2-3 偽りの幸福

 気づけば日は暮れ、林道を探索していた私とカーヤは、例の廃墟へと戻った。ここらの雑木林に、他に隠れ家として利用できそうな場所は見つからなかった。

 カーヤは依然として、別れ道を直進した奥に建つ一軒家が気がかりな様子だった。そんなカーヤを宥めるように、廃墟内では就寝するのに一番マシな部屋へと辿り着くと、少しリラックスしよう、と提案する。


 リラックスといっても何をすれば良いのかわからない、といったふうに立ち尽くすカーヤに、壁に寄りかかって座るよう指示する。私に言われた通りに行動に移すカーヤの愛らしさに、胸の奥がこそばゆく疼いた。彼女は本当に、私に言われるがままで為されるがままなのだ。無抵抗な生き物(正確に言えば幻だが)の何と愛らしいことだろう。

 私は、高鳴る心臓の音に酔いながらカーヤの目の前に座り、視線を合わせる。すると彼女の可憐な銀色の瞳が、嬉しそうに私を見つめた。


「今から気持ちのいいことをするからね。もしかしたら肉体的には痛いかもしれない。でも、自分の内側……簡単に言えば、心の反応の方に注意を払っておいて欲しい。君は純粋だから、きっとすぐに私の気持ちがわかるだろう」

「うん。あんなにしてもらうことは何でも嬉しいよ。はやく初めて」


 カーヤは、まるで自分の全てを私に託すように、力なく私の腕に自身の手を添えてきた。私は、少しでも彼女を落ち着かせる為に、その添えられた彼女の手の甲を優しく撫でた。速まる呼吸の音が高く脈打つ心臓の音と共に、私の中で響く。

 カーヤの片手に添えられた私の腕はそのままに、もう片方の腕を彼女の白いもう片手へと伸ばし、純白の肌を覆い隠す白色の長袖シャツをまくっていく。すると、すらりと伸びた雪のように白い腕が現れる。私は、その汚れなき白色に爪を立て、十分に肉に食い込ませてから、一直線に線を描くように爪を動かす。

 その最中、その光景をじっと眺めているカーヤをちらりと伺ったが、肉体を傷つけられているにも関わらず、その表情に苦痛や苦悶の色は浮かんでいなかった。


「痛くないか?」


 試しに聞いてみる。するとカーヤはふるふると頭を降った。


「ぜんぜん。いいよ、そのまま続けて」


 やはり彼女は、私の為に存在しているのだ。そうに違いない。


 私は、私の鋭利な爪によって引かれた線が徐々にじんわりと赤く滲んでいく光景にひたすら見入った。それと同時に私の魂の震えも大きなものへとなってゆく。もう今となっては完全に血で潤った傷口に口を近づける。血液を一滴たりとも残してたまるものかと無我夢中で唇を、舌を、くまなく動かした。

 これまで幾度も私を虜にした鉄のほろ苦い味が、舌を伝って心臓まで届いていくかのよう。もう血の味のしなくなった傷口から口を離すと、ふわふわとした頭のままカーヤを見上げた。


 カーヤは、やはりかつての母親やエマとは違い、魂を全開放した私を侮蔑するでもなく、にこやかに見守ってくれていた。これで彼女はわかる人間であることが証明された。私が、変態でも異常者でもなんでもない、ただの赤子に等しいような人間でしかないということを。私は、心からカーヤに感謝を述べる。


「ありがとう。カーヤの血、とても綺麗で、美味しくて……何より、君はこんな私を受け入れてくれた」


 私は、あまりの感激に涙が零れそうになる。

 カーヤは、私の礼に得意げになることもなく、喜びを湛えた笑顔で返事をした。


「当たり前でしょ。わたしとあんなはおんなじ。おんなじなの。嫌いになる訳なんてない。それに何より、あなたのおかげで、わたしは今ここにいるんだもの」

「私の……おかげ?」


 カーヤは、ふふ、と未だ崩れることの無い笑顔で私に頬ずりした。これではどちらが赤子かわからない。いや、どちらも赤子なのかもしれない。私もカーヤも同じだと、彼女自身か言っていたように。


