表裏別離殺人事件

森本 晃次

第1話 プロローグ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年5月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。


 殺人事件というものを、実際に考えた時、ニュースで報道されることしか、情報として得ることができないのが、実際の情報というものである。

 もちろん、殺人に限らず、事件というものは、報道規制も掛かるだろうし、実際に、

「捜査の妨げ」

 ということになったり、

「関係者が危険に晒される可能性」

 などということから、

「必要以上なことを世間では言わない」

 ということになるだろう。

 というのも、事件が発生し、それを警察が、記者会見という形での、

「プレス発表」

 というものがあって、やっと報道できる。

 だから、報道陣としても、

「警察が、まだまだ事件の本質を分かっていない」

 ということであったり、

「捜査のために、分かっていることであっても、公表できない」

 ということもある。

 特に、

「冤罪」

 ということであったり、

「共犯者がいて、その人物をあぶりだす必要がある」

 ということから、マスゴミを下手に刺激しないということを考えないといけないと考えると、余計に、プレス発表が難しくなるというものだ。

 例えば殺人事件というものが起これば、普通のケースとしては、まず、

「警察に通報がある」

 ということからが始まりである。

 もちろん、まれな場面として、警察関係者の目の前で、殺人が行われるということもあるだろうが、衝動的なものであればいざ知らず、

「計画的な犯罪」

 ということであれば、

「まず、少しでも、警察関係者に分かるまでの時間を稼ぐ」

 ということを考えることであろう。

「警視庁から入電中」

 などという放送が、所轄に流れて、

「そこから、刑事が出動する」

 というところから、警察が介入するということである。

 近くの交番の警官であったり、所轄の刑事課の刑事、そして、鑑識班というものが、事件現場に現れる。

 実際に、

「変死体が発見された」

 ということであれば、刑事ドラマでは、その場所に、

「所せまし」

 ということで、パトカーが何台もやってきて、当たりは喧騒とした雰囲気に包まれるということになるだろう。

 刑事ドラマなどでよく見る殺人現場としては、

「少し大き目の川に架かっている、橋の下」

 であったり、

「夜の公園」

 などというのが多かったりする。

 今の時代ではすっかりと鳴りを潜めているが、少し前までであれば、

「ホームレスがたむろしている場所」

 といえるようなところであった。

 または、さらに昔であれば、

「カップルというのが、アベックといわれていた時代」

 の、アベックが、

「第一発見者だった」

 ということが多かったりする。

 だから、今から20年近く前などに毎日のようにあった、

「二時間サスペンス」

 などというもののパターンとして、

「河原の橋の下」

「夜の公園」

 というのが、慕う発見現場としての定番だったかも知れない。

 これはあくまでも、

「死体発見現場」

 ということで、

「殺害現場だ」

 と決めつけるわけにはいかない。

 犯人にとって、

「殺害現場が別の場所だった」

 ということをごまかすために、わざと、

「死体発見現場としての定番」

 に、死体を遺棄するということを、わざとする犯人もいたりするだろう。

 特に、

「二時間サスペンス」

 というドラマのように、

「犯人と警察の戦い」

 という構図ができてしまうと、ある意味、

「ドラマのパターンも決まってくる」

 といってもいいだろう。

 確かに、誰かを殺害しようとして、殺害計画を立てるとして、

「警察に一泡吹かせるような完全犯罪を企む」

 ということになれば、どこまでできるかは分からないが、

「本当の完全犯罪ができるくらいなら、ミステリー界のベストセラー作家になれる」

 というくらいのものである。

 警察というものは、完全に、

「組織捜査」

 である。

 事件が発生すれば、所轄には捜査本部が置かれ、そこに刑事課の刑事が集められ、まず最初に、

「初動捜査で分かったことが共有される」

 ということになる。

 その時、

「被害者の身元」

「鑑識による殺害方法や、死亡推定時刻の割り出し」

「第一発見者であったり、付近の目撃者の捜索」

 というものくらいが、発表されるだろう。

 それによって、被害者の身辺調査、つまりは、家族関係や会社なのでの、人間関係が調べられ、再度開いた会議で、そのあたりが共有されると、そこから、いよいよ、

「動機の有無」

 などの捜査から、

「容疑者の選定」

 というものが行われる。

 そして、容疑者を参考人として事情聴取を行ったりして、さらに、証拠や証人を探すことで、次第に、犯人を絞っていくということになる。

 その間に、逮捕であったり、家宅捜索などの、

「裁判所の許可」

 を必要とする捜査も行われ、警察が、真相に近づくということになるというこであるということだ。

 しかし、

「犯罪というのは、犯人が殺害計画を練らなければ始まらない」

 ということである。

 警察の捜査は、あくまでも、

「犯人の犯罪計画を見極めるために、行う捜査」

 というものであった。

 だから、逆に、

「山をはる」

 ということもあるだろう。

 それまでの、犯罪などから、犯人の心理を分析するというような、方法も取られたりする。心理学的なところから、犯人の心理を読み取るというもの、犯罪捜査の方法として、今はスタンダードになってきた。

 ただ、犯人は、

「警察に捕まらない」

 という犯罪計画を基本に考えるだろう。

 ただ、そのために、

「確実に犯罪が実行できない」

 というのであれば、本末転倒だといってもいいだろう。

 犯罪がうまく成就できなければ、それは、

「実行できないのであれば、最初から計画しない方がいい」

 というもので、目的としては、

「警察に捕まらない」

 ということではなく、あくまでも、

「相手を殺害する」

 ということにある。

 その場合、

「共犯者」

 というものがいたりすると、その場合は、

「犯罪に対する気持ちの温度差というものがあると、今の犯罪計画遂行に対しての優先順位が変わってくる:

 といえるだろう。

 主犯であれば、

「何があっても、相手にとどめを刺すことができなければ、実行する意味はない」

 ということになるだろう。

 しかし、これが共犯で、その共犯としても、例えば、

「犯人から何か弱みを握られていて、強制的に犯罪に協力させられるということがある」

 つまりは、

「共犯者にとっては、今回の事件に対して、被害者に対して、何の恨みもない」

 ということになる。

「だから、むしろ、共犯者は、被害者の家族に協力的」

 といえるだろう。

 だから、

「犯人にとって、決して有利というわけではない。逆に、余計な爆弾を背負った形になるのだ」

 といってもいいだろう。

 だから、

「共犯者が多いと、捕まるリスクが高まる」

 といわれているのだ。

 よほど、

「絶対に逆らえない」

 という人で、しかも、

「冷静沈着に犯行を遂行できる」

 という人間ではないといけないということだ。

「脅迫によるもの」

 という強引なものであれば、失敗のリスクは大きいというものであろう。

 そして、もう一つの考え方として、

「策を弄すれば弄するほど、頭のいい捜査員に見破られる危険性がある」

 といってもいいだろう。

 昔から、

「探偵小説」

 といわれた時代から、

「本格派探偵小説」

 というものの定義として、

「頭が聡明な探偵が、鮮やかに犯人が考えたトリックを解明し、謎解きを行う」

 というものがある。

 つまり、

「そんな昔から、トリックや犯罪においての謎というもののパターンは、知り尽くされている」

 といってもいいだろう。

 しかも、今の時代は、昔と違って、

「犯罪をやりにくい時代にした」

 といってもいいだろう。

 それは、

「警察の捜査が、優秀だ」

 ということもないとは言えないが、それよりも、

「科学の発展により、今では通用しなくなったトリックが増えた」

 ということである。

 特に、

「死体損壊トリック」

 つまりは、

「顔のない死体のトリック」

 のように、

「顔をめちゃくちゃにしたり、首なし死体にしたり」

 ということで、さらに、

「手首を切断したり」

 あるいは、

「特徴のある部分を、故意に傷つけたり」

 ということで、身元を分からないようにできたのだが、今では、

「DNA鑑定」

 などというものから、死体が、たとえ、数十年前に殺害され、白骨化したものということであっても、簡単に判明するということで、

 昔から言われていた、

「顔のない死体のトリック」

 ということで、

「被害者と加害者が入れ替わる」

 という、

「探偵小説の公式」

 というものが、今は使えなくなっているのだ。

 もっとも、これだけ探偵小説で定着すれば、さすがに犯人も、同じ手口をいつまでも使うということもしないだろう。

 だから、さすがに、サスペンスであっても、昔のトリックをそのまま使ったりということはしないだろう。

 そもそも、探偵小説というものは、昔から、

「戒律」

 といわれるものがあった。

「ノックスの十戒」

 であったり、

「バンダインの二十則」

 といわれるものであったりする。

 それが、

「最後まで犯人を表に出さない」

 ということであったり、

「密室殺人」

 というものに、秘密の抜け穴というものを複数作ったり、あるいは、

「探偵が犯人だ」

 などという奇抜なものは、

「反則だ」

 といわれたりもした。

 しかし、それを分かったうえで、わざとその、

「戒律を破る」

 という手法もあったりする。

「探偵が犯人である」

 ということが戒律と分かっていて、わざと、それを使う人もいる。

 分かっていて書くのだから、それだけ、

「叙述というものに自信がある」

 ということで、それこそ、

「作者と読者の戦い」

 といってもいいだろう、

 それこそ、

「犯人である作者と、探偵や警察である読者との間のバトル」

 といってもいいのだはないだろうか?

 つまり、

「作者の、読者を欺く」

 ということがいかに功を奏するかということで、

「作者という犯人が立てた計画を、いかに探偵である読者が見破るか?」

 ということで、

「叙述というトリック」

 が、大いに力を発揮するということになるだろう。

