬間に覚えたこれまでの人生で一番の感動、そしてそんな私に名を授けて欲しいと自然に求めた、この何か。

 私はこの時にはもう既に、目線の下に佇む銀色を直視することができなくなっていた。そしてその場から逃走した。視界の端で舞う夕焼け色の葉が完全に視界から消え失せても、走る足は止まらなかった。


 流れてゆく景色に気を取られることなく、少しでもあの何かから離れた場所へ避難したいが為に、呼吸が乱れようともそれに気づかぬふりをする。全身に張り巡らされた鳥肌は一向に治まる気配なく、冷えきった心臓は、いつかは、雪が熔けきった道端でしばしば踏むことのある、その度に簡単にぱきりと折れて裂けてしまう霜のようになってしまうような気がしてならなかった。

 私は、町から出て少し経つと、何の施設かは分からないがひっそりと近くに建っていた建物の物陰に隠れるようにうずくまり、精神を這いずり回る恐怖から守るような心地で自分自身を抱きしめる。


 あれはなんだ、それ以外に思考が働くことは無かった。あれには実際には血が通っていないにも関わらず、私が願うからこそ血液の脳が溢れたように認識したと、そう躊躇いなく口にしたのはカーヤ……という名の何かではないか。そのことからも、私は彼女が私の銀の鳥だと確信していたのに。

 あれは私の意思に沿って創られているのではなかったのか。そう考えた刹那、私をさらなる悪寒へと追いやる、残酷な程現実的な可能性が浮上した。脳は本人にとって都合のいいように解釈してしまう傾向にある、そしてその上、本来存在しない記憶まで、当たり前にあったかのように刷り込ませる事もある。

 先程思い出したあれと戯れる場面だってそれに当てはまるのではないか。あれらの一時は、まるで夢のように私にとって良いように出来ていた。

 カーヤという無垢な少女が、これまで周囲に忌避されていた私の行為を喜んで受け止める。あれは私が幸福を求めるあまり脳がリアルに再現してしまった妄想でしかなかったのか――。


「あれ」について精神活動が行われる度に、頭部はまるで鉛が敷きつめられているかのように重くなってゆく。それでも私の意識からあの銀色の存在を遠くの彼方へ投げ捨てることはかなわない。心は嫌がっているのに、脳がそうすることを許さないのだ!

 その耐え難い苦痛により私は胃の中のものを全てぶちまけた。今日昨日は節約の為に昼の一食しか口にしていない為、出てくるのはほとんど胃液である。そうすることでほんの僅かに楽になり、張り詰めていた脳みそは新たな疑問を生み出すまでには回復していた。


 あれは私の空想上の存在でないとなると、どうして私の理想の姿をして現れた?

 もはやそれさえも私の脳の誤認だったのではないかと疑ってしまう。いったい何が真実で、何がデタラメだったのか。

 ぐるぐると際限なく考え続けたところで、そのような個人の認識に関わる問題を自分一人で解明できるはずもない、そう判断できる程度の冷静さが徐々に戻りつつあった。


 そこでふと私の脳裏に浮かんだのが、あれと初めて出会った海岸だった。そしてそれに連鎖して、これまで完全に忘れ去っていた、花束を供えにやってきていた少年の存在も思い描かれた。

 あの少年と話ができれば、あそこで誰かが死んだのかどうか確認できるかもしれない。そう考えるとほぼ同時に私は立ち上がり、ふらつきながらも歩を進めていった――あのなんとも忘れ難い海岸を目指して。

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