2-4 デイジーの花束

 結果的に貧民街での探索は成果なしで終了した。空き家を探そうにも区域は私の想像以上に多くの住人で賑わっており、住人を求める空き家なんぞがあったとしても一瞬でよその浪人だかに先手を打たれているだろう。

 戦争による国内情勢の変化によって失業者が増えたとは小耳に挟んでいたが、おそらくはそれによって街の人口が増えたのだろうことが考えられる。


 貧民街を出てすぐの所に喫茶店があり、小休憩として足を踏み入れた。

 こじんまりとした個人経営の店で、客はそこまでいなかった。木製のテーブルに腰掛け、壁に貼り付けられたメニューに視線をやる。ここはとりあえず無難にカレーソーセージを注文することにした。

 しばらくすると腹を満たすには十分な量のソーセージが乗せられた皿が届いた。手ごろな値段なうえに量もそこそことは、良い店を見つけた。

 食料を補給する必要がある時はここを利用するのも悪くない。自分はそこまで食にこだわりがなくたとえ毎日同じものでも腹を満たせることができれば良いという考えの持ち主で良かった。

 ここで無駄に食いしん坊な性質であったならば、制限される食生活にストレス源が一つ増えていたところだ。丸一日何も摂取されていなかった私の腹は、普段以上の勢いで皿の上のソーセージを吸収した。


 一服ついたところで、私はふと考えに耽ける。あの不気味なまでに純粋な幻は、なぜあの海岸を重要視しているのだろう、という疑問がどうしても浮上してしまう。

 私の願望で創られた存在ならば、私の好きなタイミングで出現するのが合理的ではないだろうか。そもそも、幻覚なんかに合理性を求める方がとち狂っているのか。

 では、考えを変えてみる。

 私は無意識のうちに、あの海岸への強い思い入れを抱いている、という可能性はないだろうか。あそこの浜辺には確か以前も訪れたことがある。数年前の私の誕生日に母と共に足を踏み入れた記憶は当然のように頭に残っている。


 そして、そこで私はある一人の女性に遭遇した――そうだ、一人の女性だ。

 これまでなんとなしに重要な要素から除外していた存在の大きさに、今初めて気がついたようなカタルシスが駆け巡る。

 彼女は今朝の夢にも登場してきた。

 そこで私に何かを伝えようとしているふうだったことまで覚えているが、遺憾ながら、その内容までは忘れてしまった。夢がどうこうはともかくとして、基本人に興味のない私が覚えている程だ、よほど魅力的な人物だったに違いない。


 自分でももどかしいことに、そこら辺の時期の記憶は全体的に曖昧で、何事も上手く思い出すことができない。その女性になぜ惹かれたのか、どこが魅力的に映ったのか、全て何もかもまっさらだ。

 もしかしたらあの体験は、俗に言う初恋だったのかもしれない。自分にもそのような体験が存在する事実に感動を覚えるも、それほどの出来事の大まかな内容まで忘れてしまっている自分のポンコツな脳みそに悔しさが募る。

 思い出せないことについていつまでも考えていても埒が明かない。考えていたことをリセットし、まったく別の事について考えよう。

 そこでまず思い浮かんだのは、まだ隠れ家の候補を探すか否か、という事だった。正直、今朝廃屋を出るまでの私は、貧民街で候補を見つけられるとばかり思っていた。なので他に探索するような場所など考えてもいなかったのだ。隠れ家なんて、例の雑木林の中で発見できただけでも相当な幸運だ。


 あそこの他で過ごすとなると、人口の多い旧市街の路地裏とか、そこら辺しかもうないのではないだろうか。だがあんな場所で夜を過ごすとなると、十中八九スリにあうだろう。 

 やはり、雑木林の廃墟で妥協すべきか。

 そうなると、分かれ道を直進した先の家の住人が外出しない時間帯を把握しておくべきだろう。向こうからしたら見知らぬ顔が最近になって近所の何も無い方の道へ向かっているのだから、嫌でも気がかりになってしまうだろう。

 まぁ、もしも最悪な事態が起きたら、家出中だと嘘をつけばいい。

 ……考えてみたら、誰も人の動向にそこまで関心は無いのでは。その時になってようやく、自分が普段以上に神経質になっていることに気がついた。

 これまで地獄のような出来事が立て続けに起こっていたのだから仕方がない、と自身に言い聞かせる。これ以上平常心を失ってしまっては、誤った選択をとり自滅の道へ進んでしまいかねない。

 グラスに注がれた水を一気に飲み干すと、いくらか心が落ち着いたような気がした。なんなら、ずっとここに居座ったっていいのではないか。

 そんなふうに考えていたら、店員がやってきた。


「お客様、先程から顔色が悪いですが、具合でも悪いのでしょうか?」

「いえ。そんなことないです」


 私は、咄嗟に否定した。


「もし体調が悪くないのであれば、もうそろそろ席を立って頂けると……」


 店員は、困ったように言った。私はすみません、とだけ口にし、手短に会計を済ませ店を出た。

 店を出た後、私が真っ先に向かったのは例の海岸だった。さほど歩かなくても砂浜に到着した。

 なぜ私がここに足を運んだかというと、カーヤやそれに繋がる私の手がかりが見つかるのではないかと考えてのことだった。

 昼過ぎというのもあり、砂浜は無人という訳ではなく、親子や老年の人々の姿が見える。子供ははしゃぎ、裸足で波打ち際を駆けている。なぜだか、その平和な光景がここには似合わないような気がして、私は地平線に視線をやる。

