1-2 あやまち
エマからの接近を拒絶すればいいものを、最近の私はどうも調子が悪く自分の意思に従えないでいた。こうなってしまうならば、初めのうちにエマという怪物を振り払っておかなかったことを激しく悔いるも、そんなこと後の祭りでしかない。
とにかく、限界まで真人間を演じる他無い。そんな、いつまで彼女を騙し続けることができるのか果てしない不安に覆われる日々の中のあるひと時である。
その時、私とエマは児童公園のベンチに腰掛け、彼女が見せる恋占いとやらの本のページを眺めていた。ちなみに、私は当然ながら恋占いなんかには興味が無いので、無理やりエマに合わせる形での暇つぶしだった。
すると、同年代の男子四人程の群れが姿を現した。彼等もエマと同じく町の学校の同級生だった。そのうちの一人、その群れの中では一番顔の整った男がこちらに気づいてやってきた。
「エマ、お前アンナと仲良かったのかよ」
そのイケメンは大きな目を僅かに見開いて意外そうに口にした。それを受けたエマ当人は、普段よりも微妙に高い声と子犬のような笑顔で答えた。
「えへへ〜そうなの。私から声掛けたんだよ」
残りの男たちもイケメンに続いてぞろぞろとこちらへやってきた。他の男たちもそれなりに顔が整っていたことから、人間は似たようなもの同士でつるむというのはどうも事実らしい。
私は、あまりの居心地の悪さに、男たちに気がついていないといったふうに恋占いの本から視線を外さなかった。元々私と彼らではこれまでの交流は皆無であるため、私に話しかける者はいなかった。
「なんだよ、お前ってやっぱり優しいな」
「やめてよもう、そんなことないんだから」
イケメンに褒められたエマの反応に何故か胸の奥がゾワゾワした。
それは、彼女のこれまで見たことない色気づいた態度への嫌悪感と、何故か生じた見当もつかない不安だった。それについてこれ以上思案しようとしても胸のざわめきは増していくだけだったので、他のもので誤魔化すために恋占いの本の上で連なる活字を目で追うのにひたすら集中した。
そうして生々しい地獄じみた時間を凌いだ。二人の会話が終わると、男子たちは奥の方でサッカーをし始めた。
エマは、こちらに向き直った。
「話聞いてたかもだけどさ、ワイン祭り一緒に行かない?」
その時のエマの声色がいつもより弾んでいて、先程のこともあり、余程イケメンとの接触が嬉しかったのだろうな、と内心で少し見下した。
「でも私、ワインあんまり好きじゃない」
「ワイン飲まなくてもさ、屋台いろいろ出るじゃん。ねぇ、行こうよ」
その誘いの言葉に、これまでの純粋さではなく有無を言わせぬ気迫を感じた。彼女のどこかが違っていた。が、それが具体的にどこがどういったふうにとまでは、ただの人間である私に分かるはずもなかった。
「わかった。そこまで言うなら」
結局、折れたのは私だった。今のエマに逆らうと、なんだか面倒なことになりそうな気がしてならなかった。
私の返答を聞いて、エマは満足気に口角を釣りあげた。その笑顔に似ているが笑顔では無い妙な表情が、私の正体不明の不安をさらに大きくした。
ワイン祭りの日は難なく訪れた。
未だ拭いされぬ謎の不安によるものなのか、今朝から左側のこめかみの少し上ら辺がずくずくと痛みを訴えている。その危険信号を尊重し、今日は一日自室で休息を取ろうかとも考えたが、先日のエマの様子を思い出すととても気が引けた。
エマに指定された児童公園へ向かうと彼女はもう既に到着していた。エマは相変わらず楽しみで仕方ないといったふうにご機嫌だった。
早速祭りの会場へ向かう。その道中他愛のないことを話した。
中でも驚いたのが、以前街に住んでいたわがままな少女――噴水広場での彼女が、数年前に山の向こうの隣町へ引っ越したということだった。複雑な家庭環境だったらしく、男遊びを辞める気のない母親を置いて父親と娘だけで家を出たらしい。なるほど、そのような境遇ならばあの性格も頷ける、と一人で納得した。
そしてエマから聞かされた中で最も不快感を覚えたことは、先日遭遇した男子のグループと一緒に行動するといったことだった。
