1-5 運命の音

 今頃男達から必死に逃げるエマへの哀れみの念は、非情にも湧いてこなかった。

 連中もエマも、どこか自分の知らない世界での出来事のようで、いまいち現実感がなかったのだ。もしくは、脳がありのままの現実を鮮明に認識するのを拒んでいるだけなのかもしれない、とも思った。

 なんと言ったって、裏切りも性への危険も、私の世界に受け入れたくない要素の一つなのだから。


 連中が戻ってくるかは分からないが、とにかく早めに小屋を出よう。無造作に外されたブラウスのボタンを全て締めてから、すぐ近くに連中が置いていったランプを手にしようとしたその時だった。


 これまでに聞いた事のないような凄まじい轟音が耳に届いた。 確かに外から、森の中から、普段耳にしない轟音が轟くのが聞こえた。まさか、とは思うも、それは銃声に非常に似通っていた。


 一体外では何が起きているのか。

 混乱状態に陥った私は、ランプを手に部屋の隅で隠れるように縮こまることしかできないでいる。


 あいつらは、エマたちは無事なのか。それとも、あいつらの中の誰かが発砲したのか。もしもピストルを持った犯人がここへ侵入してきたら。そうなってしまっては私に逃げ場は無い。ではどうすれば、どうすれば。

 そうこう思考を巡らせるのと同時に小屋の外では数度銃声が鳴り響いていた。もう今となっては連中の安全などどうでもよかった。

 もしもの時の場合、対抗できそうな物がないか小屋の中を探すと、木こりが置いていったのだろうか知らないが、寂れた斧が見つかった。


 その直後、またもや轟音が向こうで轟いた。私は、いつでも犯人が小屋へ入ってきても応戦できるように、斧を持って扉の横に陣取る。

 もしも窓から中を覗かれたとしても、ここは死角になり向こうの視界に入ることはないだろう。


 どうしても速くなってしまう呼吸を整えることもなく、全神経を扉に集中させる。

 そのまま何時間とも思える長い時間が経過したが、最後に銃声が聞こえた時から一向に小屋の外は静か。

 もしや、犯人はもういなくなったのか。それでも油断は禁物だ。もしかしたら、今まさに扉の前に佇んでいるかもしれない。そう考えると冷や汗がとまらなかった。

 それから地獄のような時間が何十分も経過した気がするが、数分だったかもしれない。とにかく、犯人が現れることはなかった。それでも念の為、まだ小屋の中で待機することにする。


 それからしばらくした後、全身を強ばらせていた警戒は僅かに薄まった。

 窓から外を覗いてみる。先程のような轟音が何度も轟いていたとはとても思えない程、暗闇の落ちた森の中は静寂に包まれていた。


 私は決心し、扉を開け、まずは斧を外へやり、自分自身とランプはその後に外へやった。扉を静かに閉めると、地に置かれた斧を手に取り、ランプの光で辺りを灯しながら、慎重に歩を進めていく。

 今宵は満月ではあるものの、ほぼ縦横無尽に生い茂る樹木らに遮られ、その光はほんの僅かこちらの世界へ差し込むことしか許されない。先ほどの轟音で逃げてしまったのだろう、野鳥の気配は微塵もなく、代わりに死の匂いが充満している。


 内側でこだまする心音が外に漏れ、いるかもわからない誰かの耳に届いてしまわないだろうか。

 そんな不安を募らせながら一歩一歩慎重に土を踏んでいたら、ランプの淡い光が、木々の群れの前方に生い茂る草むらの上に、奇妙なものを照らした。

 それはまるで人の足のようだった。

 嫌な予感が閃光のように駆け抜け、私はその草むらへ、何かを確認するために恐る恐る近づいていった。


 やはり人間がそこに倒れていた。

 息をするのを、私はいつの間にか忘れていた。

 なぜなら、彼の人一倍整った顔の上部には真黒く穴が空き、そこから生命の泉が――血液が流れていた。


 辺りをよく見てみると、他の三人の死骸もすぐ近くに雑然と転がっていた。そのどれもが最初に見つけた彼同様、額から血を垂れ流していた。

 そして、付近から今にも消えてしまいそうなか細い声が聞こえた。


「ア……ナちゃ…………」


 重たい頭を声の聞こえた方へ動かす。そこで仰向けに倒れていたのは、先程目にした4人とは違って額に穴のないまだ息のある人間だった。

 血液で汚れていない綺麗な顔面はかつて友人のふりをしていた少女に非常に似通っていた。瞳は虚で顔も青い。


 私は、彼女の脚に視線をやるのを堪えることで精一杯で、声をかけることはおろか、微動だにできない。

 それでもエマは、喋るのにも精一杯といったふうなのにも関わらず、生気にない唇を微かに動かした。


「た、す……け、て」


 助けて。確かに彼女はそう口にした。

 私は、その命への要望に応えることができないままに立ち尽くす。まるで両足の裏が地面と同化してしまったかのようだった。助けるとは、彼女の元へさらに近づかなくてはならないということだ。