 波風が漂い、潮の香りが鼻腔をくすぐる。

 地平線の彼方まで広がる青い海は、斑な雲から溢れる陽光を反射して輝いている。誠に風情溢れる美しい風景であるのに、なぜだか無性に寂しい気分になるのである。それは何かはっきりとした原因があるものなのか、それともただセンチメンタルに耽ける癖がいつの間にかついているだけなのか……。


 私は、耳に響く子供の笑い声を背にし、自分自身の中にまだ自分でさえ見たことの無い部分を見つけようと、内側に想いを馳せながら砂浜を歩いた。心の自然の赴くままに、思考を流し、足を動かした。

 それでも、自分の無意識下の感情を分析するのは困難に等しく、閉ざされた扉をそう楽に見つけることなどかなわない事を再認識しただけだった。

 そもそも扉の存在の有無さえ明白でない以上、現状の私ではカーヤの存在を本当の意味で理解することは不可能であろう。

 そこで私は肝心な部分を今まで忘れていたことに気がついた。カーヤと始めて遭遇した場所にはあれきり足を運んでいない。

 確かあそこは、砂浜をさらに歩いた奥の方だったはずだ。砂の土台は終わり、岩礁が突き出ていた覚えがある。急ぎ足でそこへと向かう。すると、カーヤが腰を下ろしていた一際大きな岩礁の真後ろの崖に空いている小さな洞窟に意識が向かった。

 あの時は感動のあまり、カーヤしか見えていなかった故に完全に記憶から消え去っていたが、そういえばあったような気もする。


 その洞窟は、しゃがんだ大人が一人入れるくらいの小さな窪みで、その中にひっそりと花束が置かれていた。それも、そこら辺に生えている花をむしって無理やり束にしたようなものではなく、きちんと花屋で購入したのだろうことが一目でわかった。

 細く白い花びら。おそらくデイジーだろう。母はよく花を買ってきては家で育てていたので、嫌でも品種がわかってしまう。

 それにしてもなぜこのような誰も来ないような辺鄙な場所に……。もしかして、カーヤと何か関係があったりするのだろうか。可能性は低いだろうが、念頭に入れておくのは損ではないだろう。

 だが、もしも本当にこの花とカーヤが密接に関係しているのだとすると、彼女は私が創りだした完全なる幻ということではなくなる。


 体中に悪寒が走り、背筋がゾッとした。

 ならばあれはいったいなんだというのだ。

 なぜ私の求める容貌で私の前に現れたのだ。

 私は、今までそのような超常的な存在と時を共にしていたのか。

  こんがらがりそうになる頭を冷やすように背後から足音がした。咄嗟に振り返ると、同年代程の見かけをした少年の、訝しげにこちらを見やる視線が私を射抜いた。

 少年の片手には、洞穴に置かれたものと同じデイジーの花束が握られている。


 即座に察した私は、その場から逃れようと急いで少年の横を通過した。その際少年は、じろりと横目で私を睨んだ。あの花束を置いた本人と顔を会わせたくないがために、駆け足で砂浜を出た。軽く息を整えると、町の方へ歩き始めた。何か暇を潰せるような場所を求めて。

 道中、先程の花束と少年の事が頭から離れなかった。あの少年には見覚えがあるような、ないような。彼は私と同じくらいの背丈で、私と同じ黒い髪に鼻ら辺に散ったそばかすが、一瞬しか目に映っていなかったのにも関わらず印象的だった。

 もしかすると、嫌な場面だった分、強烈に脳に焼き付いてしまったのかもしれない。


 あの花束が少年が置いたものだとするといったいその理由はなんだろう。

 いや、答えは既に分かっている。頭がそれを強く認識しないよう意識をそらそうとしているだけだ。あそこで誰かが死んだのだ。それ以外に花束を供える理由があるだろうか。

 ――もしかすると私は、死人と時を共にしているのか。

 恐怖に蝕まれた私の頭は、誰かの死とカーヤを結びつけてしまった。

 今すぐにでも私の現状を、先程の少年に暴露してしまいたくなった。彼に聞けば、あそこで人が死んだという推測が事実であるのかどうかも判明する。


 それに、その死人の為にあんな奥まった場所まで通うくらいだ、少年は故人と相当近しい関係だったのだろう。彼も、自分の大切な人物の魂がそこら辺をうろついていると聞けばほうっておかないだろう。今から走って戻ればまだ間に合うかもしれない。

 だが、私の足は一向にそうしようとしなかった。カーヤの真相を知るのが恐ろしかったのかもしれない。それでも、海岸の故人とカーヤは無関係である可能性だってあるのだ。そうだ、無関係に決まっている。カーヤはあんなに優しくて、純粋で、愛らしい少女なのだから。


