第三章 何を種として 浮草の
「そうだ、
業平と小町の和歌について盛り上がった後、資料を片付けようとした笑に、隣の
「なに?」
「
「えっ、黒主って……六歌仙の?」
「そうそう。でもさ、六歌仙なのに百人一首に選ばれてないんだよね。ちょっと意外。」
「で? 何やらかしたの?」
笑が身を乗り出す。
素子はニヤリと笑って、タブレットをくるっと回す。
「まずはこの伝説――“
その瞬間、またしても風が吹いた。
ページの上の文字が揺らぐ。指先に、あの懐かしい硯の感触。
そして、聞こえる笙の音色。
(……ああ、まただ。)
笑はもう、驚かない。
むしろ、心のどこかで――その時を待っていたのかもしれない。
――――気がつくと、自分は再び紅の
(また私が――小町?)
奥の御簾の中に誰かがいる。
きっと高貴な人物なのだろう。
左右に並ぶ歌人たちの視線が集まる中、笑――いや、小町は、ゆるやかに扇を開いた。
蒔かなくに何を種として浮草の
波のうねうね生ひしげるらん
(若草は誰も蒔きはしないのに、何を種として、このように波の畝に生い茂るのであろう。)
静寂が満ちる。
御簾の向こうから、落ち着いた声が響いた。
「……見事なり。」
だが、その空気を乱すように、場をはずした男の声が響いた。
「小町殿に申し上げたき儀がござる!」
「黒主殿、どういたした。」
その声の主は赤ら顔で髭面の中年男性。
(この人が……大友黒主?)
「その歌、拙者の草紙に記されておる! すなわち、古歌!」
そう言って、黒主は懐から一冊の草紙を取り出す。
笑はのぞき込んだ。見た目こそ古めかしいが、墨の匂いがまだ生々しく漂っていた。
「では、その草紙――洗わせていただけますか?」
笑は静かに言い、水盤へ向かう。
草紙を沈めた瞬間、墨が滲み、小町の歌だけが消えていった。
ざわめく会場。
誰かが息をのむ。
「浮草は、根を持たずに広がるもの。
でも、虚ろな言葉は――水に耐えられません。」
黒主の顔から血の気が引いた。
「黒主殿、いったいこれはどういうことでござるかな。」
「拙者にも……わけが……。」
「黒主殿こそ、御歌がまだであったな。」
「しからば――
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに……。」
「それ、私の歌!」
笑は思わず叫んだ。
会場がどよめく。
黒主は、あっ、と口を押さえた。
「……いや、その……つい口をついて……。 日頃から、小町殿の御歌を繰り返し詠んでおったゆえ……。」
顔を真っ赤にして、もごもごと呟く。
(この人……もしかして、小町の大ファン……?)
笑は、かすかに唖然としながら、どこか親しみのようなものを感じていた。
「……だから黒主はフラれるんだよ。」
思わずつぶやいたその言葉が、空気の中に溶けていった。
その瞬間、世界が再び揺らぎ、笙の音が聞こえる。
桜の花びらが、蛍光灯のまぶしさに変わっていった。
――――笑は図書館の机にひじをついたまま、ふっと肩の力を抜いた。
ちょうどそのとき、図書室の入り口から声がする。
「やあ、3人とも。調子はどうかな?」
逆井先生だった。
ゆっくりと歩み寄り、笑の机に置かれた資料に目を落とす。
「熱心だな。……小町と黒主か。面白い組み合わせを選んだね。」
「ありがとうございます。」
笑は、少し照れたように答えた。
「先生。小町って、ほんとに“恋多き女”だったんですか?」
圭一が尋ねる。
逆井は少し目を細めてから、やさしく答えた。
「恋が多かったというより、“恋を語る力”があったんだと思うよ。
だからこそ、あれだけの歌が残ったんだ。」
「……語る力、か。」
笑はノートを開き、余白にそっとペンを走らせた。
《偽りの墨 水に流る》
逆井はそれをちらりと見て、ふっと微笑む。
「その言葉、どこかに残しておくといい。きっと、いつか効いてくる。」
一拍遅れて、笑と素子、圭一の三人は同時に噴き出した。
図書室の一角に、小さな爆笑が巻き起こる。
◇◆◇◇
【次回予告】
「第四章 人を心に おくらさむやは」
百夜通い――小野小町のもとへ、百日間通い続けた
その陰には、もうひとりの実在の人物、良岑宗貞の姿があった。
百日目の夜、小町が語ろうとした“秘密”と、宗貞の決意の“別れ”。
幻想の中で交わされるふたりの言葉が、笑の胸に深く届いてゆく。
【作者メモ】
第三章では、小野小町と大友黒主の軽妙なやり取りを描いてみた。
六歌仙と称されるほどの和歌の名手でありながら唯一百人一首に選ばれていないこの人物を、茶目っ気あふれる人物として描いてみたつもりである。
歴史の陰にいる者にも、物語の光を――。
そんな思いが、少しでも届けば嬉しい。
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