私はその説明がいきなりだったのもあり嫌な気分を隠せず、眉をしかめ、「はぁ」と苛立たしげな声を漏らしてしまった。
すると、エマは鋭く目を細め、こちらへの不満を露骨に表した。それは、まるで私に、口答えをするなと言っているように思えてならず、不満はさらに膨れ上がるばかりだった。
その一件で、ただでさえ胃が苦しかった体はさらに緊張が高まり、隣を歩くエマへ芽生えた不信感からか、左目の奥が痛み、呼吸が浅くなっていくのが嫌でも分かった。今日はもう帰らせてもらおう、そう考え、口を開いた。
「ごめん、実は今日朝から頭痛が酷くて、今もかなり体調悪い。帰ってもいいかな」
その時の私の弱りきった声から、それが嘘では無いことを理解して貰えたことだろう。
だが、エマの反応は私が期待していたものとは違った。
「ねぇ、ならちょっとここら辺で休憩する? 休んだら良くなるかもよ」
エマは普段よりも早口な棒読みでそう答えた。
最近のエマの様子がおかしいのはとっくに気がついていたが、さすがに今回ばかりは悪意しか感じ取ることができず、我慢の限界だった。それまで自然と蓄積されていた鬱憤が今爆発した。
「そんなにあんたは私を言いなりにさせたいの。もううんざりなんだよ、勘弁して。悪いけど、今日はもう帰らせてもらう。あいつらと楽しんできてね」
私は踵を返して元来た道を戻った。数歩歩いたところで、背後からエマの、「待って!」と呼び止める声が聞こえたかと思いきや、次いで地面に何かが派手に落ちるような音が響いた。
「うぅ……」
それらの音に振り返ると、転倒したのか、地に倒れふすエマの姿がそこにあった。砂の固い地面に体をぶつけた痛みからか、力ない嗚咽が耳に届いた。
私が駆けつけるより前に彼女はのっそりと立ち上がった。膝小僧を派手に擦りむいたらしく、朱色の肉が見えていた。その上に砂が張り付いていたので、今すぐ水で流すよう促した。
だが彼女はそれを嫌がり、肩から掛けているポーチの中から絆創膏を取りだした。
「水で流さなくても何とかなるって。それよりも、アンナちゃん、体調の方はもう平気なの?」
「確かに頭は痛いし息苦しいけど、砂を水で流すくらい短時間でできる」
私はというと、手提げ袋に入れていたペットボトルを取り出し、その水でハンカチを湿らし、それをエマに差し出した。
「砂を取り省かないと傷口の治りが悪くなる」
エマは、最初こそ唇を僅かに突き出し不服を訴えたが、下げていた目線を上げ私と目が合うと、渋々と口を開いた。
「わかったわよ。じゃあお願いなんだけど、アンナちゃんが洗ってくれない? 傷口怖くて見れない」
エマの幼稚な発言に呆れかけるが、洗うようここまでごり押ししたのは他でもない私だ。何となく覚えてしまった責任感から、仕方なく彼女を近くのベンチに腰掛けるよう促した。
湿らせたハンカチを傷口にそっとあてる。雑に拭いてやろうか、なんて邪念が一瞬胸の内を掠めたが、哀れなことに私という人間は変なところで几帳面なのだ。
心では不服でも、頭が自動的に私の体を動かすもので、それがまた腹立たしい。
傷口にハンカチをぐっと押し当てる。どうやら本心が出てしまったようで、その際かなり力んでしまった。エマが小さく「ひっ」と漏らすのが聞こえ、その情けない声に優越感からか私の口元は歪んだ。
軽く擦ると大半の砂は取れた。擦る度に、恐怖からかはたまた痛みからか、エマの膝小僧はまるで産まれたての子鹿のように震えた。それは何もおかしな挙動ではない筈なのに、体調が悪いせいなのか、なぜだか胸の中とも腹の奥とも言えぬ不思議な場所が妙な疼きを訴えた。
そのうえ自分の鼻息が荒くなっていることに気がつき、体調のためにもなるべく早くこの茶番を終わらせようと努めた。
深い部分にくい込んでいるものまではさすがに先程の攻撃だけでは排除しきれていなくて、四つ折りにしたハンカチの角でちょいちょいと削るように擦ってやる。
頭上から仕切りに「いたっ」という悲痛な声が降りかかるも、こき使われているのはこちらなため容赦などするわけが無いだろう、と内心で鼻で笑ってやった。その清々しい気分たるや、身体中に熱い波が打ち寄せているような快感に見舞われる。数度それを繰り返し、その度に私の全身が、特に例の不思議な場所が、疼いて仕方なかった。
やっとのことで浮き出てきたしぶとい砂を親指と人差し指の爪で挟みとる。そうして少しずつやっていると、いつの間にか砂は完全に取り除かれていた。
砂で汚れていた傷口は、水彩絵の具で着色されたリンゴのような淡い朱色を全面に現している。自身の指を見やるとやはり、あれらの砂が血が特に滲んでいる部分にくい込んでいたために、両の爪の先に僅かに血が付着していた。それを認識した瞬間、それまで着実に私の中で膨れ上がっていたものは派手な音を立てて爆発した。
「もう終わったの?」
エマはおずおずと問うてきた。
それに答えることなく、気づけば私はエマをベンチの上に押し倒していた。エマは、現状が理解できていないといったふうに呆気にとられているが、かくいう私も理解できていない。
なぜ自分はこんなにも追い詰められているのか、それでいて高揚感を覚えているのか。それでも私の右手は、自然とエマの左腕に這う。そこを確かめるようにすりすりとなぞると、エマはさらに困惑したようにしきりに瞬きして「えっ、えっ」と焦り声を漏らした。
先程から困惑されっぱなしのエマに構わず、私の右手はなぞっていた彼女の左腕に爪をはわせ、そのままずりずりと皮膚を裂いていった。
それによって浮かび上がった一本線が赤く染まってきたところで、エマの表情が強ばった。自分が今いったい何をされているのかに気がついたようだが、彼女は抵抗する意志を見せない。それが嬉しくて、私は思わず彼女に聞いた。
「いいの?」
その私の声は歓喜に震えていた。
エマからの返事は何も無い。彼女はただ潤んだ瞳で黙ってこちらを見あげるのみ。
私はその好意に甘えることにした。じわじわと赤が滲むエマの体に新たに刻まれた傷に舌を這わせる。
舌を焦がす懐かしい鉄の香りに、私の内側に色とりどりの花々が咲き誇った。
久しぶりの幸福に私は涙したくなった。体が熱く、例の妙な疼きは未だ収まる気配がない。次は、右手を最新の傷から間隔を空けたところにそっと這わせた。
そして、エマの顔を仰ぎ見、それまでぬるま湯に浸かるような心地に泥酔していた私の意識は、冷水を浴びたように一瞬で醒めた。
そこには、恐怖と軽蔑が綯い交ぜになった瞳があった。その瞳が私に何を言わんとしているのか、残酷にも、私は分かってしまうのだった。なぜならそれは、数年前の噴水広場での事件の際、見下ろす母の顔と同じだったのだから。
私はすぐにその場を退いた。何か言うべきであるのに、私は何も口に出せなかった。
頭の中が見事なまでに真っ白で、この場を取り繕うのに最も正しい言葉を選ぶ余裕がなかった。といっても、どんなふうに言い訳をしようと、してしまった事実を変えられはしまい。それをきちんと理解しているからこそ、ただならぬ絶望感が心臓をまるで蔦のように這い回っていく。
もう取り返しはつかない。それだけが唯一残された答えだった。
そして、何も言わぬ私よりも先に彼女は口を開いた。
「気持ち悪い」
私はその場にただ立ち尽くすことしかできなかった。私をたった今言葉で突き放したエマは、逃げるようにしてその場を走り去っていった。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、私は膝から崩れ落ちた。そして、天を仰ぎ見た。
ああ、神とやら、私が幸福になるには、やはり誰かを傷つけなくてはならないのか。
神など微塵も信じていないが、それでも、この魂を巣食う絶望を虚像にでも何にでもぶつけなくては気が済まなかった。
そうしなければ私は、きっとさらなる深みへ落ちてしまうだろうから。
その時になってようやく涙が零れ落ちた。幸福な瞬間には出てこようとしなかった癖に、こういう時には活動的になるこの嫌味な体液に憎悪の念を抱いた。
それからすぐに帰路へ向かった。その日、自室の暗闇だけが私を癒してくれた。
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