序歌 銀の鳥
0-1 本能
道端に猫の死骸が落ちていた。それに思わず見入っていると、一羽のカラスが肉を啄みにやって来た。
あの黒いカラスの中にも、この猫みたいな毒々しい赤で溢れているのだろうか。そんなことが気になって仕方がない。
付近に転がっていた大きな石を手に取り、カラスに向かってその手を振りあげる。だが、残念ながら石を放り投げる前にカラスはこちらの気配に気づき、飛び去ってしまった。
あの日から、気づけば私は他の生き物の血液に魅入られていた。あの日というのは、数週間前、近所の森の散策中に無惨な姿となった鳥を発見した日である。死因はよく分からないし、正直どうでもいい。
何より重要なのは、その鳥が美しい銀の毛並みをしており、裂かれた腹からは血液と内蔵がこぼれ落ちていたことだ。普段大空を自由に飛翔する孤高な生き物にも、私と同じように血が通っていたという事実に身体中が脈打った。何より、これは私が幼い頃に憧れていた童話の始まりの場面とそう違いないのだ。これを運命といわずしてなんと言おう。
その時の私は、童話の中の猟師だった。普段の日常は色褪せており、自分の中身も空っぽで、幸福の証が必要な哀れな存在、それが私だった。
今すぐにでもコレを自室まで持ち帰りたかったが、運悪く、後ろから着いてきていた母がちょうど到着し、私の幸福の証を迷わず木の根元に埋葬した。それからすぐに母は私の手を取り歩き出してしまった。私はその時空虚でいっぱいだった。
だが、その夜ベッドの中であることに気がついた。銀の鳥は、確かに私に最上の贈り物を授けてくれたではないか。閉じた瞼の裏に、赤い鮮血が蘇る。するとたちまち胸の中が熱くなっていくのを感じた。いまにも涙が溢れ出そうだった。それが、私が初めて自分の内側に温もりを覚えた瞬間だった。
今日は母の買い物の付き添いとして町に来ていた。付き添いといっても特に何もすることがなかったので、町の中央の噴水広場で暇を潰すことにした。
ベンチに腰掛けぼうっと水飛沫を眺めていると、足元から甲高い鳴き声が聞こえてきた。目線を落とすと、茶トラ柄の子猫が丸い大きな碧眼でこちらを見あげていた。その要望に応えるようにして頭を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らしながらごろんと横になった。随分と人懐こい猫だ、と感心していると、ふいに脳裏に浮かんだのは、昨日見た猫の死骸だった。
どくんと心臓が脈打つのが全身に響き渡る。再度足元へ視線を投げる。こちらの思惑など見当もつかないこの無邪気で哀れな生物は、今もなお警戒することなく大理石の地面に体を擦り合わせている。
このチャンスを逃すまいと、躊躇うことなく猫に手を伸ばし、両前足の下に手を差し込み持ち上げる。子猫のビー玉のような澄んだ瞳が目前にある。そのつぶらな瞳の向こうでは、自分によく似た少女が不自然に気味悪く頬をゆるめていた。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような嫌悪感により、それまで私を支配していた灼熱は見事に冷めきってしまった。
胸中の蟠りを誤魔化すように眼前できょとんと不思議そうにこちらを見つめる子猫を睨みつけていたら、次の瞬間にはその憎たらしいまでに愛らしい相貌は目の前から消え去っていた。すぐ横から鼻で笑うのが聞こえてきた。
「ゴンザレスは私と遊びたがってるから、あんたはさっさとどっかへ行きな」
すぐ真横では、私と同い年くらいの少女が、腕の中に先程の子猫を抱き意地の悪い笑みを浮かべていた。明るいブロンドに海色の瞳がよく似合っていた。
だが、自己中心的でとても性格が良さそうとは思えない第一印象と容姿のその美しさは非常に釣り合っていない。
「私が先にその子を抱いてたんだ。返してよ」
咄嗟に私は言い返す。これまで蓄積されてきた苛立ちによってかなり強めな言い方になってしまった。
少女は、まさか言い返されるとは微塵も思っていなかったのか、あからさまに焦り始める。
「なっ、何よ、私に逆らうつもり」
「逆らうも何も、理不尽な扱いを受けたのはこっちなんだから当然の不満でしょ。君は自分が自己中な性格だってちゃんと自覚した方がいい」
聞いているこっちまで恥ずかしくなるような小物じみた台詞に、すかさず言い返す。すると少女は、痛いところを突かれたのか、涙目で睨んできた。この少女は、これ程までに弱いのになぜ先程あのような偉そうな態度をとろうとおもったのだろうかと心底不思議に思った。
「はぁ!? 誰がじ、自己中だって!? 最低、今すぐ謝って!」
彼女の甲高い怒声に驚いて、子猫が逃げてしまった。
「そういうところが自己中なんだよ。それに、本来なら先に謝るのはそちらの方だと思うけど」
「うるさい」
少女の怒声が発せられるのと同時に、彼女の両腕が勢いよく伸びてきて私の胸元を押しやった。
私はベンチから滑り落ち、何とか頭部の打撃は回避出来たものの、咄嗟に地面についた左肘に血が滲んでいた。そこで私の怒りは最高潮に達した。
「ひっ、何よ」
ベンチの上からこちらを見やる少女の顔は、恐怖に歪んだ。どうやら私は、相当怒りが表情に出ているらしい。
のっそりと立ち上がり、怯えて縮こまる少女に接近する。恐怖で動けない少女の腕を掴み、関節の上部に爪をはわせ、怒りに任せて皮膚を裂いてやった。
「やだっ、痛い、痛い」
