2-2 願い

 私たちは共に海を離れ、場所を移動することにした。なんといっても、旅にお供はつきものだ。

 幻覚との会話で周囲に奇異の目で見られないためにも、あまり人の多くなさそうなところを探す。自分が置かれている現状の立場を考えると、むしろ人が多い場所の方が安全だが、そんなすぐには私自身も母の死体も見つからないだろう、なんて思ってしまうくらいには気が緩んでいた。


 そうこう散策しているうちに、町外れの雑木林までやってきた。付近の川辺で私とカーヤは休憩することにした。

 私は、持ってきていた非常食を口に運びながら、どこまでも広がる澄み渡る大空を眺める。川も大概だが、それと同じくらい空も呆れる程に呑気に広がっているものだ。羨ましい限りである。

 カーヤはというと、川に身を乗り出してまでじっと水面を眺めていた。そして急に彼女は振り返り、不思議な質問を浴びせてきた。


「水の奥底に入るとどうなるの?」


 いかにも興味津々なカーヤの姿に、幻影ということを疑うまでの生気を感じた。私は、そんな常識知らずな質問に、子供にもわかりやすく教える。


「溺死する。もっと簡単に言えば、息ができなくなって一生目を覚まさなくなるんだ」


 こんなに真面目に幻影と会話するなんて、自分でも、ひとりで何やっているんだろう、と虚無を覚える。だが、カーヤの返答はそんな私の空虚感を無に帰す程のものだった。


「てことは、魂が守られ続けるってこと?」


 カーヤは、ごく当たり前のように、そんなことを口にした。


「不思議な例えだね」


 私は、カーヤの言葉の意味がよくわからず、そのまま思ったことを伝えた。

 するとカーヤは、また水面に向き直り、これまでの幼い印象には似つかない感慨深げな声音で、私では想像もつかないような独特な考えを語り始める。


「一生目を覚まさなくなるってことは、それまでの意識がぷっつり切れて心の働きが終わるってことでしょ。心が何も聞こえなくなれば、もう他のものに上書きされずにそのままの状態で魂は消えていくことができる。それに、消えた魂は、もう誰にも見えないし感じられないし、何かに壊されることは絶対にない。そうして、魂は心の中のものと一緒に、永遠に守られ続けるの」


 私は、幼い少女のあまりの哲学的な語りに言葉を失う。まさか幻である彼女が、そのような完全に独立した価値観を持っているだなんて思いもよらなかった。

 それでも彼女の語りは、まるで私の肉体が透明にでもなったかのように、心の奥まで浸透していった。その心地よくも鋭い感覚は、何か重要なことを忘れかけている私に気づかそうとしているようにも思えた。


「確かに……そうかもな」


 カーヤは、何を思っているのか未だに無言で水面を眺めている。いや、水面というよりも……それよりも更に深い川の奥底に、何かを必死に願っているようだった。

 もしかして、カーヤは幻覚ではなく正真正銘の銀の鳥なのだろうか。私の幸福のために、辛く苦しい時に目の前に現れてくれた。そう信じたいものの、どこか現実主義な私は、それを疑ってしまう。そんなことが本当にあり得るのだろうか、と。


 ――あるいは。あるいは、幻覚でも銀の鳥でもない、全く別の何かだったり……。

 いつにも増して回りすぎた頭のせいで精神が混乱しそうになり、考えるのを一旦やめることにした。

 ただ、ぞくり、と理解不能な恐怖が、心臓を徘徊する。もしもカーヤが、私の望んでいるような存在ではなかったとしたら、いったいどうすればよいのだろう。


 そんなどうしようもないことに不安を覚えていると、当のカーヤが、こちらへ振り返り、すぐ隣までやってきた。

 私は、先程思案していた内容から生じる不安と後ろめたさに、カーヤの方へ振り返ることができない。そんな胸中の分厚いしこりを追い払うように、彼女は私を覗き込み、満面の笑顔を見せる。


「こんなに幸せなの、今日が初めて。あんなもわたしのこと、すきだよね」


 その無垢な言動と可憐な笑顔に、それまで心臓を縛っていた緊張があまりにも簡単に、するりと解けた。

 見上げる彼女に、「うん、もちろん」と自然な笑顔で返す。

 こんな純粋な少女に一瞬でも怯えた自分が間違っていた、こんなに愛らしい少女に不安を覚える要素なんてある訳がないのだ、と、気づけば私は、何かに縋るように自分にそう言い聞かせていた。


 それから私とカーヤは、雑木林を探検した。川沿いの奥には遊歩道があり、案外整備されていて、人通りが全くない訳ではないらしい。幼少期から聴き慣れた、歌うような鳥の囀りが道中ずっと耳に響いていて、まるで故郷の森を歩いているかのようだった。

