0-2 出会い
視界の向こうには一面の花畑が広がっていた。後ろを歩く母は、良い天気ね、と口にしたきり一向に口を開かない。かくいう私も会話をする気はさらさらなかった。
花畑の中に一直線に伸びた小道を、両脇で咲き誇る花々に目もくれずに他の事を考えながら早めに足を動かす。
対象はなるべくなら人間がいいがさすがにそれはリスクが高すぎるので、手始めに犬から狙ってみるのはどうだろう。猫もいいが残念ながら、噴水広場のあの子以外に人懐こい個体をまだ一度も目にしたことがないので、餌をやれば簡単に心を開きそうな野良犬が適任だろう。
そういえば、なぜ花畑にやってきたのか、その理由をまだ説明していなかった。
今日は私の誕生日で、数日前に母にお祝いにどこへ行きたいかを尋ねられた際、ここの花畑を答えた。
つい最近私をまるで化け物を見るような目で見た母は、花を愛していた。
父亡き今、私の味方となり得る人間はおよそ母しかおらず、なんとしてでもマイナスとなった好感度をあげる必要があると思ったのだ。
だが、それからも後ろを歩く母は私に声をかけることはなく私も母を振り返ることなく花々への冷やかしは幕を閉じた。
帰りの列車に揺られる最中、車窓の向こうに地平線が見えた。
私は、隣で読書中の母に、海へ行きたいと言った。このまま一日が終わるのはなんだか悔しかった。母は、どうしてと問うた。
「なんだか海に呼ばれてる気がする」
咄嗟に口に出た返答は、そんなおかしなものだった。母は、目線を一瞬車窓の向こうにやったかと思うとすぐに、いいわよ、と優しめな声色で答えた。だが、そんな声とは裏腹に無表情だった。
潮の香りが鼻腔をくすぐる。打ち付ける波の音が耳に心地よい。
風が強く吹き、髪が後方へたなびいた。このままこの風にさらわれてどこか別の場所へ行ってしまうことができたのなら、どれ程良かっただろう。
そんな冗談半分な切望はともかく、砂浜に珍しいものが落ちていることに気がついた。手に取ると、それは何かの木の実だった。
「差し上げます」
突然の声に驚いて前を見やると女性が立っていた。淡い栗色の髪と茶に緑の刺した虚ろな瞳がどこか浮世離れしている印象を与えた。
「私の落し物だったんですが、ちょうど良かった。どうぞ。それ、食べられるんですよ」
女性は、手の中に握りしめていたらしい数個のうち一つの木の実を口に含み、微笑んだ。その笑顔はどこか作り物のような歪なものであったが、不気味さはなくむしろ妖艶で独特な雰囲気を醸し出していた。
だからなのだろうか。私の心よりもさらに深い場所、言うなれば魂が、何かをつかみ取ろうと無数の手を必死に伸ばしているかのように悲鳴をあげている。
その時の私は、その場に立っているだけで一苦労だった。できるならば彼女に全身を預けたかった。彼女の奥の方まで入り込んでみたかった。それでも体は石化してしまったかのように一向に動く気配がない。
「姉さん、もう帰ろう」
その第三者の声により、金縛りは解け、静止した時間は再度秒針を刻み始めた。
ゆっくりと瞬きしながら彼女を見やると、彼女の背後にぴったりとくっついているそばかすの少年が視界に映った。
おそらく先程の声はこの子のものだろう。歳は私と同じ十二歳くらいに見える。
「そうね。もう帰りましょうか」
女性は、おそらく彼女の弟であろう少年にそう返答した後こちらに向き直った。
「いきなり声をかけてごめんなさいね。もし気に入らないのでしたら、海に流してあげてください、その子」
女性は、やんわりと朗らかな声色で挨拶をしてから踵を返し、弟と並んで去っていった。淡い栗色の髪が周囲にあるもの全てをただのぼやけた背景とさせていた。
完全に彼女らの姿が見えなくなってようやく自分が我を失っていたことに気がついた。次いで、先程の不思議な女性の放っていた不思議な言葉の数々を思い出した。
弟に声をかけられる直前に言っていたその子というのは、今私の左手に握られているこの木の実のことだろうか。気がつけば木の実は既に口の中だった。自分でも愕然とする。自分はもっと慎重な人間だと思っていた。
それほど私は彼女からの贈り物を食したい焦燥に募らされていたのか。幸い味の方は問題なく、少し酸っぱいだけで不味くはなかった。
