2-6 記憶
彼女が制止を促すと、既に飼い慣らされた犬どもは素直に主人の命令に従い、威圧体制を辞めて彼女の方へ向き直った。
「いきなりどうしたんだよ」
つい先程まで眼光を鋭く尖らせていた男は、表情を緩め不思議そうに金髪へ尋ねた。
「いいから、あんた達はどっか離れてて。私はこの女にちょっと用があるの」
思わず心臓が跳ねた。もしや彼女は、幼い時に会った私の顔を覚えているのだろうか。そのような可能性を考えてもいなかった私は、その発言に少し恐縮した。
男たちは、やや不服そうにこの場から立ち去った。気づけば、恐喝のターゲットだった男の姿も消えていた。おそらくはタイミングを見計らって逃げたのだろう。私の行動は無駄ではなかったことが証明されると満足から僅かに心が揺れた。
しかしそれもつかの間、目の前を向き直ると、そこには穴が空くんじゃないかという程、まじまじと私の顔に目を光らせる金髪の女がいるではないか。しかも、皮肉にも彼女の澄んだ碧眼はあの頃から微塵も濁っておらず、その瞳の向こうには無限に広がる海があるようにも思えた。
私は、居心地の悪さに耐えながらも、視線を彼女の胸元にやりながら向こうから口を開くのをただひたすら待った。彼女は、機械のメンテナンスが無事終了したような納得げな様子で、私の目を見た。
「あんたって隣のド田舎の町に住んでた、アンナ?みたいな名前のやつよね。合ってる?」
「……そうだけど、それがどうかしたの?」
私は至って平静を装って返答した。
彼女は、自分の推測が合っていることが分かると、案の定意地悪そうな笑みを浮かべた。
「私ね、未だに覚えてるのよ。昔あの町の噴水広場であんたに引っ掻かれたこと。あの時のあんたときたら、随分と気持ちのこもってない謝り方だったけど、さっきのことを考えると、どうやら今は違うみたいね」
「いつも平気であんなことをしてるの?」
長苦しい金髪の台詞がようやく終わると、今度はこちらから問いを投げかけた。その私の声には、怒りと疑問の色が入り交じっていた。それに対し金髪は、なんだそんなこと、と冷たく呟いてから視線を私の目線より斜め下にやり、再び口を開いた。
「あれはアイツらが勝手にやってんの。私がいくらとめたところで、そんなん甘すぎる、って言って聞かないの。ちなみに、さっきのやつは運悪く私の肩とぶつかっちゃって、あいつらに目をつけられたってところね。毎回ターゲットにされんのは、大なり小なりそういうヘマをやらかしたやつらよ。まぁ、同情しないこともないけど、正直、私が庇う程の人間でもないし」
ご丁寧にも、彼女は細かく事情を説明してくれた。
「でもあいつらはあんたの連れでしょ。ならもう少しちゃんと注意した方がいい」
「何よ、あんたって想像以上の常識人だったのね。やっぱり人って変わるのね。それとも、あの日が例外で元からそんなに正義感が強かったのか。とにかく、私はなるべく面倒事を起こしたくないし、それはもちろんあんたもそうでしょ」
「さっきから何が言いたいのかよく分からない」
「……分かったわ。仕方ないから、もう本題に移ってあげる」
彼女は肩まで伸びた明るいブロンドの髪をわざとらしく片手でかきあげてから、ブラウスの裾をまくり、そこにあるものを――残ったものを――こちらへ掲げてきた。
「あれからもうずっと残ってるの。誰の仕業か、まさか覚えてない程脳みそ小さくないわよね」
私の視線はそれに釘付けになり、しばらくの間呼吸を忘れていた。彼女の白く細い腕に無惨にも走った二本の引っ掻き傷。それは間違いなく過去に激情に駆られた私がやったものである。
なんと言えば良いのか分からぬまま、彼女の声だけが私の中に入ってくる。
「ねぇ、覚えてるでしょ?」
彼女は、まるで獲物を狩る獣のように美しい瞳の奥をギラつかせてそう問いかけてきた。私は、その威圧感に押し負けて何も言えなかった。いつ向こうから弾丸が飛んでくるか分からない、そんな緊張感が漂っていた。
そんな重苦しい空気の中、私は少しでも相手の強力な武器の威力を下げようと、それと同時に悔恨の念を確かに忍ばせながら、謝罪の言葉を放つ。
「……あの時は、悪かった」
恐る恐る金髪の顔を見やる。すると彼女の表情には、嘲りの色が浮かんでいた。
「はは、これを見せられて今さらそんなふうに謝るの? あんたって面白いのね」
金髪は、美しい顔を私の顔へ近づけ、後戻りはできないことを思い知らせるように私の括られた髪の片方を掴み、当然と言えば当然の、けれど罪に染まりきった私の心臓を弱らせるには十分な威力を持つ言葉を放った。
「今日のところはこっちもこっちだったからお互い様ってことで。でも、次こそ逃がさないわ。この意味、分かるよね?」
そう言い放つと、金髪はそれまで近づけていた顔を退け、逃げるのを防ぐように髪を掴んでいた片手を放す。そして以降何も言わずに私の真横を通り過ぎ去っていった。おそらくは連れの男どものところへと向かったのだろう。
彼女に傷を見せつけられてから私の中では雷鳴が荒れ狂っていた。昔、彼女の腕から流れた血液を舐め取った瞬間に覚えた、熱い生の感覚が息を吹き返しそうになり、そしてそれはこれまで犯した罪の源であるということを痛烈に植え付けられて。
やはりこの世界は私のような存在が息をすることを許さない、そうでもなければあのようなおぞましい遭遇があるだろうか。元はと言えば近づいたのは私だが、それでもまさか向こうがあんなものを突き出してくるだなんて予想できるはずもなかった。