 それでも、幼い頃から世話になっていた自然の群れに、わざとではないにしても火を放ってしまった記憶は、辛くなる程に胸を軋ませる。それに連鎖して、忌まわしい記憶が浮上しそうになったのをすんでのところで阻止した。今はそんなこと思い出している場合ではない、どこか隠れ家にできそうな場所はないか探す方が何よりも優先だ、と自分を叱咤し、くまなく周囲に目をこらす。


 すると、分かれ道が現れた。このまま直進するか、右折するか。カーヤは、前方を指差して、いい匂いがする、と訴える。その理由を尋ねると、私が欲しいものの匂いが凄く濃い、と答えた。ここはひとまず、不思議な存在であるカーヤの直感を信じてみることにした。

 何か良い発見でもあるのだろうか、と少し期待しながら歩みを進める。少しばかり林道を歩くと、開けた場所に一軒家がそびえ立っているのが見えた。数メートル程離れたここからでも、廃墟でないことがわかる程に庭が手入れされている。にも関わらず、カーヤがそこへ駆け寄っていってしまったので、その後ろ姿を追いかける。

 カーヤに追いつくと、彼女の腕を捕まえ、ここには他の人が住んでいるから入ってはいけないんだ、とあやす。それでもカーヤは、頑なにその家へ向かおうとする。


「なんでそんなにあそこにこだわるの? 他にも探してみようよ」


 私は、家主に見つかっていないことを願いながら、幻に言い聞かせる。


「でもわたし、あそこがいい。あそこじゃなきゃやだ」


 カーヤが自分の主張を曲げようとしないのも、理解はできる。確かにあの家は他の住宅に比べると、かなり立派な作りで、まるでおとぎ話に出てくるような、小さなお屋敷だ。あそこをすみかにできるならば、私だってそうしたい。でもそれは、既に住人が存在しているため叶わない。


「でもあそこに住んでる人は私たちのことを知らないから、きっと中に入れてもらえない。いきなりお願いしても迷惑に思われるだけだ」


 その必死な説き伏せにより、やっとカーヤは諦めたようだった。カーヤは、あの家に一度だけ目配せした後、仕方ない、というように踵を返す。


「そっか。わたしのこと、あっちは知らないもんね。仲良しにならなきゃ、ダメなんだ」


 どうやらカーヤは納得したようで、ほっと胸を撫で下ろす。もしもこのままカーヤが駄々をこねていたら、家主が留守でない限り、一人で家の前を徘徊する危険な奴として私が怪しまれていたかもしれない。

 そのまま私とカーヤは元来た道を戻り、分かれ道のもう片方を曲がった。こちらの道はあまり舗装されていなくて、いかにも獣道といった具合だった。

 そのままずんずんと奥へ進んでいくと、またもやひらけた場所に建物がそびえ立っていた。見たところ、こちらは住居ではなさそうで、そのうえかなり廃れている。

 平坦な造形に、本来扉があったのだろう二つの箇所には現在、長方形の真黒い穴があるだけで、脇の方にはそれと同じような形の格子がはめられた部屋らしきものがあった。経年劣化なのか壁はところどころ剥がれていて、中にまで雑草が生え散らかしていた。これらの特徴だけでかなりの年月放置されていたことが窺える。


 カーヤは、廃墟自体にはあまり興味が無さそうで、建物辺りに生えっぱなしの雑草を弄っていた。私は、廃墟の中へ足を運び、いったい何に使用されていたのかわかるような目印がないか探してみたが、それらしきものは何も見当たらない。

 それでも隠れて過ごすには不便はないだろう。雨風が凌げるのは大きい。ただ、先程目にした家の者に怪しまれずに林道に通う必要がある、という点を省いては。もしもの場合に備えて、他の候補も探しておいた方がいいかもしれない。

 小さな足音に振り返ると、やはりカーヤが中に入ってきていた。ちょうどいい、私はたった今浮かんだ考えをカーヤに話す。


「とりあえず今日はここを家にしよう。カーヤはあんまり好きな場所ではないと思うけど」


 それを聞いたカーヤは予想外にも、不満げな素振りを見せずに軽く了承した。てっきり思い切り嫌がるとでも思っていた分、意外だった。


「その、嫌じゃないのか、ここ」

「べつに。普通」


 そう短く答えるカーヤ。

 そこで私は我に帰る。先程の一軒家のわがままで個を感じ取ってしまっていた故に忘れかけていたが、カーヤは幻覚でしかないのだから、創造主の私に肝心な部分で逆らうような真似はしないのではないか。したくないという感情が発生しない以前に、そのように拒絶する機能が元から備わっていないのではないか。


 当の私でもカーヤについてはよくわかっていないが、彼女はそういうふうにできているのかもしれない。何よりそう思っておいた方が私としては何かと楽だ。

 だが、その分一軒家の件が気がかりになる。あの言動は、まるで幻である彼女に自我が宿っているようにさえ感じた。まさか本当に、自我が宿っているのか……。

 もしかしたらそういうこともあるのかもしれない、と思っておくことにした。深く考えすぎると自分にとってあまり良くない気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る