母はというと、離れた場所で砂浜に座り込み海の向こうを眺めていた。まるで別世界からの誘いを待ち焦がれているようで、言葉をかけずらかった。
数秒も経つと母は一緒に来ていたはずの人間がすぐ近くに立っていることに気が付き、一言もういいかしらとだけ聞いてきて、それに頷くと無言で駅の方へ歩き始めた。
相変わらず意味不明な母親だと苛々した。けれど文句は言わないよう細心の注意を払った。母親との関係にこれ以上亀裂を走らせる訳にはいかなかった。
夕食中も言の葉を交わすことはほとんどなかった。居心地は悪かったがどうでもいい世間話を強いられるよりかはマシだと思い食事に集中し、すぐに席をたち自室へこもった。
全く、今日程くだらない誕生日が再度訪れないことを願うばかりである。
栗色の君の顔はもう忘れてしまっていた。むしろ、今日あったきりの人間のことを覚えている自分に驚いた。それ程までに彼女には不思議な惹かれる何かがあったのだろう。
静かに目を瞑ると瞼の裏に浮かぶのはやはり彼女だった。
先程言った通り彼女の具体的な顔は忘れてしまったので、朧気に覚えている雰囲気により無意識に作り出された偽物であることは認めざるを得ない。
徐々に薄らいでいく意識とは打って変わり、彼女は淡い栗色の髪をたなびかせこちらに歩み寄ってくる。完全に意識が暗闇に落ちてもなお、彼女は歩みを止めない。
彼女はすぐ目の前まで来るとゆっくりと腰を下ろし、目線を私と合わせて微笑みを見せてくれた。
「わたしを呼んでくれてありがとう。きっとわたしたちは惹かれあったの。わたしを見つけてくれてありがとう」
そう彼女は無邪気に笑った。
彼女の白い頬に手を伸ばすが、もう少しで届くといったところで彼女の輪郭は崩れてしまった。そして辺りに残ったのは大量の鳥の羽だった。
まだ一度も言葉を交わしていないのに、まだ一度だって触れていないのに!
未だ忘れられない他者を傷つけその傷口から溢れる血を観察するあの背徳と高揚、それらを味わう絶好の機会を直前で逃してしまった、そのようなあまりにも残酷な事実をどう受け入れようというのか。
空虚を満たせるならば対象は人間であるなら何でもいいと思ってはいたが彼女は別格だ。そう思ってしまうのは、彼女が赤子のように純な仕草を見せていたからか、それとも私が赤子のように彼女の腹にすがりつきたいからであるか。
だが瞬時に合点がいった。そうだ、私は彼女の胎内に住み着くことを切望しているのかもしれない。本来の母親があんなふうであるから私は無意識に理想の母を求めてしまっていたのだ。そして何より、私は生きる楽しさというものがわからない。ならば、産まれる前の在り方のまま永遠に特別な人の子宮の中で眠り続けていた方が幸せだろう。
やけに重たい自身の肉体を羽の山に預ける。そこはぬるま湯に浸かっているかのように心地が良かった。永遠にここにこうしていたい。そうすれば自分の空虚さに思い悩むことも無くなる。
「だいじょうぶだよ」
声は頭上から降りかかった。それは誰の声でもないかのようでありながら、何故かとてつもなく落ち着くものだった。
頬にさわさわとした違和感を覚え、そのこそばゆさに瞼を開くと、銀灰色の長髪が項垂れて私の顔に触れていた。顔をもたげると、銀灰色の大きな瞳と視線が交わった。
作り物のように現実離れした美貌を持つ少女は、恋人との再会を喜ぶ乙女のように頬を綻ばせた。
銀色の少女は私の頭を白い膝に乗せていた。彼女は愛おしそうに私の頬に手をはわせた。そして口を開いた。
「あなたがわたしを求めるかぎり会えるよ。だからどうかいつか探しに来て」
何か言葉を返さなくてはならない。そう思って口を開こうとした刹那、急に視界が開けた。
私を見つめるのは銀の少女ではなく自室の天井だった。窓からは朝日が差し込み、聞き慣れた子鳥のさえずりが響き渡った。
珍しく夢を見た。だが内容までは覚えていない。すぐにベッドから起き上がり、廊下へと続く扉の取っ手に手をかける。
ため息が漏れてしまいそうだった。今日もまたつまらない一日が始まる。あの母親はそろそろ刺激を求める哀れな娘に理解を示して欲しいものだ、と独りごちた。
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