第2歌 交わる運命
2-1 銀色の少女
始発列車に揺られる私は、これまでの強烈な悪夢の連続から覚めたような、妙に気だるい心地で車窓の向こうを眺めていた。この時間帯は乗客の数が少なく、目の前の景色を遮る障害もなかったため、好きなだけ移り変わる景色に想いを馳せることができる。
どの駅で降車するかはもう決定済みだ。故郷から山を隔てた隣町には、旧市街や学園通りといった、いかにも人間の集まりそうな場所が多数ある。文化の色が非常に濃い上に学生が多いため、国内でも随一の人口を誇っている程だ。運賃も節約できるし雲隠れには適所だろう。
車窓の向こうでは、山の緑で溢れた景色が終わり、海の涼しげな青色が広がった。その風景は私の心を瞬時に奪った。
美しい、といった単純な理由からではない。懐かしいような切なさ、いやそれ以上に、届きそうで届かない何かへの切望。どうしようもなく、砂浜へ駆け寄りたい衝動が私の胸中で荒れ狂う。海に、いや、そこにある何かに呼ばれているような、奇妙な感覚に襲われとても落ち着いていられそうにない。
列車が停車すると、我先にとすぐに降車し、未だ心を触り続ける泣きたくなる程の熱に操られるように、砂浜へ一目散に駆けた。
砂浜へ到着し、息を整えながら辺りを見回す。周囲には誰もいない。ただ、潮の涼しげな香りと静かなさざなみの音だけがあるのみ。それでも逸る心音が、ここには自分の求める何かがある、と確信させる。
私は、人っこ一人いない海辺を歩く。その最中、唐突に視界が白く染まった。反射的に目元を覆った腕を退け、空を見やると、秋の雲に遮られていた朝日がちょうど顔を出したのだった。
淡く暖かな陽光に見守られながら、浜辺の探索を続ける。端の方まで来ると、砂の土台は消え、浅瀬からいくつもの岩礁が突き出ていた。
心音はこれまでよりさらに速まり、我を失った私は、靴底が濡れるのも構わずにその先へ足を運ぶ。
そこでこじんまりとした洞穴――というよりも、崖に自然とできた窪みと表現した方が正確かもしれない――を見つけた。
中には、何故か花束が置かれていた。
それを奇妙に思う暇もなく、これまでよりも一際激しく心臓が脈打った。まるで運命を感じ取ったかのような、摩訶不思議な高鳴りを。
その刹那、鈴の音のようなこの世のものとは思えぬ神秘めいた音が鼓膜を揺るがした。
「やっと来てくれたんだね」
その突然の背後からの声に振り返る。すると、そこには一人の少女がいた。
私は目を疑うと同時に、あまりの感激に涙がこぼれ落ちそうになる。その少女は、眩い朝日を背に、洞穴の真後ろに位置する一際大きな岩礁の上に腰を据えて、満開の笑顔で私を見ている。
その場に立ち尽くしたまま、私は大きく息を吸い込んだ。
長い銀髪に雪のように白い肌、無垢な輝きを携えた銀色の両の瞳。まさしく彼女は、私が幸福に溢れた脳内の世界で頻繁に思い描いていた、銀の鳥そのものだった。私はあまりの美しさにその場に崩れ落ち、見開かれた両目から、とうとう堪えきれずに涙が溢れた。これまでの生き地獄からの反動もあり、余計に涙が溢れて止まらない。
ようやく自分は救われた、そんな感動で胸がいっぱいで、銀の鳥に返事をすることさえ忘れていた。
残酷な外界と戦うことを諦めなくてよかった、どんなに苦しくても生きてきてよかった……まるで、一度奪われた生の心地が、以前よりもより美しいかたちとなって舞い戻ってきたかのようだった。
銀の少女は、岩礁の上から軽やかに飛び降り、感涙に咽び泣く私のすぐ目の前までやってきて、しゃがみこむ。どうやら、私と視線を合わせてくれているようだ。
彼女は、何も言わずにただ鼻を啜る私の胸元を、まるで赤子をあやすように優しく撫でる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。わたしたちはこうして巡り会うことができたんだから。ふふ、嬉しいな。これでわたしの夢が叶いそう」
