1-3 選択

 初秋の夜の寒さは、星々も雲の裏へ隠れてしまうほどに肌寒かった。そんな中、いやがおうなしに脳内を占領してくるのは、あの日のエマ・アムゼルだった。

 あの日から生じてしまった呪縛は今も尚私を苛む。あのような出来事考えたくもないのに、無理やりにでも私の脳みそをこじ開けて入ってくる。こちらを見る嫌悪と恐怖の瞳が夜空の向こうからこちらを見据えた。私は反射的に目を閉じた。それでも彼女は私のことを許してはくれない。


 暗闇の中を、不安定に揺れる文字の羅列が浮いていた。気持ち悪い。その文字も、そう言い放ったエマも、こうしてくだらない黒歴史にいつまでも縛られ続けている私も。

 世界のどこにも逃げ場を無くした私は諦めて閉じていた目を開けた。もう夜空の向こうから、鋭い氷柱のように私の心を射貫く気配は感じなかった。


 どこか誰も知らない、誰もいない場所へ逃げてしまいたい。あるいは、今すぐにでもどこからか刃物を持った通り魔が、私を刺殺してくれたならばどれほどよかっただろう。誰でもいいからこの苦痛から解放して欲しい。

 自然なその願いにすぐさま異を唱えるもう一人の私がいた。今ここで死ぬべきでは無いのだ、と。

 思えばあの日、エマ・アムゼルからの拒絶と引き換えに、私は尊いものを、長きに渡り失っていた自分自身を、取り戻したのではなかったか。

 それは決して蔑ろにしてよいものではない。

 どれほど素晴らしいことか、命を賭ける価値があるのか、理解できないほど愚かでは無い。


 今もこうして私の内側にぽっかりと空いた穴の正体。本来在るはずの失くなってしまったものの正体。その代替として利用できそうな対象。

 ずきん、といつもの頭痛が襲ってきた。いつもこうなのだ。私が本来の私自身を見つけ出そうとすると、決まって頭痛が邪魔をする。


 ――思い出して欲しくないほど、残酷なものなのか。


 人間の脳は、何かとんでもなくショックな出来事に見舞われると、精神崩壊を防ぐために、その記憶を封じ込める。もしかしたら私もその例に当てはまるのかもしれない。

 それでも良い、もとより自分は生きていく気力などさらさらにない。唯一気がかりな私の空虚について知ることができるならば、私はもうそれで満足なのだ。


 そう考えることは自然なことであった。なのにも関わらず、私の脳みそは――私自身は、それを拒絶する。



 学校から帰宅すると、普段は近所の森へ散策に向かうのだが、ここ数日その習慣は阻まれている。

 その理由としては、邪魔者の存在がある可能性を考慮してのことだった。あのエマとの事件があった後日、いつものように森へ向かうと、おそらくエマから聞いたのだろう、あの児童公園での男子グループが入口付近で待ち構えていた。


 彼らの誰もがにやにやと薄気味悪く笑い、接近してくる私をじろじろと見た。わたしはそれらをただのハエだと思うことで気づいていないようなふうで通り過ぎようとした。が、私と奴らの距離が、会話ができるくらいまで縮まったところで、例の一番イケメンな男が、汚い口を開いた。


「人の傷を舐めるやつなんている?」


 ほかの男どもはそれに便乗するように、ふふっくくくと笑った。私の沸点が爆破されそうになり、あやうく表情を崩すところだった。

 私が通り過ぎると、他の男の声で「変態なくせしておすましとかやるわー」と大きく吠えるのが耳に届いた。私の内側は怒りの嵐で荒れ狂い、その日以降そこへ足を運ぶのはやめた。


 それでも奴らは執拗に私を追いかけ回してきた。町外れの丘にまで奴らは出没した。私の読書中、そろそろと極めて慎重に姿を現し、私と目が合うと、またもやにやにやと下卑た笑いを浮かべ、なんと今度はにじり寄ってきたのだった。

 その時点で私は危機感を覚え、すぐさま走って丘をおりた。無我夢中で駆け、小道に入ったところで背後を振り返ると、奴らの気配が無いことに安堵を覚え、そのまま自宅へ走った。


 自室へ避難するとベッドにうつ伏せになり、先程の情景を回想した。奴らはなぜ私へ向かってきたのだろう。

 私を怖がらせるためなのか、それとも、何かしようとしていたのか。考えても気分が悪くなるだけだったので、その日は煮えたぎる悔しさを噛み締めて眠りに落ちた。


 森も丘も危険地帯となってしまっては、暇潰し兼憩いの場として安全な場所は限られてくる。そこで私が代替として選んだのは、墓地の隣の小さな公園だった。

 ここは陽射しが悪く狭いうえに立地が悪いので、普段人の姿を見ることは無い。だが、その日は驚くことに、バーゴラに老人が座って新聞を読んでいた。私は少し躊躇するも、老人の反対側に腰掛け、読書を始めた。


