1-7 狂気の夜

 あの事件から数日が経った。

 私の精神状態は悪化の一途を辿っていくばかりだった。

 特に何もすることのない夜は拷問に等しかった。眠ろうとしても、中々それがかなわない。目を瞑ると、自然にあの銀色の少女が浮かび、彼女は私に対し好意的で無防備で無抵抗。


 そんな愛らしい彼女を頭の中で思う存分に貪る度、仮初の快楽は一瞬で過ぎ去り、代わりにあの夜脚から流血するエマが占領した。その度、一度目にしてしまった誘惑的な光景と、人を見殺しにしてしまった事実が、二重となって私を苦しめる。

 それらの苦痛に抗う為に、私は夜の町を歩き始めた。

 どこへ行く宛もなく、心が無になるように、何も考えずに足を動かす。

 あの日の殺人鬼が今ここにやってきていたならば私を殺せたかもしれないのに、なんと言ったって、事件の場に本当はもう一人付近に獲物がいたなんて、殺人鬼本人が知れば悔しがるに決まっている。

 お前の察知能力が甘かったせいで、こうも私は生き延びてしまった。私も犯人も誠に滑稽だ。


 気づけば、もう墓地付近までやってきていた。ここの坂を上がれば、例の人気のない公園の入り口がある。

 普段その公園に向かうときは、反対方向の道を使っているので、こちら側のルートを通るのは新鮮だ。だが、そんな心緒もぱつりと掻き消えた。生い茂る草垣の向こうに広がる公園の中から聞こえた、ある男女の話し声によって。

 それまでゆったりと前進していた両足は静止した。女性の声が、母のものと酷似していたのだ。

 ちょうど、草垣を挟んだ私の向こうには、バーゴラが位置している。確実と言ってもいい、二人はそこで会話しているのだろう。

 物音立てず、密かに聞き耳をたてていたら、母らしき人物は啜り泣き始めた。口にした台詞からして、何かを男性に見せているのだろうことがわかる。

 男は数秒沈黙した後、神妙で、それでいて驚愕を抑えきれていない声色を放った。思わず、緊張から反射的に私は思い切り息を吸い込んだ。


「ピストルなんて……どうしてこんなものを」


 脳内は漂白され、呼吸をしばらくの間忘れていた。

 聞き間違いなんかではない。聞き間違いなんかではない。


 次いで母の生気のない声が耳を通過した。


「あの子、とうとうやってしまったのよ」


 脳も体も、私の全てが氷のように固まった。今の私には、ただ、聞こえてくるものを聞くことしか許されない。


「まさか、最近あった森林火災、いや、銃殺事件の犯人が、アンナちゃんだったっていうのか」


 男の声は、さほど驚いていないように聞こえた。それどころか、納得しているようにさえ感じられた。


「そう、そうよ。最近、特に変だったから、これまでのこともあって嫌な予感がしちゃって何か証拠めいたものがないか試しに部屋の中を探してみたの。そしたら、机の引き戸の奥からこれが――」


 今聞こえているこの会話はなんだ。幻聴ではあるまい。そもそも、本当にあれは母なのか。あの男は何者だ。なぜ私と同じ名前が出てきた。


 母は何をした、どうしてバレた、おかしい、この世界は何もかもおかしい、おかしい――――――


 私の脳内の処理が追いついていないのもお構いなしに、奴らは会話を続けている。そしてその内容がどんなに私にとって残酷なものであれ、私の鼓膜は無慈悲にも調子を崩さなかった。


「――アンナを理解することができなかった。最後まで私は娘を遠くの存在なままにしてしまった。あの子は悪くない、むしろ可哀想な子。それはわかってるのに、私の馬鹿な心が頑なにそれを認めようとしなかった。なんて最低な母親なのかしら、私。あの子を、アンナを人殺しにさせてしまったのは私のせいでもあるの」


 男が何か慰めの言葉をかけたような気がするが、そんな些細な部分を気にする余裕などありはしなかった。

 私が人殺しだと。そんな訳がないだろう。これまでずっと耐えてきたのだ。

 幼きあの日に、お前に化け物を見るような目で見下ろされてから、ずっとずっと。自分は異端なのだと、母はやはり娘を嫌っているのだと、それを痛く思い知らされた。


 どれ程母に不満を覚えようと、人間として生まれてきたことに憎しみを覚えようと、魂の訴えを必死の思いで堪える苦痛に苛まれようと、私は、社会の枠組みからはみ出さぬようこれまで人間を演じてきた。

 だのにお前たちは、そんな私の孤独も知らずに、本人に直接問うこともなしにいとも容易く犯罪者だと断定するのか!


