2-(3) 天使との交流/2
幸いと言うべきか、今日の図書館は休日にしては人が少なかった。カーヤは、本棚の籠庭に踏み入れるなり、感嘆の息を漏らした。カーヤは僕の横に着いてくる最中、まるで初めて遊園地に来た子供のようにしきりに周囲に目を配っていた。その無邪気な表情にふと、何かに気がついたような驚愕の色が浮かんだ。
「あんな、いるの?」
ぽつりと横でそう呟くのが耳に届いた。
「友だちでもいたの?」
「うーん、友だちかはよく分からないけど、よーく知ってる人がここにいるみたい」
「……みたい? まるで、予感がする、みたいな言い方をするね」
「るーかすの言葉は難しいけど、わたしにはわかるの。あんなとは魂が繋がってるから」
「よっぽど仲が良いんだね。その子に会ってくる? 本探しならその後でも全然構わないよ」
「ううん、べつにいい。後でどうせ会えるもの」
カーヤはそう口にすると、本の方へ関心が戻ったらしく僕に本を探すのを手伝うよう促した。確か児童書は奥の方に配置されていた筈だ。程なくして目的地へ到着した。
「自由に選んでいいよ」
そう告げるなりカーヤは、相変わらず可憐な瞳を輝かせて僕を見上げた。
「これ全部、本?」
「うん。ここにあるのは全部本だよ。まずは特に気に入ったものを一つ選んでみるといい」
カーヤは、一冊一冊手に取って、入念に目を走らせてはページの後半までいくと何故か気を落としたような浮かばれない表情をし、棚に戻す。それを幾度も繰り返していた。その光景は、まるで特定の本を探しているようにも見えた。
僕はそれを黙って見守るかたちで、児童書の本棚の横から眺めた。しばらくすると、カーヤは一冊の本を手に取り僕の方へ近寄ってきた。彼女に抱き抱えられた本の表紙には、大空を羽ばたく鳥が描かれていた。
「それにする?」
「うん。わたしが探してたものはなかったけど、これも好きだからこれにする」
「いいの? どうせならその探してる方をもっと探してみるか?」
「ううん。これでいいの。それに、あの本がなくても、わたしの傍にはそれよりもっと特別なものがあるから」
「そうか。なら、いいけど」
僕はカーヤから本を預かり受付で簡単な手続きを済まし、窓際で待っている彼女の元へと向かう。
「これでしばらくこの本は僕たちだけで読めるようになった。じゃあ、次は公園へ行こうか」
その際、付近で本の整理をしていた老年の女性係員が、怯えと驚愕を混ぜたような表情でこちらを振り返ってきた。そんなふうに人に見られるのは良い気分はしないが、これ程の美少女がすぐ近くにいれば我を失ってしまうのも無理は無い。そんなふうに考えながら、図書館を出た。
それからすぐにカーヤと共に公園に足を運び、奥の方のベンチへ腰掛ける。カーヤは、普通に座る僕とは違い、地面にしゃがんでベンチを机代わりとして本を開いた。僕は鞄から下敷きとノートそれからシャーペンと消しゴムを取り出し、そのセットをカーヤに手渡す。
「分からない文字があったら、ノートに書いて練習しよう。字を覚えるには、ただ読むよりも実際に手で書いた方が良いんだ」
カーヤは、手渡されたそれらを不思議そうに眺め、シャーペンと消しゴムに至っては、それぞれ手に持ってみてしげしげと観察する。そこで僕はハッとし同時に酷い後悔の念に襲われた。カーヤは時計さえ知らないような境遇で育った子だ。本を読む以前に、字の読み書きさえろくに教わった経験がないのではないのだろうか。
どうしてそこまで想像できなかったのだろう。僕はいつだって、自分とは程遠い環境の住人に対して当たり前のように自分と同じ基準で考えてしまう。だが今はそんなことを考えて悔恨に浸る暇は無い。無理やり気分を切り替えるようにして大きく息を吸い込み、吐き出す。
「ごめん。もしかして、字を書くのって苦手だったりする?」
「うん。わたし、字の書き方ってまだよくわかんない」
やはり予感は的中した。この子にはほとんど学がないのだ。それを確信した瞬間、カーヤに重ねた過去の感覚が、さらに色濃くなった。
「……そっか。なら、まずは簡単な字の書き方から教えるね」
夕暮れ時になって、ようやくカーヤは基本的な文字の三分の一を書けるようになった。書ける、といっても、今はまだ僕の手本を見ながらそれに従って手を動かす、といった具合だ。それでもカーヤの熱意が凄まじかったおかげか、ペンの持ち方はぎこちはないものの身につけるのにさほど時間はかからなかった。
もう遅い時間である故、今日はここまでにしよう、とカーヤに切り上げる。カーヤはまだまだ足りないようで、もう終わりなの、と残念そうに俯いた。
「大丈夫だよ。まだまだ機会はあるからね。それに夜になると危ないし」
「次は、いつ?」
「そうだね……」
僕は考え込む。僕は基本、水曜日と木曜日以外の昼過ぎなら暇だが、字の読み書きの習得となると中途半端な時間で詰め込むよりも、長い時間を確保できる日にゆっくりやるのが最適だろう。となると、都合が良いのは授業が一限しか入っていない火曜日と休日の日曜日ということになる。