「いやぁ驚いた、こんなとこに若い子がくるなんて」


 それが自分に向けられたものだと少し遅れて理解した私は、慌てて口を開いた。


「ここ静かだから結構好きなんですよ」


 当たり障りのない返答でどうにか場を誤魔化すことができた。そこで単純な会話は終了したかと思いきや、老人はまたもや口を開いた。


「君は綺麗な目をしているね」


 きっとこの老人は若者相手になら誰にでも同じことを言うのだろうと思ったが、どうやら違うようだった。


「もう君くらいの年頃になると、大抵は本来持ってた輝きが他のもんに塗りつぶされていってしまうんだけどね。他のっていうのは、性とか社会とかな。それが不思議だ。君にはそういった濁りがなく、未だ輝きは保たれ続けている」


 それまで半開きだった老人の目は、まるで未知なる生命体を目にしたかのように興味深げに見開かれている。

 これまでそのような反応を示されたことが無かった私は、小さくはぁ、と答えにならない答えをこぼし、うろたえることしかできなかった。


「君には信頼できる相手はいるかい。どんな悩みでも打ち明けられるような、そんな相手は」

「残念ながらいません。会ったこともありません」

「ほほう。それは良いことだ」


 老人の予想だにしていなかった返答に困惑して彼の鼻辺りに目をやることしかできずにいると、私が聞くよりも先に、彼は答えをくれた。


「人間なんていうのはね、君も知るとおり酷く気まぐれな生き物だ。意思の強いもんなんてそうそういないのさ。要するに、いつだって信用できるのは自分だけってことだ。家族だろうと教師だろうと容易に信用してはいけないよ。そりゃあ、本当にしんどいときは存分に頼りなさい。利用してあげなさい。人間は結局のところ、利用されるかされないか、そのどちらかでしか関係性を築けない。でもそれでいいんだ。いつだって教訓にできるのは自分の人生か、あるいは人類全体の歴史さ。現在この国は休戦中ではあるが、基本的に地球上のどこかしらでやりあってるだろう、あいつらは。あれが人間の本性さ。ここらみたいな平和な土地での何気ない日々にだって、その片鱗を見せるもんは多い。そういう奴ほど、自分は善人であると信じて疑わない。自然と生じてしまう感情という刃を、一方的に人へ突き付けていることに気がつけないのさ。だからね、他人につけ入りさせないためにも賢いもんは、誰に対しても本心は隠すんだ」


 老人は、一気に喋ったからか、ふぅ、と大きく息を吐いた。


「なぜそこまで忠告してくださるのですか。たった今会った、私なんかに」

「さっきも言ったろう。君は、ほかのどの者よりも高尚な輝きを持っている。わしはそれを、歳を重ねていくうちになくしていって欲しくないんだ」

「私もなくしたくありません。私は嫌いな生き物なんかと同類に落ちたくなどありません」

「やはり君は美しい。わしも久しぶりに長く話したかいがあった」


 老人は新聞を折りたたみ、立ち上がってからまた私を見て口を開いた。


「若者よ。誰にも負けない強固な自我を持ちなさい。何者にも勝る強い意志を持ってこそ、人は真に人として生きられる」


 私は、きゅっと唇を結び、牧師なんかよりも偉大な覇気を纏った男性をただ見上げた。


「外界になど決して呑まれるな。君は君のままで、自分の人生は自らで創造しなさい」


 老人はそう言い残すと、こちらを振り返ることも無く街の方へ去っていった。

 胸の奥で生まれたばかりの真新しい意志が、この時の老人との会話によって、本当の意味で私の中に生まれ落ち、産声をあげた。私の心に空いている異物の正体を探しだしたい、そう泣き叫んでいた。



 ある日奇妙なものが郵便受けに入っていた。一通の封筒だった。どうやら私宛らしい。

 自室へ戻ってから開封してみると、どうやらエマ・アムゼルからの手紙らしかった。今更、奴はいったい何を考えているのか。そう怪訝に思うのと同時に、私の胸にはまたもや雑念が生じた。

 もしや相手は私との仲を修復したいのでは、なんていう馬鹿げた期待だった。


 つい最近老男性の言葉にあれ程感激を受けたというのにも関わらず、またもや誤った心境に落ちてしまったのだ。そんな自分の弱さに胸中をもやもやとされながら、文字の羅列に目を通す。どうやら私の期待は叶ってしまったらしい。


 エマは、以前の衝撃的な出来事について、改めて二人で話し合いたいと申し出た。文章の後半には、指定の日の夕方頃森の入口で待っている、との内容が書かれていた。

 私は酷く悩んだ。手に入りかけた憧れをもう一度手中に収めるか、心の純潔を守り切るためにその煩悩を断ち切るか。

 そうしてぐるぐると終わりのない悩みの迷宮を彷徨ううちに運命の日は自然と近づいてくる。


 結局、私が選んだのは、老男性の言葉を裏切る方だった。

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