第四章 人を心に おくらさむやは

深草少将ふかくさのしょうしょう百夜ももよ通いってロマンチックだ話よね。」


素子もとこがふいに言った。


「それって、どんな話?」


えみが身を乗り出すようにして聞いた。


「小野小町に恋した深草少将が、『百日間、毎晩通ってくれたら気持ちに応える』って言われて、ほんとに百夜通い続けたっていう伝説。雪の夜も風の夜も、小町のもとへ通い続けて……」

「それで、どうなったの?」

「百日目の夜、とうとう力尽きて……雪の中で死んじゃったんだって。」

「えっ……」


笑の顔から、言葉がこぼれた。


「悲しいけど、どこか美しくて、印象に残る話でしょ?」

「そうだね。」


「でもさ、この資料によると“深草少将”って、実在してないんだって。」


圭一けいいちが、手元のコピーをめくりながら口を挟んだ。


「“僧正遍昭へんじょうがモデル”とも書いてあるよ。」

「つまり、小町に通ったのは、宗貞だったってこと?」

「でも遍昭って、出家してるよな。百日目に死んだってのは作り話ってことじゃないかな。」

「逆に、出家するほどの出来事があったってことじゃない?」


笑の声が、どこか熱を帯びていた。


「百日目……なにかが、あったんだよ。きっと、小町の“秘密”に触れた――」


その言葉の余韻が、教室の空気に静かに沈んだ。

遠くに笙の音が聞こえた気がした。


(また、あちらの世界が呼んでいる……)





――――夜の都に、雪がしんしんと降っていた。

庭も、屋根も、すべてが白く染まり、音さえも吸い込んでいる。

笑――小町は戸口の前に立っていた。


(また、ここに来た……)


そのとき、扉を荒々しく叩く音。


「宗貞様、お待ちしておりました。」


笑は思わず口にした。


扉から姿を現したのは良岑宗貞よしみねのむねさだ――彼の気配は、凍てつく夜気を裂くように、真っすぐだった。


「今宵が、百日目……最後の夜となります。百夜通い、本当にお疲れ様でした。」


その声音には、深い静けさと――覚悟があった。


「宗貞様……私は、あなたに伝えなければならないことがあります。

私は、あなたの気持ちに……お応えすることができません。」


宗貞はその言葉を遮るように、一歩前に出ると、ふっと目を伏せた。


「……わかっています。」

「え……?」

「私は、あなたが十三のとき、五節の舞で舞う姿を拝見しました。

それからずっと、あなたを見てきたのです。

姿、所作、言葉のひとつひとつに――他の誰とも違う、何かが宿っていた。

それは“違和感”ではなく、“光”でした。」


宗貞は静かに目を上げる。


「あなたが、多くの男たちを拒み続けた理由……今日、あなたが言葉を選びながら話そうとしたことで、ようやく確信に変わりました。」


小町は肩をかすかに揺らした。


「……気づいて、いらっしゃったのですね。」

「私は、あなたを愛するがゆえに、その“秘密”を、いつか知るべきだと思っていた。

でも今日、あなたがそれを“伝えよう”としたこと――

それが、私には何よりも尊く思えました。」


小町の目に、涙がにじんだ。


「では……宗貞様。この百日目を、なかったことにしていただけますか。」


宗貞は、まっすぐに頷いた。


「あなたに通い続けた日々は、真実です。

でも、それを越えた今日のあなたに、私は……ただ祈るしかないのです。」


一拍の沈黙の後、彼はふっと目を伏せてつぶやいた。


「……帝も、亡くなられてしまった。

私の“仕えるべき人”は、もうこの世にいないのです。」


小町がはっと顔を上げる。


「私は、蔵人頭として、帝の側にお仕えしてまいりました。

そのお方が世を去られた今――私は、何をよすがに生きればよいのか……分からないのです。」


彼の言葉には、深い疲れと喪失の色がにじんでいた。


「……小町殿。あなたにも、この都にも、私はもう未練を残してはなりません。

だから私は――出家いたします。」


その言葉が、雪の夜気に深く、深く染み込んでいく。

小町は、込み上げるものをこらえることができなかった。

胸の奥から、涙が止めどなくあふれてくる。


「宗貞様……あなたがいてくれたから、私は……どれほど救われていたか、わかりません。」


その声は、細く震えていた。


「けれど私は……その気持ちさえ、抱くことを赦されないのです。」


小町は目を閉じ、唇をかみしめた。


その時、宗貞が詠んだ。


  かぎりなき雲居のよそになりぬとも

      人を心におくらさむやは


(たとえ、あなたが雲の上の人になったとしても――私の心の中で、あなたを見送るようなことができるだろうか……いや、できない。)


その声が、まるで祈りのように響く。

宗貞は、ゆっくりと踵を返した。

白い雪を踏みしめながら、彼の姿は、遠ざかっていった。

小町は、じっとその背を見つめ続けていた。


(宗貞様……どうか、あなたの歩む道に、やさしき光がありますように。)


笑の心の中に、その祈りが重なった。

誰が奏でるのか、笙の音が聞こえた。




――――午後の図書館。

笑は、はっと目を覚ました。

窓の外では風が吹き、カーテンが揺れ、開いたままの資料のページがふわりとめくられた。


「小野さん、大丈夫? 急に黙ってたから……寝てた?」


圭一が心配そうに覗き込んでくる。


「目、赤いよ。泣いてた?」


素子も心配そうに言う。

笑は照れくさそうに微笑み、そっとノートを閉じた。


「ううん……ちょっと、夢を見てただけ。」

「どんな夢?」


笑は少しだけ迷った末に、静かに口を開いた。


「……百日目の夜。小町が“本当の自分”を打ち明けようとして――

でも、相手はもう気づいてて、優しく受け止めてくれるの。……そんな夢だった。」


圭一は、ぽりぽりと頭をかいた。


「おれ、そういうの苦手だけど……なんか、いい話っぽいな。」


素子が目を細めて言った。


「それ、書いてみたら? 笑なら、すごく上手に書けると思うよ。」


笑は、少しだけ目を伏せて、それから言った。


「うん。……書いてみようかな。」


ページの隅に、そっと書き添えられた。


《心を見送ることは、できない――》


それは、過去から未来へと渡された、和歌の橋の上に立った瞬間だった。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第五章 人の心の 花にぞありける」


小野小町と姉・まちの確執。

二人のあいだに咲いたのは、愛か、それとも嫉妬か――

花のように脆く、けれど確かにあった“心の温度”。


「誰かを傷つけるつもりはなかった」――

それでもなお、咲いてしまった者に残るものとは。



【作者メモ】

第四章では、小野小町の有名な逸話「深草少将の百夜通い」を題材に、小町と宗貞の“心のすれ違い”と“祈り”を描いてみた。

良岑宗貞の出家は、帝の死だけでなく小町との別れも大きな理由であったと解釈している。

小町の“秘密”を包み込む宗貞の姿に、平安の恋の深さを託した。

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