「それにしてもやっぱりカーヤにも血はあるんだね。その、突き放しているように聞こえたかもしれないけど、幻想的な君にも血が通ってることが不思議でそれと同時に嬉しくて」


 私は、照れくさくなりながらもカーヤに胸の内を話す。するとカーヤは、頬ずりをピタリとやめ、私に向き直って、残酷な真実を口にした。


「わたしに血はないよ。だってもう生きてないんだもん。さっきのやつは、あんなが求めるからそう見えるようになってたの」


 そのカーヤの発言に、私の口からは魂が漏れたきり何も出てくることはなかった。あまりの苦痛に何も答えることができなかったのだ。これまでの楽園を謳歌するような心地が音を立てて崩れ落ち、代わりに私の中に広がったのは海のように広くて深い虚しさと失望だった。


 カーヤという存在はただの幻、それで得ることのできる幸福もただの幻想……そんな現実を、こんなときにまで思い知らされることになるだなんて、あまりにも酷すぎる。それに第一、実際は彼女に血が通っていないとなると、先程の悦びは全てただのまがい物にすぎないではないか。

 なんて自分は哀れで、馬鹿らしい。血液は、私以外の生き物の中に満ちた要素であるからこそ、価値があるというのに。

 カーヤは、物言わぬ私の頬に不思議そうに白い手を添えた。


「あんな、だいじょうぶ? なんかいきなり、元気がなくなっちゃった」


 カーヤはどこまでも純粋に私を案じる。その分余計に自分の薄情さを痛感する。こんなにも私を思ってくれる相手に、いらない存在、だなんて心のどこかで思ってしまう。それでもカーヤに罪は何一つとしてないことはきちんと理解できている。

 全て私のせい。私がこんな性質なばかりに、私のことを受け入れてくれるような存在を作り上げておきながら、無責任な感情から心配させてしまっている。私はなんて人でなしなのだろう。いや、人では無い。化け物なんだ。そうだ、そんなことは、前からとっくのとうに自覚していたじゃないか。

 私は、ぎこちなく笑みを浮かべ、カーヤへと遅れて返答した。


「いや、少し嫌なことを思い出しただけだ。今日はもう寝ようか」


 私は、お世辞にも綺麗とはいえない床に持参してきたタオルのうちとびきり大きな一枚を敷き、その上で眠ることにした。カーヤは、眠る必要がないのか、横たわる私の隣に腰を下ろす。そして、私の意識が暗闇に落ちる寸前、小さく何かを呟いていた。


「ふふ。はやく会いたいな」




 慣れない場所での就寝だったからか、早朝に目が覚めてしまった。周囲を見回したが、眠りに落ちる前に隣に座っていたはずのカーヤの姿がない。立ち入れる範囲で廃墟中を探してみたが見当たらない。

 まさか一晩で消失してしまったのか……そんなふうに考えても、さして悲しくはならない。カーヤが空想上の存在でしかない限り、私を真の意味で幸せにしてくれることなどかなわないのだから。

 屋外へ出てみると、薄い雲に覆われた空が僅かに垣間見える草むらの中で銀色の光が揺れていた。それはどう見てもカーヤだった。未だ存在していたことについてさして奇妙にも思わず、私は、帰宅が遅かった兄弟を相手にするような心地で、カーヤへと向かい、寝ないのか、と尋ねる。


 するとカーヤは、当然だというように、その必要はないと答えた。その時、カーヤが自分とは違う存在であることを思い出した。

 自分の頭の悪さにさめざめとする。つい先程、彼女が幻であることに納得したばかりではないか……。なのに、いざ彼女の姿を目にすると、途端にそのことを忘れきってしまうなんて。これではまるで、私はカーヤを生き物と認識しているようではないか。

 そんな自嘲に耽っていたら、カーヤが続けて口を開いた。


「あんながまたあそこに来てくれたから、わたしはもう眠りにつくことはないの。でも、あんながまた前みたいに遠くへ行っちゃったら、わたしはまた眠ることになっちゃうから、あんまり遠くへは行かないでね」


