第二章 夢と知りせば 覚めざらましを
「六歌仙って知ってる?」
図書館の静けさの中で、
「なんとなく……歌のうまい人たち?」
「正解。平安時代の“歌の六人衆”。在原業平、小野小町、それに
「遍昭?
「うん。まだ僧になる前の名前が
素子が広げた資料の中に、二つの和歌が並んでいた。
秋の野に笹わけし朝の袖よりも
逢はで来し夜ぞひちまさりける ――在原業平
みるめなきわが身をうらと知らねばや
「これは贈答歌だね。」
笑は身を乗り出すようにして読み込んだ。
「“朝露で濡れた袖よりも、君に会えなかった夜の方が、もっと涙で濡れてるよ”って、業平が告白してるのかな。」
「小町の返しも、すごく鋭いよ。“私は『みるめ(海松布・見る目)』を持たない存在。そんな私の心を知らずに、あなたは何度も訪ねてくるけど……”って。」
「拒絶……なのかな。」
笑は呟きながら、ページの上に指を滑らせた。
歌の言葉が、紙を通じて指先に沁み込んでくるような気がした。
視界の端で、カーテンが揺れた。
風が吹いた。
また、あの笙の音が聞こえてくる。
その旋律を耳にした瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
――――ざわ、と草の擦れる音がする。
気づけば、笑は秋の野に立っていた。
黄金に色づいた野辺。
風に揺れる笹の葉が、朝の露をまとってきらめいている。
自分の袖が、濡れているのに気づいた。
白い衣に、玉のような露がいくつも。
(ここは……また平安時代?)
そこへ、誰かが草を分けて現れた。
紅の狩衣をまとい、どこか憂いを帯びた男。
彼は、こちらに気づくと、ふっと微笑んだ。
その微笑には、どこか人を惑わせるような余裕と、世の無常を知った者だけが持つやわらかさがあった。
「昨夜、会えなかったのが、悔やまれてなりません。」
その言葉に、笑は咄嗟に口をつぐんだ。
まるで自分が小町であるかのように、自然にそうした。
男は懐から短冊を取り出し、そっと手渡す。
秋の野に笹わけし朝の袖よりも
逢はで来し夜ぞ ひちまさりける
さっき読んだばかりの歌だ。
この男……在原業平だ。
「昨夜のことを、歌にしたのです。」
そのまなざしは、まっすぐだった。
(私、また小町なの……?)
胸がふるえた。
だが、言葉にならない思いだけが波のように広がっていく。
袖を掴みそうになる手を、そっと押しとどめながら、 笑……いや、小町は、返歌を詠んだ。
みるめなきわが身をうらと知らねばや
離れなで海人の足たゆくくる
風がまた吹いた。
野辺にひとすじ、潮の香が混じる。
遠くから笙の音が聞こえた気がする。
そのとき、業平が静かに言った。
「……小町殿。これであなたをあきらめたりするつもりはありません。
きっと、いつか――あなたの
その声は、風に紛れるように優しかったが、
どこか確かな熱を孕んでいた。
その瞬間、視界が白く霞んでいった。
――――笑は、図書館の机に両手をついたまま、はっと息を吸い込んだ。
まだ、耳の奥に、笙の音が残っている気がした。
「……今、また夢見てた。」
「なに? 急に顔赤いけど。」
素子が心配そうにのぞき込む。
「……おかえり、姫。」
「もう、慣れたわ。」
笑は笑ってそう返した。
「さすが。異世界転生ものの主人公だな。」
圭一が小声でツッコんできた。
静けさの戻った図書室で、三人はそれぞれに資料に目を落とした。
そのとき、笑は本に書かれた小町の和歌が目に入った。
思ひつつ
夢と知りせば覚めざらましを
笑は思わず声に出していた。
「……それ、小町の歌だよね?」
素子が顔を上げる。
「うん。たしか……夢の中に好きな人が出てきて。夢だとわかってたら、目覚めなかったのにって――そんな意味だったと思う。」
笑はノートの端にその一首をそっと書き写した。
ペン先が静かに走る。
「……たぶん、私も。
あれが夢だって、途中でわかってた気がする。でも――目を覚ましたくなかった。」
そうつぶやき、ふと窓の外に視線を向けた。
午後の光が差し込む中、カーテンがふわりと揺れていた。
笙の音はもう聞こえなかったが、笑の胸には、まだ歌の調べが残っていた。
◆◇◆◇
【次回予告】
「第三章 何を種として 浮草の」
「
素子の一言が、笑を再び平安の幻へと誘う。
小町の“語る力”とは何か?
過去と現在が交差する中、笑の心に芽吹くものとは――。
【作者メモ】
小野小町と平安の歌人たちのやりとりを、今回は少しだけのぞいてみました。
笑の目を通して描くことで、千年前の恋のすれ違いが、いまを生きる私たちにもそっと語りかけてくる――
そんな瞬間を感じていただけたなら、とても嬉しいです。
次回も、どうぞお楽しみに。
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