 それからの会話はろくに頭に入ってこなかった。

 今すぐにでもあの気持ち悪い生き物二匹の頭をかち割って、全身をズタズタに引き裂いてやりたくて仕方がなかった。

 これ程の怒りや憎悪で私の内部が赤く荒れ狂っているのに、両の手足は震え、何もできない現状にただただ打ちひしがれるだけ。とめどなく溢れる涙と同時に漏れそうになる嗚咽を堪えるのに必死で、行き場のない鮮烈な死への憧れが、今はこの世の終わりであるように思えてならなかった。

 そのうえ自分は、何もかも奪われたのだと理解した。人としての尊厳も、幸運にも手に入れた救済への道も、これまでの人生の意味も。


 そうして絶望に急降下していくうちに、沸騰していた頭は、一周回って徐々に冷えていった。混沌とした胸中に静かに生じる殺意に身を任せていたら、自分でも驚くほど冷静に、現状の分析を行うことができるまでになっていた。

 たとえ感情のままに奴らに襲いかかったとしても、大人二人、しかも一人は成人男性に敵う訳が無い。本気で仕留めたいのならば、今から帰宅し、遅れて帰宅した母に攻撃を仕掛けるのが無難だ。刃物なりなんなりを持っていれば、たとえ母がピストルで応戦しようとしたところで取り出すのには間に合わない。

 徹底的に苦しめてやる。そう決心し、静かに踵を返したところで、男による到底信じられない発言が耳に届いた。


「君にできないのなら僕がアンナちゃんを殺そう。そして――」


 流石に聞き間違いを疑った。それでも確かにやつは口にした。殺す、と。

 なぜ。

 警察に突き出すでもなくなぜそのような手段を――。


 もう私の精神は限界に達していた。おぞましい会話から逃れるように、生きる場のない亡霊のような心地で元来た道を戻った。

 当初の計画は白紙となった。あの悪魔と同じ屋根の下で過ごせる程の精神力などあるはずもない。丘の上で樹木に寄りかかり、ただただ昼になるのを待った。吐き気がする程の頭痛で朦朧とした意識の中、胸の中に閉まっていた泥のようなものが溢れていく。


 狂っていたのだ。

 私も、母も、この世界も、初めから全て、どうしようもなく狂っていたのだ。

 もしかしたら私が思っていた程、この世界は倫理的で、道徳に満ち溢れていた訳ではなかったのかもしれない。


 人間は、正義を平然と口にしながら、心の奥底では、常に誰かを殺したいと思っていたに違いない。人間という動物は、なんと恐ろしい生き物なのだろう。初めからこのような奴らが蔓延っている世界で生きようと足掻いた自分が馬鹿だったのだ。

 理解ができない。理解ができない。理解したくもない。


 陽が上り、ところどころから鳥の囀りが聞こえるような、母が出勤しているであろう時間帯に帰宅した。

 とりあえず適当なもので腹を満たし、それからはずっとベッドと同化していた。

 眠って、ただひたすらに眠って、存在しているかもわからない時が過ぎ去るのを待つ。そして何度目かの覚醒。時計を見やると、時計の針はだいたい二十一時をさしていた。


 ああ、あれが帰ってくる。どうすれば、どうすればいい。ああもう何も考えたくない。もう私をこうして苦しめている元凶を排除するしかない。しなければならない。早く、早く終わリタイ。

 そんなふうに、ぐるぐると永遠に同じ場所を回ることしかできない思考に支配されていたら。

 ガチャン、と玄関の扉が厳かに開く音が耳に届いた。


 ベッドからゆっくり起きあがり、静かに燃えたぎる殺意を殺せぬまま居間へ向かう。台所から持ってきた包丁を背後に隠しながら、母の姿を探す。ターゲットはすぐに見つかった。台所のすぐ近くに置いてある丸テーブルにのせたかばんを何やら呑気に弄っていた。忍び寄る終焉の影にも気が付かずに。


「何、探してるの」


 居間の入り口から、それに問いを投げかける。

 それは、まるで怪奇現象にでも出くわしたかのようにビクッと体を震わせ、普段よりも目を見開いてこちらを見た。その驚愕に満ち溢れた間抜けな表情が愉快で、私は一歩一歩近づいていく。背後に隠している包丁をいつでも振り上げることができるように、相手の動向に注意するが、母は、石のように固まったきり動かない。