 前みたいに遠く、とはいったいいつの話か。一瞬疑問に思うも、そんなことは今重要ではない。


「遠くって、どのくらいの距離までなら大丈夫なの?」


 今の私の質問は、カーヤにとっては難しかったらしく、彼女は瞳を伏せたまま黙り込んでしまう。なので私は別の質問をカーヤに投げかけた。


「今日、陽が出てきたら他にいい場所がないか町中を回るつもりなんだけど、カーヤも来る?」

「ううん、わたしは行かない。それに、ここら辺なら離れてもきっと大丈夫だと思う」


 そうか、と短く答える。昼は別行動ということか。久しぶりに一人になれる、と思う反面、これまでも自分は一人だったではないか、と矛盾した思考に頭がこんがらがりそうになる。幻とはいえ、私にはカーヤが見えているのは事実なのだから、彼女も一人としてカウントしてもいいのではないのだろうか。

 そんなふうに馬鹿なことを考えていたら、またもやカーヤが口を開いた。


「よく考えたら、もしわたしがまた眠っちゃっても、その度にあんなが来てくれたらいいんだもんね」


 カーヤは私を見上げ、真っ直ぐな瞳で見つめてきた。あたかもその目は、私と自分は何があっても離れない、そんなことは至極当然のことである、と訴えているよう。私は、その有無を言わせない気迫に無意識に折れたのか、そんな彼女に応答していた。


「万が一カーヤが見つからなくなったら、また海岸に行けばいいってこと?」

「うん! そういうこと!」


 カーヤは、嬉しそうに笑顔を見せた。

 カーヤの出現条件はやはりよくわからない。なぜあの海岸がそこまで重要なのだろうか。そこで私は、列車を降車してカーヤと出会うまでの顛末を思い出した。

 あの車窓から海が見えた時、私の胸に広がっていたのは、どんな炎よりも熱い切望だった。自分で自分の心理が理解ができないままに列車を飛び出し、逸る心を抑えられずにひたすら海岸を走った。まるで何かに呼ばれているように。


 そうだ、まるで何かに、呼ばれているように。

 それを思案した刹那、私の全身になんとも言えない悪寒が駆け巡り、固まった瞳は未だに草むらの中で立ち尽くすカーヤに向けられていた。彼女の私好みの端正な横顔は、草むらの奥の林の中へ向いている。神秘的な銀の瞳からは何の感情も読み取ることができない。私は、幻であろう少女から、極力音を立てずに離れた。

 派手に動いては、どこに行くの、と無機質な声で問われる気がしたのだ。そのような恐怖がなぜ生じるのかは考えたくもなかった。その折、背後から小さく呟く声が耳に届いた。


「ここにはどこにも花は咲いてないみたい」


 そのような呟き声さえも不気味に思えてならないのは、未だ疲労感が取れきってないからだろうと思うようにし、部屋の中へ戻り小一時間程仮眠した。



 まどろみの中で、私は女性に出会った。彼女は現在の私と同い年くらいに見える。それでも、私が彼女を見る感覚は少女ではなく女性だった。それが何故かはわからない。朦朧とした意識でも、一つだけ確かにわかることがあった。

 名も知らない彼女は、これまで何度か私の夢に出てきていたのだ。それらの記憶は、残酷ながらも覚醒後にはまっさらになってしまう。故に私は彼女に問おうとした。貴女の名前はいったいなんというのか――だが、その私の質問を掻き消すかたちで、彼女は口にした。

 離れた方がいい。

 そのような内容を私に告げた刹那、それまで淡く光り輝いていた白の世界は、彼女を攫い崩壊した。


 雑木林に住み着く野鳥のさえずりによって、私は覚醒したのだった。屋外へ出ると、探索するには十分なまでに日が昇っており、辺りを見回すと、カーヤの姿はなかった。どこかに冒険にでも行ったのだろうか、なんて平和な考えを巡らせて、私は身支度を整え、廃屋を後にした。

 隠れ家の候補が眠っていそうな場所といったら、まずはあそこだろう。軍事改革前の戦争で旧国軍の基地になったきり放置され、今では貧民層の暮らす場となっている、海に近い貧民街。そこを徹底的に調査してみよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る