2-5 再会
私が幼少の頃、ある大人から言われたことを覚えている。
私が、人間は感情を持つ限り醜悪な生物であることに変わりはない、と口にすると、その大人は、感情には良い部分もある、何も悪い部分だけではない、と宥めるような口調で答えた。
今にして思うと、なぜその時の私は本来隠すべき本心を他人にああも打ち明けたのか、不思議でならない。
ただ、記憶の奥底で何重もの分厚い膜に覆われたその大人は、そこら辺にいる普通の大人ではなく、私の為に用意されたかのようなある意味特別な大人だった。そして私はその大人に本心をさらけ出すことを役割として認識していたようにも記憶している。
回顧の途中、後頭部に電流が走る。
本能の呼び声に従い、思考の中心を元に戻そう。
あれから、良い感情というものはいったいどんなものをいうのだろうと度々考えることがあった。
その度に好意や善意くらいしか頭に思い浮かばない。私はその良い感情というものどちらもが嫌いだった。
いや、それよりも苦手という言葉の方が合っているかもしれない。理由として考えられるのはまず、人を好きになる感覚というのは自分にはあまり馴染みのないものだということだろう。
人を好きになるということは相手を信頼するということであるのか、それとも生まれ持った欲望をぶつけるにふさわしい人材だと認識することか。
確かに私にも初恋とやらの前兆を感じ取った覚えはある。数年前にちょうどここの海岸で遭遇した栗色の君。
彼女は他の人間に比べて遥かに純粋な瞳をしており、声の奥から心に届いた彼女の心もまた残酷なまでに純粋だった。
私とはまるで正反対な人間像。だからこそ惹かれるものがあるのだろう。栗色の君との会話中、向こうから感じた感情はどこまでも広がる海のように果てしない虚無だった。
好意や善意もありはしない、そこにはただ彼女という概念だけが存在していた。一方、私の魂は必死に彼女を求めた――彼女の中に眠る神秘と溶け合ってしまいたくなる程に。
好意の他の例に至っては、思い当たるもの全てが気持ち悪い。気持ち悪くて仕方ない。まるで私を利用しようと企み騙そうとしているかのように思えてならない。
故に私は今も胸中の扉を固く閉ざしている。善意はもはや論外だった。善行として世の中で評価されている事はほとんど当たり前の行動でしかなく、当たり前をプラスな面としてカウントしている時点でお察しだ。
それに、当人にとっての善行が、相手を追い詰める事だってあるのだから。それにしても、私にそういった経験はあったろうか……散乱した記憶の海を捜索したが思い当たるものは無い。そうなのにも関わらず、するりと自然にそんなふうに思った自分を妙に思った。
気づけばそんなことを考えてしまっていたために、机上で開かれた本のページは一向にめくられていない。何だか今日は調子が乗らない……自分を労わるかのようにそう自身に言い聞かせ、本を元の場所に戻す。
入口付近に差し掛かったところで、今日発行された新聞をまるで誰にも聞こえないようにするように静かに手に取り、母親の死体の発見情報が記載されてないか確認する。目を血なまこにして隅から隅まで記事に目を通したが、昨日に引き続き、今日もそういった内容は確認できなかった。
おかしな話であるとは自覚している。自分の罪の証が上手く隠せていることは感激すべきことだ。であるのに、なぜ私はこんなに納得がいっていないのだろう。
まるで、死体を見つけて欲しいみたいではないか。私は何も殺したくて殺した訳ではない、目立ちたいが為に罪を犯す愉快犯とは程遠い。それなのになぜ、こんなにも納得がいっていないのか――。
だめだ、これ以上考えすぎては、頭の処理が追い付かない。どうやら今日の私は思考するに向いていないらしい。まだ日が傾いていない時間帯に図書館を出た。
隠れ家に戻るにはまだ時間が有り余っていたので、気分転換も兼ねて旧市街地を散策してみることにした。今日の空は雲量が少なく、爽やかな秋風が吹いていた。
街道に近づくにつれ何やら騒がしくなってきたかと思うと、どうやら今日は音楽祭が開催されているらしい。街中の至る所から音楽祭と書かれた旗が突き出ていた。
そういえばもうそんな時期だった。まだ物覚え着いたばかりの頃に母親と誰かと一緒に来たような――? いや、そんなことはなかった。私の頭は、何故かそう即座に判断し、正常な過去を回顧する。