「ねえ、質問に答えてよ」


 自分の声色が、普段よりも生気を失っていた。


「ピストルなんてあるわけないよね」


 私が淡々とそう言い放つと、母は、表情を変え、「ごめん、ごめんね」と、それしか言えない壊れた機械のように喋った。


「なんで謝るの。自分が悪いって自覚してるってことだよね。そりゃあそうだよね。……お前は、実の娘を殺そうとしてるんだから」


 私は、母に向かって思い切り包丁を振り翳そうとしたけれども、それはかなわなかった。母が、いきなり抱きつくような真似をしたのだから。

 私は予想だにしていなかった母の行動に愕然とし、頭の中が真っ白になった。包丁が床に落ちる音が響いた。


 何、これ。


 それから私は、趣味の悪い夢に閉じ込められたように、母が啜り泣きながら紡ぐ言葉を一方的に聞かされることになった。


「今まで辛かったよね。ここまでおかしくなっちゃって……優しくできなくて、本当にごめんね」


 私の後頭部に何か固いものが当たった。


「アンナの罪、私も背負うから。だからもう、楽になっていいのよ」


 私の後頭部に依然当たっているものは、何かに怯えるようにカタカタと震えている。


「私の唯一の娘、アンナ。愛しているわ。私も、すぐそっちに向かうから、どうか待っててくれたら嬉しいわ」


 私を抱きしめる母の力が僅かに強くなった。それを思い切り振り払い、母を突き飛ばす。


「何が愛してるだ。そんなもの、私に突きつけておいて!」


 母は、ちょうど背後にあった丸テーブルに思い切り背中を打ちつけ、その片手に握られていたピストルは手からこぼれ落ちた。私は、床に転がったピストルを拾う。そして迷わず、苦悶の表情を浮かべる母に銃口を向けた。それでも母は、なぜか怯える様子は微塵もなく、呆けてこちらを見つめるだけだった。

 私は有無を言わさず引き金を引いた。母は額から赤黒い涙を垂れ流し、ぴくりとも動かなくなった。


 私は、殺されるよりも先に殺すことができた。それを認識した途端安堵から脱力し、膝から崩れ落ちた。止めていた呼吸を再開するように、忙しなく息を吐き出しては吸い込んだ。

 ああ、これで私の死を奪う人間が一人減った。あと残るはあの男だ。おそらくは、あの写真に写っていた母の恋人だろう。どうにかして居場所を突き止めることはできないか。


 そこで、そんなふうに自然と思考を巡らせている自分に気がついた。

 これではまさしく人殺しの犯罪者ではないか。

 なんということだ、私は、母とあの男の会話で尊厳を踏み躙られる怒りと悲しみを強く覚えていたにも関わらず、自らその道へ進んでしまっていたのだ。


 私は、あまりの絶望に頭を抱えて蹲った。

 つい先程まで優しく感じていた周囲に漂う空気は、私の極悪性を非難する毒素を帯びているようで、罪に怯える私を窒息させようとする。エマを見殺しにした上、殺人まで犯してしまった――それらの事実が私の心臓に重くのしかかる。


 そして、はたと思い至った。エマといえば、あの銃殺事件……あの被害者の男たちも、母と同じように額を撃たれていた。

 嫌な考えが脳裏に浮上し、それをどこか遠くの場所へ追い払おうとしても、無駄だった。その可能性のあまりの恐ろしさに心臓が芯から凍るようだった。


 人間の脳は、過去の記憶を自分にとって都合の良いように改ざんする場合がある。もしかしたら本当は私は、あの夜の森で、男たちとエマを撃ったのではないか。ただ私が記憶を封じ込めているだけで、あの犯人は私だったのではないか。

 私は、浅く呼吸しながら、ピストルを自分の額にあてた。これ以上考えるのが怖くてたまらなくて、一刻も早く思考を停止させたかった。


 震える指で引き金を引こうとした刹那――ある言葉が、私の胸中で生き返った。



「若者よ。誰にも負けない強固な自我を持ちなさい。何者にも勝る強い意志を持ってこそ、人は真に人として生きられる」



「外界になど決して呑まれるな。君は君のままで、自分の人生は自らで創造しなさい」



 この言葉を口にした人物のことは、今の私では思い出せない。それでも、消えかけていた胸中の灯火に、再び熱を与えてくれるには十分だった。

 ピストルを額から離し、静かに床に置く。


 そうだ。私にはまだすべきことが、諦められないものがあるのだ。

 いつからかぽっかりと空いていた心の穴。その穴の正体を、そして、それを埋めてくれる代わりのものを探し出す……それこそが、こんな残酷な世界に今も私が生きている意味であり、果たすべき使命である。

 私は立ち上がり、母の死体の片付けに移った。空き部屋のタンスの中は、思った通り空だった。そこに母の亡骸を押し込み、扉を固く閉ざす。本来ならば分解して森にでも埋めたいところだが、それには時間が足りない。母の恋人の存在がある限り、いち早くここから立ち去らなければならない。


 母のかばんから財布をとりその中身を全て自分の財布に移す。血痕を拭き取り、シャワーを浴び、あまり目立たない服装に着替える。そしてリュックに財布や水筒、タオル数枚に消毒液に絆創膏、その他にも必要になりそうな場面がありそうなものは片っ端から詰め込む。

 一息ついたところで、肝心なものを忘れているのに気がついた。床に落ちているピストルを手に取り、弾が残っているのを確認してからショルダーバッグに仕舞う。

 朝一番の列車に乗るために、準備したものを全て身につけ、早めに家を出た。まだ陽が登ってまもない緋色の空に、聴き慣れた鳥の囀りがこだました。

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