 戒律というものが、

「いかに、事件を解決するのに、その材料になるか?」

 ということで、

「作者には不利だが、読者には有利」

 といってもいいかも知れない。

 中には、

「読者への挑戦」

 という書き方をする人もいるが、さすがに、

「作者に不利だ」

 ということになれば、作者側からの挑戦状を、そんなに簡単に示すことはできないだろう。

 ということであった。

 だから、犯人にとって、

「いかに、警察を欺こうか?」

 ということを考えたとすれば、

「いくらでも策を弄する」

 ということで、

「策はいくらあっても、足りるということはない」

 と思うのだ。

 これは、探偵側が、

「犯人の気持ちになって考えることができる」

 というからである。

「何といっても、主導権は犯人側にあり、犯人側が計画した通りにまずは展開するのだ」。

 ということが当たり前ということであり、逆にいえば、

「いくら犯人側に主導権があるといっても、犯人側が、簡単に警察の身になって考えるということは難しいだろう」

 ということである。

 犯罪計画を立てると、そこに、動機から、相手に対しての恨みの程度などから、犯人側の計画が青写真のように見えてくるということもあるだろう。

 しかし、犯人側は、

「警察が、どのような証拠であったり、証人を揃えるか?」

 ということを前もって分かるということはない。

「策を弄する」

 という意味で、

「警察を欺くということでの、証人のでっちあげ」

 であったり、

「犯行をカモフラージュ」

 などということをしたとしても、結局は、

「策を弄した」

 ということに変わりなく、一歩間違えれば、その考えが警察に看破されるということになりかねないであろう。

 しかも、犯罪において、

「自分たちが考えついて、相手を騙すようなことは、自分が同じことをされるということに気づかないものである」

 ということになるだろう。

 特に、

「犯人が、最後に警察や、探偵が犯人に一杯食わせようとする時、犯人側が、まさか自分たちの計画が見破られ散るわけはない」

 という思いがあったとすれば、警察とすれば、

「相手と同じことをすることで、相手を屈辱的に欺くことはできる」

 ということで、

「犯人側に、自白をさせる」

 ということであったり、

「犯人側のやる気を挫く」

 ということで、事件を、

「一気に解決に導く」

 ということもありだということであろう。

 さらに考えられることとして、

「木を隠すには、森の中」

 という言葉があるが、それも犯罪に使ったりということもある。

 逆に、

「森を隠すには木の中」

 というような、

「逆転の発想をめぐらす場合」

 というのがあるが、それは、

「そもそものことわざの逆だという発想を相手に抱かせない」

 ということが大切だったりするのだ。

 また、これも探偵小説などで、言われることであるが、

「証拠を隠すには、一度警察が探す多ところが一番安全」

 と、言われる。

 つまり、

「警察というのは、それだけ、自分たちの捜査に自信がある」

 ということなのか、

「無駄なことは二度としない」

 などという意識からなのか、

「一度調べたところを二度と当たることはない」

 といえるだろう。

 ただこれは警察に限らず、

「組織であれば、当たり前のことである」

 といえるだろう。

 だから、この考え方を犯人が使ったのだとすれば、

「警察がバカだ」

 というわけではなく、

「犯人の方が一枚上手だ」

 ということであろう。

 小説の中に、こういうセリフがあった、

「あの人はなかなかやりますね、ここは警察が一度調べてますから、絶対に安全な隠し場所なんだ」

 ということである。

 それだけ警察というものは、

「組織として、融通の利かない、雁字搦めだ」

 ということであり、

「捜査員が頑張っていても、上がしっかりしていないと、機能がマヒしてしまう」

 ということの典型だということだ。

 警察という組織ほど、捜査ということでは、柔軟に対応しなければいけないほど、多種多様な犯罪が蔓延っているということで、

「犯人にとって、動きやすい組織になってしまっている」

 というのは、実に組織として厄介なことだといえるのではないだろうか?