少女は恐怖と痛みからか号泣し始める。だが、彼女の泣き声は私の耳には届かなかった。そんなことがどうでもよくなるくらい私にとって重要なことが目の前で起こっていたのだから、仕方ない。
私の視線は、先程引っ掻いた少女の腕の傷口から離れることができないでいた。そこにはミミズのような二本の線が浮いており、じんわりと血の赤色が滲んでいる。
そのうちの一本の両側を指でつまむと、傷口から血が滴ってきた。少女がまた何か叫んだ気がするが、そんなことに気を取られることなくその瑞々しい血を人差し指で拭う。
人差し指の腹を顔の近くまで持ってくると、そこは朱色で染まっていた。身体中が火照っていくのが分かる。高鳴る心臓の音が全身に響き渡る。
今すぐにこの赤色を舐め取りたかった。それでもそうしなかったのは、おそらく、血の出処である少女からの視線を気にしてのことだったのだろう。
私と少女の間には、異なる世界で生きる互いの存在を不気味あるいは神秘と感じる、周囲とは一味違った空気が漂っているようだった。
その摩訶不思議な時間は、母の震えた叫び声によりかき消された。
「なにしてるの。今すぐ謝りなさい」
駆け寄ってきた母は、私の頬を思い切り平手打ちした。そのじんわりとした痛みにより、まどろみを漂う意識は現実へと覚醒した。
目の前を見やると、大人が介入してくれたことの安心からか、少女はわっと泣き出した。母は、直ぐに少女へと駆け寄り、傷口に目をやってから、わんわんと泣く彼女を抱きしめ小さな頭を撫でてやっていた。
「ごめんなさいね、本当にごめんなさい。痛いでしょう。もう大丈夫だからね。ほら、アンナ、早く謝りなさい」
「でもね、ママ。先に手を出してきたのはそっちなんだよ。先に泣いた方を被害者扱いするのは、ずるいんじゃないの」
「いいから早く謝りなさい」
ピリピリとした空気にこのまま反論し続けても埒が明かないだろうことを察し、やけに重たい口を開く。
「はぁ。ごめんね、引っ掻いて」
有無を言わせない気迫に負け、私は渋々と少女に謝罪の言葉を口にした。
だのに、口うるさい母親は、またも面倒くさい小言を口にした。
「あなたには人の心ってものがないの?」
私は言葉を失った。なぜ自分が避難を浴びせられているのか理解が出来なかった。
一言も発さずに立ち尽くす私に痺れを切らしたのか、母はおもむろに大きく溜息をついてから少女に向き直った。
その間私は先程の母の態度によって生じた胸のもやを晴らす方法はないかと思考をめぐらせていた。
そこで、真っ先に頭の中に浮かんだのは、つい数分前に目にした少女の血液だった。
自身の人差し指にそれが付着していることを思い出し、母と少女から背を向ける。
「ごめんね。私があの子の分まで謝るわ。お家はどこ? 送るよ」
普段耳にしないような母の優しげな声が背後から聞こえる。それとほぼ同時に私は血液が付着した人差し指を口元に持っていく。見たところ、まだ完全に固まってはいない。
恐る恐る舌を這わせると、鉄の臭いが口内に充満した。決して美味しくはなかった。
だが、かつては他者の体内に流れていたものが自分の口の中にあるという事実が、それまでそこかしこに霧散していた私を原点に回帰させた。みるみるうちに頬が火照っていくのが自分でも分かった。
先程の事件が嘘だったかのように、苛立ちや不満は消え失せて代わりにふわふわと心地よい電流のようなものが全身に駆け巡っていた。
「そこで待ってなさい。逃げたりするんじゃ……っ」
夢うつつな幸福の時は、突然壊された。突然頭上から降ってきた母の声に、舌は人差し指に添えられたまま全身が硬直した。
「なに、やってるの」
母が呻いた。
腹の中が蒸されてしまいそうなまでの不快感が私を襲った。この前の散歩中といい先程といい、この女は私の幸せをことごとく破壊し邪魔をする。私は口元から指を離して、眼球に憎悪の感情を集中させて頭上の顔面を仰ぎ見た。
女はびくんと小さく跳ねてから、生気のない表情をして去っていった。そのまま少女の方へ向かい、まるで私から逃げるかのように振り返りもせずこの場を去った。
それから数十分後に母は私の元へ帰ってきたが「行くわよ」という言葉以外には一言も発さず、急ぎ足で帰路に着いた。
その日の深夜、尿意で目が覚めた。
トイレへ向かう途中に母の部屋の前を通り過ぎようとした両足は、部屋の中から微かに聞こえる母のすすり泣く声と、鉛筆の芯が紙の上を引っ掻くような音に静止した。
好奇心と嫌な予感半々に耳をとぎ澄ます。
「もう嫌だ、気持ち悪い、気持ち悪いのよ、何もかも」
静かに部屋の扉を僅かに開け、その隙間から母の背中に視線をやる。どうやら彼女は机に突っ伏すような姿勢で泣きながら何かを書き留めているようだ。
「どうしてあいつといいあの子といい、異常なの。私ばっかりこんな役目を負わされて、不公平だわ、許せない、許せない。誰でもいい、誰か助けて、誰か私をこの生き地獄から解放して」
昼間の高圧的な態度からは想像がつかない悲壮感に薄気味悪さを覚え、その上彼女の嘆きは聞いていてとても気持ちのいいものではなかったし、本人に除きが気づかれても困るのですぐに扉を閉めた。
母に、先程の嘆きを聞かれていたことを勘づかれないためにもトイレの中で数十分と思えるほどの長い時間を過ごしてから自室へ戻った。
ベッドの中では、先程の母の背中と嗚咽が頭の中で反芻されてなかなか眠りにつけなかった。
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