 私は、私にとって救いとなる可能性を残したままにしたいが為に、少年の元へ戻らずに街へ入った。気を紛らわすように、街中を探索し、暇つぶしに丁度よさそうな場所を見つけると、迷わず足を踏み入れた。

 大学内の図書館は基本一般人でも立ち入ることが許されている。そこも例外ではなかった。さすが名のある大学とでも言おうか、これまで私が足を運んだことのあるどの図書館よりも広い。

 私の落ち着く本の香りに包まれながら、その日は閉館時間までそこで過ごした。読書はやはり雑念を払い除けてくれる。

 それ故に、その静かな心が終わった途端に、反動のように同居人への懐疑心や不安が押し寄せてきた。それらを無理やり心の中に押し込め、雑木林へと向かう。

 幸いなことに林道の中で、一軒家の住人と鉢合わせることは無かった。

 廃墟へ入るなり救いを求めるような心地でカーヤの名を呼ぶ。


「あんな、帰ってきたんだね。ずっと待ってたよ」


 主人を出迎える子犬のように、カーヤはすぐさま呼び声に応え、私の元へと駆け寄ってきた。彼女の喜びを湛えた笑顔に、先程までの不安が驚く程に解消されていく。悲惨な境遇のせいで疑心暗鬼に駆られていた自分が馬鹿らしく思うと同時に、健気に対応してくれるカーヤへの申し訳ない気持ちで胸中が溢れかえる。

 少し息を整えてから、カーヤに本日の成果を伝える。


「街中探してみたけど、他に良さげな場所は見つけられなかったんだ。だからしばらくは、ここで過ごすことになりそう」

「そっか。わたし、ここ好きだからこのままがいいな」

「え? こんなところでもいいの? もっと豪華な家に憧れてたんじゃ」


 そこで私はハッとした。カーヤは私の幻覚なのだから、私にとって都合のいいようにできているのだ。

 そうだ、私は大事な部分を忘れすぎている。そうだ、カーヤは私が創り出した、私だけのカーヤなんだ――。


「いいの。だって今日、わたしはとびきりうれしいことがあったんだから」


 そうご機嫌に言って、カーヤは鼻歌を歌いだした。

 私はその澄んだ声で紡がれる鼻歌に耳をすましながら、カーヤと共に部屋へと向かった。

 その晩もカーヤと偽りの快楽を共有し合った。彼女の血はとても滑らかで美しかった。たとえひと時の淡い夢であろうと、この一瞬で生じる胸中の温もりまで否定できるわけが無い。

 自分は今確かに満たされている――その事実を確固たる現実として認識することに専念した。そうしなければ、何層にも積み重なった現実という名の生き地獄から逃れる術を生み出せない。


 人間は自分の脳を通してでしか現実を認知できない。逆に言うとそれは、生涯当たり前に私の周囲に存在する現実というものは、脳によってつくられた世界でもあるということ。ならば自分の脳内で起きている物事は、私にとっては現実に引けを取らないほどに鮮明に存在していると感じてもおかしいことでは無い。思考次第で、人間の見る世界など幾らでも変化する。

  故に私は思考を現実として捉えた。

 カーヤという少女は私の思考、私にとっての現実。そう考えることを咎めることのできる者などこの世にいない筈だ。何故ならば人間は甘い夢に思いを馳せることで、マイナスな感情から自我を守ってどうにか生きているのだから。


 翌日もカーヤとは別行動をとった。私は例の喫茶店で最低限の軽食を済ませてから、昨日も訪れた大学の図書館へ向かった。新聞コーナーで今日のものや直近のものをくまなく閲覧したが、それらのどれにも、一軒家から何者かに銃殺された母親の死体が発見された、等という記事は見当たらなかった。

 まさか未だに発見されていないのだろうか。だが、すぐにその可能性は低いだろうと考えを改めた。理由は、母親の恋人だ。まだそれ程日が経っていないにしても、殺人鬼の子供(実際は奴らの酷い勘違いだが)に怯える恋人が音信不通であれば心配になって家まで様子を見に来そうなものだが。あの人気のない公園での会話の内容から考えれば、毎日連絡するくらいお互い不安に駆られてもおかしくは無い。けれど、実際未だに母の死体は発見されていない。

 そんなに見つかりにくい場所に隠しただろうか……。


 それとも発見されてはいるものの見つけた本人が何らかの事情でそれを秘密にしているなんてことはあるだろうか、と考えたものの、あまりのこじつけ具合に我ながら呆れ果て、すぐに頭の中からその考察は抹消した。

 何にせよ、私の存在が危険人物として公に出ていないというのは非常に好都合である。それなのに、何だか腑に落ちない。

  妙に嫌な予感に胸中をもやもやとされながら、私は無数に連なる本棚へと向かう。以前から気になっていたミステリー小説を手に取り自習席に深く腰掛ける。文章の内容理解に集中しているうち、いつも通り、忌まわしい外界と遮断されていた。

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