 私の視界は徐々に熱を帯び、歪み、そしてついに、今にも死にかけの女の脚へと魅入られる。痛々しい傷痕からとめどなく溢れる赤い液状の命から目を離すことなどかなわない。新たな罪を増やさぬように私はただ棒のように立ち尽くすことしかできないでいる。


 彼女の脚付近の草は既に血溜まりと化しており、出血量が尋常でないことは荒れ狂った頭でもきちんと理解できている。

 それでも動けない。動かすことができない。現在の私はまるで、エクソシストに十字架を突きつけられた悪魔のように、頭から爪先まで金縛りの状態だった。


 ――あるいは本当に私は悪魔なのかもしれなかった。

 人の命が絶えつつある瞬間でまで、その相手に対し、私に無責任に接近してきたにも関わらず、本当の私を知った途端に拒絶を示し、化け物扱いした事実への憤りを覚えていたのだった。


「助けて欲しいの……? あんなふうに私を拒絶して、陥れたくせに」


 私の声は、鮮明に蘇る怒りや悲しみによる興奮からか震えていた。

 今のエマの耳に届いていようとなかろうと、腹の中で燻り続けていた侮蔑を吐き出す口は塞がらない。


「こっちは分かってるんだよ。あんたが私なんかに接近してきた本当の理由」


 エマの青白い片腕が、ひくりと痙攣した。


「あんたが本当に好きだったのは私じゃなくて、いつもひとりでいる子とも友達になろうとする優しい自分だったんでしょ。自分の優越感のために人を利用することに、罪悪感は覚えなかったの?」


 彼女の脚から溢れる血液のように、私の中からどす黒い感情が溢れ出し、それは制御の効かない蛇口のように、止まることを知らない。

 罵りと非難も同様に、意識もなさそうな彼女へと無慈悲に降り注いだ。そして気づけば私は涙を流していた。


 しばらくの後、何かを思い出したように再度彼女の顔面をランプで照らす。淡い光に照らされた顔は、表情の変化は微塵もなく瞳には何も映していない。

 それを認識した瞬間、私はどこでもない虚空で目を見開き、両手からはそれぞれ斧とランプが滑り落ちた。

 割れたランプから漏れ出る火はみるみるうちに四体の死体が転がる草むらを覆っていく。徐々にその火は樹木にまで広がっていく。


 この世界の何もかもが、自分自身のことまでもが恐ろしくて仕方がなくて、ひたすらに森の中を駆けた。

 やっとのことで異界と化してしまったかつての庭から脱出できたのに、私の体は川に向かって思い切り転倒してしまった。 何かにつまづいた。浅瀬で溺れることがなかったのが、不幸中の幸いだろう。


 冷たい水が今は心地よく、しばらくはこのままでいよう。心の自然の赴くままに仰向けになると、大きな満月と目があってしまった。それはまるで下界を飲み込まんとするかのように地球を見下ろしている。

 私は無意識にそれに向かって手を伸ばしていた。当然、無意味に伸ばされた私の手をとる存在はない。


 いったい私は何をしているのだろうか。罪の再築に怯えた結果、人を見殺しにするという新たな罪を作り出すだなんて、滑稽にも程がある。

 私は世界のどこにもいない存在であるような感覚に陥った。そうでもならなければ、あまりの絶望に、自我を見失ってしまいそうだったのかもしれない。

 その防衛反応でもあるのだろう、いつの間にか、森の中での出来事に思いを巡らせていた。どの道エマを助けることはできなかっただろう。なにしろあの出血量だ。たとえ私が彼女を街まで運べたところで、元より瀕死状態だったのだから、希望は見られなかっただろう。何より、最悪な場合、エマは正気を失った私によってさらに苦しめられていたかもしれない。そうだ、だからあれは仕方なかったんだ、と。


 足元を見やると黒い塊が落ちていた。先程つまづいたのはこれだろうか。なんとなしに手繰り寄せると、それは立派なピストルだった。先程の犯人のものに違いない。

 奴もここを通ったとなると、あまりにも気味が悪い――そんな時、視界の隅に映る森の奥が夜であるにも関わらず明るく光を放っていることに気が付き、反射的にその輝きへ目線を滑らせる。


 森の奥は、既に炎の海と化していた。

 私は、それまでの思考を放り投げ、またもや無我夢中で走り出した。あたかも、あの炎が今にも私を飲み込もうと迫ってきているような気がしてならず、一刻も早く安全地帯へと帰らなければならなかった。


 玄関扉を閉めるなり脱力感からその場で崩れ落ちる。そして、それと同時に、ガシャン、と何やら固いものが床に落ちる音が足元から響いた。

 息も絶え絶えに身の回りを探ると、手に触れたのは先程のピストルだった。私はそれを手に取り、うっすらとした意識でそれを眺める。


 ああ、なんていいものを拾ったんだろう、とその時の私は、表情を緩めた。これでいつでも自分から死を招くことができる。

 それはなんと幸福なことかと、心の底から喜ぶ私。それ故に、この一件が私の運命の分岐点になるだなんて、思ってもいなかったのだ。

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