第五章 人の心の 花にぞありける

午後の教室。

3人は資料をめくりながら調べ学習を続けていた。


「小野小町って、仁明天皇の更衣こういだったって説があるらしいよ。」


そう言ったのはえみだった。

図書室で見つけた書籍を机に置く。


「更衣って……なに?」


圭一けいいちが首をかしげる。


「天皇に仕える女官の中でも、側室的な立場の人。つまり……。」

「え、それって……結婚、ってこと?」


圭一の目が丸くなる。

笑はゆっくりと頷く。


「一説によると、“小野吉子おののよしこ”って名前で記録にある更衣は、小町自身とも、実は小町の姉だったって話もあるみたいね。」


素子もとこがページをめくりながらつぶやいた。


「姉?」

「うん。『古今集』にも『小町が姉』として歌が載ってる。」

「…じゃあ、本当に結婚したのは、姉のほうだったってこと?」

「どうなんだろ。」

「俺は小町が選ばれたと思うな。だって、絶世の美女だったんでしょ?」

「姉妹揃って美女だったのかも。」

「あ、でも待って……。」


笑が何かに気づいたように言った。


「……なんで『小町の姉』って呼ばれてるんだろう。普通、逆じゃない。」

「確かに。中学校で俺の弟、『圭一弟』って呼ばれてる。」

「…ってことは、才能も美貌も、小町の方が上だったってことじゃない?」


素子が口を挟む。


「何をやっても妹に勝てないってこと? それって……つらいよね。」


笑の目が、どこか遠くを見つめた。


「じゃあ、やっぱり更衣に選ばれたのは小町の方?

……違う。きっと小町は身を引いたんだ。」


その瞬間、笑はふと視界がにじむような感覚に包まれた。


(あれ……笙の音? また、私は行くんだ。)





――――また来てしまった。

見覚えのある室内。

何度も来ている、小町の屋敷だ


屋外から声が響く。

笑はその声に導かれるように、歩みを進めた。

小町の従者が、訪問人を中に招き入れる。


「帝よりの使者として参りました。

小町殿を、更衣として召し上げたいとの、帝のご意向にございます。」


屋敷がどよめく。

小町は、ゆっくりと頭を垂れた。

だがその時、奥から足音が響く。


「……あなたは、また……!」

まちお姉さま。」


現れたのは、小町の姉・町だった。


「どうして、いつもそうなの? 父母の愛情も、人の注目も、そして今度は帝の寵愛まで!」


町の声は震えていた。


「私は……望んでなど……。」

「嘘よ!」


町が叫ぶ。


「あなたはいつも“もらってしまう”の。何もせずに。美貌も、才も。

私は、私は……必死だったのよ! 和歌を学び、教養を積んで……やっと、やっと宮仕えが見えてきたのに!」


小町は、町を見つめた。

胸の奥が締めつけられるような、静かな痛みが走った。


「私は……身を引きます」


小町が静かに口を開いた。


「え?」

「帝に召されたのが私であったとしても、私は――姉上を差し置いて、その場に立つことはできません。」

「どうして……?」

「あなたがそう思う限り、私はあなたを傷つけてしまうからです。」


それ切り小町は何も言わなかった。

ただ、空に浮かぶ月を見上げ、そっと和歌を詠んだ。


  いろに見えでうつろふ物は世の中の 

      人の心の花にぞありける


(外には見えずに色あせてしまうものーーそれは、人の心に咲く花だったのだ。)


小町の中で、笑は感じていた。

小町は、姉の心もまた花のように移ろうものと信じていた。

けれど、町にとっては違う。

姉の心は、幼い頃から積もった思いがある。

それは、もはや“恨み”とさえ呼べるものだったのかもしれない。


(……小町、気づいてなかったんだね。

姉の心は、もう“花”なんかじゃなかったんだよ。)


誰かを傷つけるつもりじゃなくても、咲くこと自体が誰かを押しのけてしまうことがある――

そんな切なさが、雪の夜に滲んでいた。

そして笙の音。





――――図書室の静けさの中、笑がふと目を開けた。


「……そういうことだったのかもしれない。」


笑がぽつりと呟く。


「誰かに愛されるって、きっと嬉しいこと。でも、それが誰かを傷つけてしまうなら……小町は、身を引いたんだと思う。」


素子がノートを見ながら小さく頷く。

圭一も、珍しく真面目な顔で黙っていた。

笑は静かにノートを開き、そっとペンを走らせた。


“花を譲ることもまた、美しさのかたちかもしれない”


その言葉が、ページの端に、風のように残された。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第六章 言の葉さへに 移ろひにけり」


今、明らかになる小町の真実。


“まち針”に秘められた伝承。

“比古姫”と呼ばれた幼き日々。

そして、笑に託された一つの硯――


言葉の奥に潜む“ほんとう”が、浮かび上がる。



【作者メモ】

第五章では、小町の姉・町の存在に焦点を当ててみた。

努力しても報われない姉と、無自覚に誰かを傷つけてしまう小町。

咲くことが誰かを押しのけてしまう――そんな切なさの中で、小町が「譲る」ことを選ぶ姿に、静かな強さと美しさを込めたつもりだ。

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