私は、この世という監獄に囚われた無力感と共に、自身の決して大きくない両手を見つめた。
数年越しの噴水広場の少女との予期せぬ再会は案の定最悪な顛末だった。それからは、耳に届いてくる音楽も色を失い、これからもここに居座る価値を感じることの出来なくなった私は、何か他にすべきことはないか思案してみた。
そこで浮上したのは、カーヤと海岸の関係性の考察だった。言い換えると、私と海岸の関係性でもある。私は無意識下であの砂浜海岸へ特別な想いを募らせており、その結果、彼処の精霊のようなかたちでカーヤが誕生した。
情報の少ない現状では、そう考えることしかできない。そこで厄介なのが、当の私がその特別な思い入れとやらの記憶を紛失してしまっていることだ。
私は、一旦廃屋へと戻り、リュックサックを調達した後、簡素な雑貨屋でノートとペンを購入した。それらをリュックにしまい、再度図書館へ足を運ぶ。図書館に到着すると、席に荷物を置いてから本棚へと向かう。
まず私が手に取ったのは記憶に関する専門書だった。長時間をかけて何冊もの書物を漁ったが、あいにく、どれにも忘却の彼方へ追いやってしまった記憶の取り戻し方などは記載されていなかった。
本音を言ってしまえば、初めからあまり期待などしていなかった。そんな都合のいい方法が実際にあったとして、それはもう技術ではなく魔法に近いではないか。
それでも、たとえ胡散臭かったとしても希望を求めてしまうのだ。なぜだか自分には、砂浜海岸以外にも、何かとても重大なことを忘れてしまっているような気がして。せっかく用意したノートはほぼ新品同然の状態なまま閉館時間となった。
失った記憶を即座に蘇らせる方法は一旦諦めることにし、ほんの僅かに失意を覚えながら図書館を後にする。そういえば、どうでもいい記憶ほどふとした拍子に思い出す瞬間がある。
どうせならばもっと重要な物事について思い出すようにして欲しい、と、脳みそに対し理不尽な文句を心中で垂れ流しながら夕暮空の下を歩く。
だが、よくよく考えてみれば、本来ならば自分にとって重要な物事ほど鮮烈に記憶に残り続けるものではないか。ならば私にとって彼処の砂浜海岸はさほど関連性がないのかもしれない。
それか、脳が意識的に特定の記憶を封じ込めた、なんていう可能性もある。記憶喪失になるほど頭部を激しくぶつけた経験はおそらくこれまでにないため、考えられる方向性としては、その記憶が精神にとって多大な害をなすため、防衛としての忘却か。
そこで私の胸に霧のような不安が漂った。精神崩壊を促すまでの経験を思い出すだなんてことは、今の私には避けるべき負担としか思えない。
ここ最近の非日常体験でただでさえ疲弊している心にさらに強大な爆弾が落とされてしまえば、冷静さを失いそれこそ真の意味で自滅してしまうのは想像に容易い。
何としてでも、私は自身の異端な性質と犯した罪を隠し通さなければならない――。
廃屋に戻ると、既にカーヤが帰ってきていた。どこへ行っていたのかはあえて聞かないことにした。あまり彼女の自我を感じ取りたくなかったのである。だがそんな卑怯な私の魂胆も、すぐさま崩れ落ちることとなる。カーヤは小型のカレンダーをめくりながらそれを幸福で満ちた笑顔で見つめていた。
私が奇妙さを痛烈に覚えた理由としては、私の所有物にそういったものは存在しないことだ。ならば彼女はそれを、いったいどこで手に入れたというのか。まさか自分で購入した訳ではあるまい。彼女が貨幣を所持しているとは、到底思えないし、本人からもそういったことは聞いていない。
それになんといったってカーヤは私にしか見えない幻だ。私から貰う以外にどうやってそれを手に入れる? 逸る心音と共に、それはいったいどこで手に入れたのか、と問いただしたい焦りにも似た気持ちが溢れかえる。
それでも私は口を噤んだ。やはり、もしもカーヤの口から自分の期待とは違った答えが発せられたらと思うと、いやそんなことは絶対に有り得ないのだが、どうしても、彼女の神秘を死守していたくなるのだった。
私の帰還に気がついたカーヤは、カレンダーから私へと視線を移し、それまでと同様の満面の笑みでおかえり、と挨拶してくれた。それだけでいくらか救われた気分になった。
私は少し遅れてただいま、と返事をした。カーヤは、カレンダーをその場に置き、こちらへやってくるなり期待に満ちた瞳で見あげた。
「ねぇ、今日もあの気持ちのいいことやるの?」
私は言葉に詰まる。そして間を開けてから、重苦しく言葉を零した。
「ごめん。今日はそういう気分じゃないんだ。今日色々あって少し疲れちゃってね。カーヤには悪いけど、今晩はもう寝かせてもらうよ」
まるでカーヤを思いやるような芝居じみた返答に、カーヤは、「そっか。なら仕方ないね。おやすみなさい、あんな」と、変わらず純な瞳で、就寝の挨拶を口にした。
それから私は直ぐに寝床へ入った。その時、私は馬鹿みたいに見落としていた真実に気がつく。あのカレンダーは道端で拾ったんだろう。そうだ、それ以外にないではないか。なぜそのような単純な真実に意識が向かわなかったのか……。
どうやら、私は自分で思っている以上に疲れていたらしい。安堵を胸に瞳を閉じると、広がる暗闇の向こうには、昼近くに遭遇した金髪が不気味な笑みを浮かべこちらを見据えている。それを空想の巨大な足で踏み潰し、心に浮かんだゴミを粉砕してやった。
それを何度も繰り返したところでようやく睡魔が訪れた。
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