2-(2) 天使との交流/1
午後二時十四分前。あの不思議な女の子カーヤと約束した時刻は刻々と迫りつつある。
かくいう僕は精神安定の為に手帳型のスケッチブックに絵を描いている。
こういう時、描くものはだいたい決まっている。それはキノコだ。キノコは他の植物と比べ丸みを帯びている箇所だらけな為、陰影がつけやすく描きやすい形状なうえに何より楽しい。
この時点の僕が描写しているのは大半の人がイメージするような王道な形状のキノコだ。気持ち平たく丸い頭にくねった胴体。輪郭はササッと手早く、なんとなくの感覚に任せて下書きのように薄めに描く。
次いで頭を右下から左下へとモノクロのグラデーションになるように色を塗る。ちなみに右下から頭と胴体の縁にかけて濃い黒色をまぶしていけば、より立体感が出る。太陽は図面の左上に存在するため、照らされた左側に反し右側もグラデーションを使い影となっている事を表現する。胴体もほぼ同様に右側に多く線をまぶし(右側の縁に近づく程線の量と密度を増すことで、グラデーションとなる)影を表現する。
ここで忘れてはならないのが、大きな頭により暗くなっている部分の影だ。そこまで濃く影をさしてしまうと全体的に堅苦しい印象になってしまう。その為、他の影よりも薄めにいれるのが何よりも重要だ。
これでキノコは完成、とはいかない。より立体感を出す為に、頭に、影のさしている方向へ向かい、丸い形状に合わせて曲線を何本か入れる。この技は高等学校時代の美術の先生に教わったものだ。この技は今もこうして僕の中で生きており、それだけでなくより描画に集中させてくれる要素となり得た。彼に感謝。
かくしてキノコは出来上がり、後残るは太陽とそれにより生じるキノコの背後の影だ。太陽は適当に、丸を描いてそれを取り囲むように縦線を何本か描いておけばいい。この際太陽は重要ではなく、あくまで主役はキノコなのだから、あまり執拗に出張ってもらっては困る。
そしてキノコの背後にもの悲しげに現れる影だが、これはキノコの胴体の尻から濃いめの横線を数本引き、それから弱めの力で薄い横線を多めに引く。これでだいたい完成だ。はっきりと完成と言いきれないのは、絵には真に完成など存在せず、隅々まで観察すると、まだまだ書き込む箇所が見つかってしまうものだからだ。故に僕はこれで完成、とはならず、とりあえずこれで一段落ついた、と言葉を選ぶ。
僕は何もキノコが大好物な訳では無い。キノコ狩り等には一度も参加したことがないし、キノコ料理だって進んで食しはしない。ではなぜキノコを描くのか、と疑問に思う者もいるだろう。その疑問に対し僕はこう答える。退屈な講義中になんとなくキノコを落書きしてから、このシンプルな物体の描きやすさに気がついただけである、と。
そんなふうに訥々と脳内に湧き上がる独り言に注意を向けることで、胸に走る緊張と焦燥を誤魔化している。もしも時間になってもカーヤが来なかったら、その有り得る未来を想像しては、自身の哀れさというか、惨めさを強烈に覚えざるを得ないのだ。
スケッチブック一面がキノコで満たされると、壁にかけられた時計の針は二時ちょうどをさしていた。それでも呼び鈴は鳴らない。まぁ、そんなジャストで来る程真面目な感じには見えなかったし、仕方ない……。そう思うことで不安を誤魔化した。
だが、それから一分、二分……五分と経ってもやってこない。これくらいの遅刻なら許容範囲内だ。それでも、それからさらに五分経過、つまりは予定時刻の十分後となっても同じ状況となると、さすがの僕も察しがついてしまった。
あの日のやり取りは、カーヤにとってはただの気まぐれに過ぎなかったのだ。それに反し、もう子供では無い年齢の自分は、ごく真面目にそれを受け取ってしまい、その結果ただただ惨めな気分が胸に広がっていく。
それを認識すると、それを誤魔化すように瞬時に席を立った。このまま同じことをしていても、勝手に回ってしまう思考回路は、カーヤとの会話を思い出し羞恥の念を呼び寄せるだろうことを予知しての事だった。今日の天気はどんな感じだろう、そのような心地を装い、窓辺へ向かい外の様子を伺う。