「僕は火曜日と日曜日なら大丈夫なんだけど、カーヤの方はどうかな」
カーヤは、これまで幾度か目にしたきょとんとした表情で僕を見上げた。今回もすぐに察した。カーヤには曜日の概念が存在しないのだ。そうなると困った。カーヤの住処に電話などありそうにないし、どうやって予定を組めばいいのか……。
数十秒考えた後、あるアイディアが僕の脳を掠めた。もう一度だけ僕の家へ来てくれるようお願いすると、カーヤは嬉しそうに承諾した。もう日は暮れかけている為あまり時間はかけられない。僕はカーヤが着いてこられる範囲で駆け足で家へ向かう。
帰路に着くと、少しだけ待ってるようカーヤに言ってから自室へ走り、目的の物を手にとるなりすぐさま待ち人のいる庭へと戻った。手の中のものに少し手を加えてから、カーヤに差し出す。
「はい。これあげる」
僕がカーヤに手渡したのは、小さなカレンダーだった。その火曜日と日曜日のところには赤いペンで印をつけて、今日の日付のところにはシャーペンで丸をつけてある。
「これ、なあに?」
「カレンダーだよ。それがあると今日が何日か分かるんだ。ちなみに今日はここね」
僕はそう言うと、シャーペンで○がつけられたところを指さした。続けて赤い印のある火曜日と日曜日の部分にも説明をする。
「この赤く印のついてる日は、僕が暇な日」
そして、今日の分の○はもうつけてあるけど、明日になったらカーヤが明日のところに○をつける、そしてその次の日も同じように○をつけて、それを繰り返す。そうすることで、次に僕と会える日がやってきたら分かるようになる。そんな拙い説明をカーヤは理解してくれたようで嬉々と頷いた。
「じゃあ、るーかすと会える日は、あの分かれ道に行くね」
「そうしてくれるとありがたい。じゃあ、もうこんな時間だからね。今日はこれでお開きだ」
僕がそう言うと、カーヤは名残惜しそうに眉を下げて唇を結んだ。まさか、自分がここまで一人の子供の心に影響を与えるような人間になるとは夢にも思っておらず、その仕草だけで感動してしまった。
「じゃあ、帰り道に気をつけてね。なんなら家の傍まで送っていこうか?」
その僕の問いに、カーヤはかぶりを振った。
「ううん。ここの近くだから、大丈夫だよ。そんなことより、今日はるーかすからたくさん貰っちゃった。ありがとう、ぱぱ」
「ぱっ!?」
カーヤは平然ととんでもないことを笑顔で言いのけ、カレンダーを大切そうに腕に抱きながら小走りで去っていった。
お兄ちゃん、ならまだ分かるが、よりにもよってパパときた。もしかして僕はそんなに老けて見えるのだろうか。マリーたちにはしょっちゅう童顔とからかわれていた故に、ほんの僅かショックだった。だからといってやや童顔であることが誇らしいかと聞かれれば全く持って違うが。
家に入るなり、僕は居間のソファに横になった。自分より一回り幼い子供と日常を過ごすことは自分で思っていた以上に心身を疲弊させたらしい。普段子供の相手なんてしないし、何より僕は下の兄弟の面倒を見るという経験なんて存在しない末息子だ。
だからといって、もし下に兄弟がいたとしても、僕には家族のように接する権利など与えられないことは想像に容易い。しばしば、末っ子は甘やかされて育つ、なんていうイメージが世には浸透しているが、そういった類の発言や創作物の場面を見る度に違和感を覚えることが多い。おそらくは自分の置かれた境遇との差がそうさせているのだろう。
カーヤとの交流の余韻のためか、できれば思い出したくない幼少の頃の記憶が断片的に浮上する。その忌まわしい記憶の中で特に不快なものまで、思考の海に流れ込んできやがった。人は生きている限り人生の中で一度は裏切りに合うものではあるが、それでもやはり思い返したところでメリットは何もない。
それなのにも関わらず、次の瞬間には、何か素晴らしいことに気がついたような快い電流が駆け巡った。哀れな程に純粋だったあの時の自分の気持ちを鮮明に思い出し、それはカーヤにも当てはまるような気がしてならなかったのである。
思い返してみると、昨日もごっこ遊びか何かなのか、パパと呼ばれた記憶がある。もしかしたらあれは彼女なりのコミュニケーション方法なのかもしれない、とも思った。だがそれと同時に、それ以上に強く僕の中で生じた可能性に、胸を焼き焦がされるのである。
出会ってまもない僕のことをパパと呼んだカーヤ。それは、冗談や遊びなんかではなく、自分に親切にしてくれる大人に対して覚えた感覚を素直に表現しただけなのかもしれない。もしもそれが真実なのだとしたら、僕はその彼女の純粋な心を裏切るような真似は決してしないようにしなければならない。
こんな僕をそんなふうに感じてくれるような子に、あのような惨たらしい空虚感を味合わせることなど自分で許せるはずもなかった。
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