 最近の警察は、科学捜査が発展してきている」

 ということで、

「犯罪が行われにくい環境にある」

 といってもいいのだろうが、実際には、

「犯罪の抑止にはなっていないのか、相変わらずの凶悪事件であったり、猟奇犯罪というものが後を絶えない」

 ということになっているといってもいいだろう。

 確かに、警察はその捜査が、

「旧態依然とした」

 といってもいい捜査のためか、実際に犯罪抑止になっているのかどうか分からないといってもいいだろう。

 ただ、犯罪の件数は減っているということで、

「それが人口減少と関係があるということなのか?」

 それとも、

「年齢層であったり、犯罪の種類を突き詰めなければ、あまり意味がない」

 ということなのか、そのあたりが問題だということである。

 また、犯罪を犯す方と、それを捜査する方、今までのような、

「いたちごっこ」

 というものを繰り返しているだけになるのだろうか?

 今回の犯罪が、

「どのようなものなのか?」

 というのは、事件が解決したという時点で分かるということなのだろうか?

「犯罪が一段落し、犯人が起訴され、罪が確定したとしても、その犯罪の社会的影響というものが、どういうことになるのか?」

 というのは、

「果たして、どの状況になった時、分かるというのであろうか?」

 世の中には、

猟奇犯罪」

 ということで、

「犯罪の模倣」

 をしたり、

「まるで愉快犯のように、面白がっての、動機がないといえる犯罪が行われることもあるだろう」

 というのも、

「動機がない」

 ということは普通に考えればないだろう。

「動機」

 ということであれば、

「逆恨み」

 ということであっても、動機だといえるだろう。

 しかし、それは、あくまでも、

「犯人側の理屈」

 ということであり、

「世間が納得するものではないだろう」

 そうなると、きっとマスゴミは、

「動機のない犯罪」

 ということで、新聞や雑誌の見出しを飾るだろう。

 そうなると、

「動機のない犯罪などあるのか?」

 ということで、見出しだけで興味を持って買うだろう。

 しかし、今は昔のように、

「駅の売店で、朝、スポーツ新聞を買う」

 などということはなくなった。

 というのも、

「駅の売店」

 というのが今までのような、

「鉄道会社が運営する」

 というものではなくなった。

 つまり、

「鉄道会社が運営していた売店の権利をコンビニに譲渡し、駅構内で、コンビニが店舗を運営する」

 という形である。

 コンビニ側も、

「店舗の拡大」

 ということができるし、駅側も、

「人件費の削減であったり、販売を、コンビニなどのプロに任せることで、そのフィーをいただく」

 ということでの、いわゆる、

「アウトソーシング」

 ということで、日本語でいえば、

「外注」

 という形での、経費節減ができるということになるのであった。

 駅の構内において、コンビニであったり、ファストフードなどが進出することで、

「鉄道会社側も、コンビニ側も、お互いに一手井の利益が得られる」

 ということになるのであった。

 だから、今では、

「新聞を読む」

 という人も減ってきた。

 何といっても、

「本などの印刷物は、ネット配信などで読むことができる」

 ということで、

「スポーツ新聞などは、紙での販売をやめ、ネット配信のみにする」

 というところも出てきたのだ。

 いまだに、年齢層の高い人は、

「スマホ」

 などの機能を使いこなせない人が多い。

 それを思えば、

「スマホを持っていない」

 という人もいまだに結構いると考えると、

「印刷物での販売を中止するというのは、時期尚早ではないか?」

 といわれるかも知れないが、逆に、

「時代の流れには逆らえないだろう」

 といえるだろう。

 その傾向が強くなったのは、今から10年くらい前になるだろうか。

「やはり、スマホというものが、普及し始めてからだ」

 といえるのではないだろうか?


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