思わず僕は目を見開き、息を吸い込んだ。植物に囲まれたガーデンテーブルに、カーヤと思しき人物が平然と居座っていたのだ。僕は急いで庭へ向かい、退屈そうに足をぶらぶらさせているカーヤに声をかける。
「来てたなら呼んでよ」
僕は、笑顔を浮かべながらカーヤに言った。胸の内で溢れる安堵が表面にも出てしまった。僕の姿が見えるなりカーヤは、水晶のように美しい銀色の瞳を輝かせ、木製の椅子からおりて駆け寄ってきた。
「るーかす、とっても遅かったね。わたし、朝からずっとここで待ってたんだよ」
僕は耳を疑った。驚愕のあまり勢いよく疑問を投げかけてしまった。
「朝からって、なんでそんな早くに来るのさ!? 二時って言っただろ!?」
「だって、にじが分からなかったんだもん。だから早めに来てたの」
「なん、だって……?」
もしかしてこの子の家には時計が無いのか。薄々勘づいてはいたが、まさかここまでの貧民層だとは思ってもいなかった故に愕然とする。どんなに貧しい家庭でも、時計くらいはあるものだろう、勝手にそう思っていたが、それは腐っても貴族の傲慢にすぎないようだった。
そんな時、カーヤの服装が昨日のものと全く同じことに気がついた。白いシャツに白いスカート、銀髪と銀の瞳と兼ね合わせた全貌は、雪原で身を守る雪うさぎのように眩い白銀で輝いている。ますます僕の中で、カーヤの背景事情の信憑性が増していった。それと同時に、心の奥深くにしまいこんでいた悔恨の記憶も鮮烈に蘇ってくるようだった。
「その、時計持っていないのか?」
僕の率直な問いに対して、カーヤは、ただ呆けて僕を見あげるのみ。その反応から、カーヤにとって時計は余程高価なものなのだろう事が窺える。やはりこの子の家は裕福では無い……その時の僕はもう、その想像をすんなりと信じるようになっていた。そういった思考に走るのは、そうであって欲しいからなのだという人間の身勝手な無意識に、僕は容易く支配されていた。
もう少し待ってて欲しい旨をカーヤに伝え、僕は自室へ向かい机の上に置かれていた腕時計を手に取り、再びカーヤの元へ戻った。そして手の中の腕時計をカーヤに差し出す。
「これあげるよ。時間が分からないとあまりにも不便だろ。もしも壊れたり失くしたりしたらその時は僕が買ってやる」
カーヤは、きょとんと目を瞬かせて僕を見た。僕はなぜかほんの少し顔を背けた。カーヤは恐る恐る腕時計を手に取ると、まるで腕時計というものを初めて見たかのように、舐め回すようにして眺めている。しばらくしてカーヤが口を開いた。
「文字が刻まれてて綺麗。ありがとう。えへへ、るーかすからの贈り物」
僕がカーヤに手渡した腕時計は、黒の革製のベルトに販売会社のロゴが入っている。カーヤはそれのことを言っているのだろう。
「気にしないで。えーと、じゃあ、昨日言ってた本がどうのって話なんだけど、まずは図書館で気になる本を借りてくるっていうのはどうかな。もちろん、僕も着いていくよ」
カーヤは、図書館、という言葉に思い当たりがないようだった。それに対しすかさず僕は言い直す。
「これから僕とたくさんの本がある場所に行こう。そこでもし気になったものがあれば僕に言って」
大学の図書館は現役学生であれば本の貸し出しを許している、そこまで説明するのは、カーヤの頭をさらに混乱させるだけだろうことは分かっていた為、簡単な言葉で提案した。それに対しカーヤは即座に肯定の意を示した。
図書館への道中、カーヤに本を選んだ後は付近の公園へ向かう旨を伝えた。さすがに自宅へ招くという選択肢は憚られる。何しろ、相手はいくらまだ幼いからといっても女の子だ。そういう関係でもないのに(年齢的に当たり前の事だが)自宅で二人きりはさすがにまずい気がして、直接家へ招くべきでないと判断した。一応自分に言い聞かせておいてやるが、僕は決してロリータ・コンプレックスなんかでは無い。
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