今は亡き母親と来た覚えがある。といっても、あまりの騒音に鼓膜がどうにかなりそうだったことしか覚えていない。他に行くあてもなかった私は、少し離れた場所から聞こえる優雅でいて荘厳な旋律に耳を傾けることに決め、付近のテント下のテーブル椅子に腰を据えた。
本会場は市庁舎前の広場となっているが、間近であの大きな音を味わうのは鼓膜に悪そうだと思ってのことだった。
音楽に聞き入ること数分、すぐ隣のテントにおしゃべりな女軍団がやってきた。喋り声のうるさいことかなわなず、軽く睨んでやるも、向こうはこちらの存在にさえ気がついていない様子だった。それのせいでさらに腸が煮えくり返りそうになる。
「でさー、店長が腹立つったらないの! あのケチな性格治らないもんかね〜」
「いやいやいや、あれは矯正不可能なやつだって」
先程からやむことの無い品のない笑い声が腹の中の燻りを悪化させる。音楽鑑賞ではなくくだらない雑談が目的ならばどこか別の場所で延々とくっちゃべっていろ! ……そんなふうに心の中で声を荒らげる刹那、そのうちの一人が怪訝そうな声を出した。
「ねぇ、何あれ。恐喝ってやつ?」
他の者がそれに対し応答する。
「こんなお祭りの日にやだねー。どうして近くの人誰も助けてあげないんだろ」
そんなに言うならばお前が助けてやればどうだ、口先だけのろくでなしめ……。私は、女たちの視線の方へなんとなしに目をやった。
すると確かに恐喝らしき現場が視界に入った。二人の男がそいつらとそう歳の変わらなそうな一人の男に詰め寄っている。そして一人の女がそれを見張るかのようにカツアゲ犯のすぐ背後に腕を組んで立っていた。
私は思わずテントの外へ出て、片手で日差しを遮りながら、その女が良く見えるところまで歩を進めていった。女の横顔が鮮明に見えるようになると、的中した予感に胸がぞわりと緊張を訴えた。
思わず眺めたくなるまでに美しいブロンドの髪に退屈そうに細められた碧眼。数年前と変わらず肩の上らへんまで伸びた厚めの髪に、どことなく近寄り難い雰囲気。
間違いない。過去に故郷の街中の噴水広場で喧嘩をしたあの自己中な少女だ。どうやら残念なことに、未だ彼女の傲慢さは健在らしい。
私は、野次馬を装うふうに、奴らの会話が耳に届く距離まで詰め寄っていった。なぜ自分がそのような行動に出たのか判然としないが、おそらくは、素朴で無害そうな男が犠牲になるよりも生きた心地のしない自分が身代わりになってやった方が理にかなっている、そんな納得感からのことだろうと思う。
いいから金を寄越せと二匹のオスが吠えている。まさに絵に描いたような恐喝犯の言動はこの上なく滑稽で、幸いにも緊張を和らげてくれた。被害に遭っている男は、うちは裕福じゃないんだ、だから見逃してくれ、と必死に懇願していた。
「見逃してくれだァ? テメェ、ホルテに何しやがったかもう忘れたのか、えぇ?」
「その償いを金だけで済ましてやるって言ってんだぞこっちは。それとも目が腫れるくらいに殴られた方がマシってのか!」
被害者の男は犬どもの汚い怒声にさらに怖気付き、一言も発せないまま僅かに一歩後退した。金髪の女は、それに割って入ることも無く依然として退屈そうに視線を虚空にやっている。それは、今日の夕飯はいったい何だろう、そんな変哲もないことを考えているような自然さだった。
私が連中に接近すると、犬どもは被害者の男に向けていた鋭い瞳をこちらへ向け、怪訝そうに眉をしかめ、吠えることしか脳のないことを示すかのように叫んだ。
「なんだァテメェ、まさかこいつを助けに来たとかじゃあねぇよなぁ? そうじゃないんならちんちくりんは引っ込んでろ!」
「待て待てロバーツ、もし上手くいけばこいつからも巻き上げられるかもしんねぇぞ」
もう片方の犬が吠えた犬に小声で耳打ちしたが、あいにくこちらの耳に届いている。
その腐った提案に何やら納得したらしい威勢のいい犬は、指の間接の音を鳴らし威嚇しながら私の方へ向き直った。脅そうとしているのだろうが、先程から言動や仕草がいちいち小物臭い為に、不快感を与えるには合格点だが威圧感で押し通そうとする算段は不合格といったところだ。やたら格好つけたがる犬が大きな口を開き、何かを言おうとしたところで、それまで沈黙を貫いていた金髪が初めて声を上げた。
「ちょっと待って」
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