天使のような少女は、くつくつと笑った。
泣き止み、平生を取り戻した私は、依然として目の前に存在する銀の少女に恐る恐る尋ねる。
「……その、君の名前は?」
少女はその質問に対し、小首を傾げてすがるように私を見るだけ。まるで、自分の名前がわからないといったふうに。
その私の直感は、どうやら当たったようだった。
「わたしにはまだこの姿しかないの。名前はつけてもらえてなくて。だから、あなたがつけて」
私は突然の特別なお願いに狼狽える。
私なんかが、こんなにも神々しい彼女に名前をつける、だなんて、想像だにしていなかった至福だ。
そして私は考え込む。
これまで名前などつけた経験なんてない。それでも、彼女の要望とあらばきちんと応えてやりたいし、どうせならば、喜んでもらえるようなそんなうんと素敵なものがいいだろう。彼女の印象に合致するような、そんな名前。数分もの長い間思案した後、私は口を開いた。
「カーヤ、なんていうのはどうかな。純粋って意味が込められている言葉なんだ。君の初々しい無垢な感じに合っていると思ったんだけど……」
これは自分で口にしていて、かなり恥ずかしい。名前の意味について説明している途中、顔が熱を帯びていくのが嫌でもわかった。
幻想じみた少女は、つい今しがた与えられた自分の名を、不思議そうに何度も口の中で繰り返している。
「かーや、かーや……。うん、とっても素敵な響き。ありがとう、お姉ちゃん。まるでわたし、本当にうまれたみたい」
「気に入ってくれて嬉しいよ。そういえば、私の名前はまだ伝えてなかったね。私はアンナっていうんだ。そのままアンナって呼んでくれて構わない」
カーヤは、何故かきょとんと目を瞬かせた。
「あん……あん? あんな……」
それは、どこか果てしなく遠くの空に想いを馳せるような、切ない声色だった。必死に何かを思い出そうとしているような、健気な響き。
しばらくすると、カーヤは、何かに納得がいったのか、それまで虚空にやっていた目線を私に戻し、可愛らしくはにかんだ。
「そうだ、あんなって、ままみたいなんだ」
いきなりの突拍子もない発言に、えっ、と驚愕の声が漏れる。
名付け親、という点で言えばそうかもしれない。が、私はまだ十六歳にすぎないガキんちょだ。そんな嬉しそうに母親みたい、と言われてもどう反応したら良いものかわからない。
とりあえず、それっぽいことを口にして場を誤魔化すことにした。
「そんなに安心してくれてるの? ありがとう」
カーヤは、変わらずえへへ、と子供らしい笑顔を携えている。彼女の外見年齢は、十二歳くらいといったところか。それにしては、喋り方や仕草などが年齢の割に幼い。そのような違和感があろうともさして不可解ではない。なんにせよ彼女が生身の人間でないことは確かなのだから。
銀の鳥を拾うとそれまで求めていたような幸福を得ることができる、という逸話が本当の話だったのか、こうして考えるのは辛いが、ただの私の幻覚でしかないのか――。前者があまりにもオカルトじみていて、到底ありえないような話であることは、狂いかけている頭でもわかってしまう。それでも、この夢のような幻想ごっこを辞める気は起きない。起きるはずもない。
私は、美しい幸福を手に入れたことへの純白な喜びと、これまで鬱積してきた我欲への渇望が混合して混濁した内側に愉悦が溢れていくのを止められない。それがたとえ、名を授けられて心の底から歓喜するような無垢な少女が相手であろうと構わない。
彼女が幻でしかないのならば、何をしたって許されるということ。私以外の何者にも見えないのだから、現実では許されざる行為だって、決して罰されることはないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます