第1歌 巣立つ雛鳥
1-1 乾いた日々
ここは監獄だ。そして私は囚人だ。
皆同じ教室に集い、授業では皆同じ内容を頭に叩き込まれ、日曜日には皆同じように賛美歌を歌わされる。そのような気味の悪い日々の光景を眺める度に疑問に思う。
何故誰も自分たちの置かれた状況に疑問を持つことなく、機械のようにそれに従うのだろう。
そんな奴隷のような生活を当たり前のように過ごす自分以外の人間が不気味で仕方がなかった。そのために、私は極力他の人間との接触を避け続けた。中には、誰とも交流を持たない私を奇異の目で見る者もいた。
が、数ヶ月も過ぎると、そんな異端者もなんら当たり障りのない彼らの日常風景の一部とかしたようで、誰も私をからかう者はいなくなった。
この数年で私は学習した。私のように他の生き物の血液で悦びを覚える人間はごく少数であること。もしもこの趣向が他人にバレてしまったら、母のように化け物として見られ忌み嫌われてしまうことを想像するのは容易だった。
それでもいつかいつかとみなぎる願望を胸に潜めながら、人と関わる際は至って普通の人間を演じた。演じている私を本当の私だと認識する他人を思うのは愉快だった。
学校終わりまたは休日には近所の森に入り浸り、そこで触れ合う自然を愛した。私にとっては人間よりも自然の方が身近な存在であり、なんといっても自然は何も言わずただ寄り添ってくれる。自分を演じる必要がないというのは脱力してしまう程に楽だった。
現在、周囲が本格的に色めき立つ時期を私は生きていた。それが余計周囲を奇怪な生き物だと認識させる要因となった。恐らく、私には性的本能が欠落していた。それらの周囲との差異が、幼少の頃よりも私を空虚で満たした。自分は他と比べて何も持っていない哀れな人間だと思う度に、これまで目にしてきた赤い血が思い出された。
あれらの記憶があってこそ私は私でいられる。
中でも、小さい頃に町の噴水広場で金髪の少女の腕を爪で引っ掻いた事件の記憶は、どんな思い出にも劣ることの無い新鮮さを維持したまま記憶の宝箱に保存されていた。
今にして思う。もしかしたら私は、あの瞬間、真の意味でこの世に生まれ落ちたのかもしれないと。それでもそんな感動も、社会という監獄を穏便にやり過ごすには封じる他なかった。そのおかげで今の私は生ける屍同然だった。
思えばいつも私は心に空いたこの穴を埋める何かを探していた。それとも、私の中から零れ落ちた何かを取り戻そうしたのかもしれない。それが何であったかは分からない。そんな筈がないであろうことは承知していた。
それでも私はその正体を知ることを無意識のうちに拒んだ。真実が禁忌であるということを理解しているにも関わらず、それに焦がれていた。どうしようもなく求めてしまった。
それでも一向に大きな穴は埋まらず、近頃の日常といえば、ただぼうっと周囲に佇む風景を眺めている、それだけだった。
世界が色褪せていることに気がつけなかったのは、おそらく、私自身も同じように色褪せていたからだろう。
気分を切替えるように私はズボンのポケットに手を入れた。そして数回重ね折られた紙を取り出し、開くと、母に頼まれたおつかいの内容が書かれていた。数種類のパンの名前が私とは程遠い丁寧な字で並べられている。
ここにこのままいる気がとても起きなかったので、暗黙の了解に従いいつものパン屋へ足を向かわせた。
街へ入ると、さほど歩かずに目的に到着した。個人経営のこじんまりとした建物を見上げ、もう随分と通い慣れたものだ、とひとりごちた。パンを買う時は必ずといっていいくらいの頻度でここを利用している。
感じのいい女性店員の他愛ない世間話に当たり障りのない相槌をうちながら会計を済ませ、店を出た。
すると、ちょうど入れ違いになる形で見覚えのある少女が通り過ぎた。いや、正確には、通り過ぎそうになった。少女は、そのまま店の中へ消えることなく意外な行動へ出た。
「ねぇ、アンナちゃんだよね。私のこと覚えてる?」
まさかこんな場所で、こんな人物に声をかけられるとは思ってもいなかった。人が嫌で森から出てきたというのにとんだ災難に見舞われてしまった。
だが、相手が理解不能な生き物であることを忘れてはならない。ここで対応を間違えれば、最悪な場合、毎日死守している平和が崩されてしまうかもしれない。
「うん。覚えてるよ。よく美味しいパンを買わせてもらってるよ、ありがとう」
よく分からない生き物の相手をするには、自分もよく分からない生き物になる必要がある。故に、私は奴らの真似事をした。嘘にまみれた上辺だけの笑顔を少女へと向ける。
少女は、私の演技にうまくハマってくれたようだった。
「そんなこと言ってくれるなんて嬉しい! ママとパパに報告したら二人も喜ぶよ。何より、あのアンナちゃんが私のこと覚えててくれたのが不思議だよ」
少女は、心から安堵したかのように胸をなで下ろした。
彼女は、つい先程のパン屋の一人娘で名をエマ・アムゼルという。ここの町は子供が少ない故、小学校の頃のクラスメイトを記憶しているのはなんら異常なことではない。
「そうかな。エマちゃんは存在感があったから覚えてるのかも」
できるだけ朗らかな声色を意識した。するとエマは、意外だとでもいうように一瞬呆けた後、照れたように笑って言った。
「そんなふうに言って貰えるなんて思ってもみなかった。ふふ、ありがとね」
私は、にこりと微笑んで応えた。キリがいいので踵を返そうと片足を動かしかけた刹那、腕を捕まれぐいと引き寄せられた。
「ねぇ。あなたって、いつもひとりでいるわよね。それはどうして?」
「なんとなくだよ。特に理由なんてない」
「よかったら私とお友達にならない?いえ、なってくれなきゃダメよ!」
真っ直ぐな瞳で射抜く彼女の言葉を認知した瞬間、頭の中が漂白された。彼女の気分を害さずに拒否するにはなんと答えるのが正解か、ぐるぐると回る脳みそは最善の答えを見つけてはくれなかった。
その時私はどのような表情をしていたかは分からないが、彼女はこれまで以上の花開くような笑みを見せた。
「じゃあ、決まりね。今日から私とアンナちゃんはお友達。いいわね?」
時が静止したかのようだった。一向に言葉を発さない私を気にとめるばかりか、あろうことも彼女は、それを肯定の意と受け止めたようだった。 どのような思考回路をしていればそのような解釈に行き着くのか理解不能であり、もっと言ってしまえば、孤独を好む人間に無理やり親交を押し付けるその精神に恐怖を覚えた。
相変わらず私は何も答えることができないでいた。それでもエマは、どこまでも自分のことしか考えておらず、「じゃあまたね、ばいばーい」と満面の笑みで手を振りこじんまりとした建物の中へ消えていった。
私は数分間そのまま立ち尽くしていた。どうかただのエマの気まぐれであるようにと願う他なかった。そしてもう二度とこのパン屋には近づかないことを決意した。
先日の決意に則り私は例のパン屋に接近しないよう細心の注意を払った。それでも、向こうから思わぬ形で接近されるものだから、完璧な回避は困難であることを突きつけられた。
あろうことか、ある日普段休息の場としている近所の森にエマが忽然と出没したのだ。
森の入口にて、彼女は木の幹の影からひょいと姿を現した。私はそれに気づかないフリをして通り過ぎようとした。
心の底でその徹底した無視に相手の接近する気が失せることを願った。だが効果は無しで、なんと彼女は無視されたことを咎めることなく気さくな態度で自然に話しかけてきた。
その時の私の作り笑いは、驚愕と憔悴で普段以上にぎごちなかっただろう。「静かで良い場所だね。ここにはよく来るの?」なんて質問された時には、思わず「そんなことまで詮索してくる暇があるならパン粉でもこねている方が余程有意義たど思うけど、違うかな」と一蹴したやりたくなった。
今にして思えば、そうしたとしても私の日常に何ら影響は及ぼされなかっただろう。だがその時の私はどこか小物だった。あろうことか、
「うん。ここにいると落ち着くんだ」と!
私はエマと別れた後、何時間も何時間も自室のベッドの上で悶々と思考の迷路に囚われた。あの時、まるで相手を受け入れるかのような口の滑らせ方をしてしまった言い訳を探し続けた。
だが結局、長きに渡る探索によって見つかったのは自分はどこまでも弱い生き物であるという事実のみであった。
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