第2話 お札だけにしてよ・・・。

 中学生の頃、親戚家族と一緒に九州の海沿いへ旅行に行きました。私の地元はよくある盆地で、どこを見ても山ばかりの環境です。そんな場所で育った私は、海の広がる今回の旅行をとても楽しみにしていました。

 私の家族は旅行が大好きで、宿の予約を取らずに平日を狙って遠出しては、現地で空いている旅館を探すような旅程を好みます。部屋が取れなかったら高速道路のサービスエリアで夜を明かす、なんて無茶な旅を楽しむ人たちでした。今回の旅先でも、観光地を巡り、女性陣がショッピングを楽しむ間、男性陣は海で釣りに出かけたりと、皆で全力で楽しんでいました。子どもは私と従兄弟の2人だけでしたが、大人に混ざって過ごす一日も十分に楽しく感じました。

 昼過ぎになり、そろそろ宿を決めようという話になり、観光案内所に向かいました。当時は今のように携帯電話が一般的ではなく、案内所で宿を紹介してもらい、そこで電話予約を取るというアナログな流れでした。不便に思えるかもしれませんが、今振り返ると、地域のおすすめの宿や旅程に合った場所を提案してくれるので、良い宿が決まりやすかったと感じます。大人になってフィールドワークが趣味になった私には、当時のそんな経験が懐かしく思い出されます。

 そうして宿が決まり、早速向かうことにしました。温泉と絶景が自慢で、新鮮な海産物が食べられると勧められ、一同大喜びでした。しかも料金が安いとあって、期待はさらに高まりました。私たち山側の人間にとって、普段目にする魚は新鮮とは程遠く、海沿いの食事は本当に楽しみでした。

 宿に到着すると、立派な門構えに清潔なロビー、スタッフも愛想が良く、両親たちは「これは良い宿だ」と喜んでいました。料金も一人3,000円からという破格で、平日だからと観光案内所で説明されていたため、田舎者の私たちは誰も疑うことなく、満面の笑みでチェックインしました。

 荷物を部屋に置き、さっそく温泉へ向かいました。海水を使っているというお湯は少しとろみがあり、風呂上がりのさっぱりとした感覚が心地よかったです。露天風呂から見える海と夕焼けは素晴らしく、子どもの私でさえ「すごい、すごい」と興奮しました。

 その後の夕食は、まさに豪華絢爛な海の幸でした。「こんなに色の良い魚は初めて」と皆で笑いながら食べ進め、親たちはそのまま飲み会や施設内のカラオケを楽しみ始めました。私と従兄弟の2人は、そういう時間になると少し退屈になるので、ゲームコーナーに行ったり、部屋に戻ってカードゲームをしたりしてのんびり過ごしました。

 そのとき、私と従兄弟が遊び疲れてゴロゴロしている部屋で、異変が起きました。この日は家族全員が大部屋に泊まるため、襖を取り払った広い和室に布団を敷いていました。寝転がっていた私たちの横、テレビが置かれた壁側の戸棚が「ゴトッ」と音を立てたのです。静かな部屋に大人もおらず、子ども2人にはその音が世界一大きな音に聞こえました。

「なに? 何の音?」

 2人で怯えていると、また「ゴトッ、ゴトッ」と戸棚から繰り返し音がします。大人になった今なら、鼠か何かだろうと納得できるかもしれませんが、中学生と小学生の2人にはそんな発想も浮かびません。部屋から出ようとも考えられず、ゲームボーイを手に持ったまま、動けなくなってしまいました。

 「ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ」

 繰り返す音と、ゲームボーイから流れる音楽だけが部屋に響きます。好きなゲームをプレイ中だったのに、セーブもせず電源を切って静かにしてしまったほど、その場は緊張に包まれていました。

 年下の従兄弟が怖がる様子を見て、少し虚勢を張ることを覚えていた中学生の私は、「兄ちゃんが見てくる」と格好をつけて戸棚に近づきました。今思えば、なぜあんなタイミングで強がってしまったのか、大人になった今でも似たような行動を取ってしまう自分を思い出して苦笑します。テレビの横にある、人の顔ほどの小さな戸をそっと開けました。

「あっ」

 思わず声が出てしまい、従兄弟はそれに驚いて泣き出してしまいました。震える手で開けた戸の中には、茶器を入れる円盤状の入れ物があり、その上に子どもの私には読めない達筆な文字で書かれたお札が貼られていました。

 当時は空前の怪談ブームで、ゴールデンタイムに心霊番組が放送され、学校で毎週その感想を言い合うような時代でした。「お札が貼ってある部屋は幽霊が出る」という知識が恐怖を増幅し、私も従兄弟も大騒ぎして、宴会場にいる家族のもとへ脱兎のごとく駆け出しました。

 両親に慌ててそのことを話しましたが、相手は酔っ払った大人たちで、全く頼りになりません。「弱虫だなぁ」と皆に笑われましたが、従兄弟がわんわん泣いているのを見た親戚のおばさんが「何か変なことがあったのかもしれないね」と一緒に部屋に戻ってくれることになりました。

 私は安心すると同時に、少しだけ期待していました。テレビのリモコンが動かないとき、大人に渡すとあっけなく動作するような、「なんだ、なんともないじゃないか」と適当にあしらわれる状況を望んでいたのです。

 「あんなもの最初からなかった」と言ってくれれば、どれだけ安心できたか。なにせ、この後その部屋で寝なければならないのですから。

 部屋に戻ると、その期待はあっけなく裏切られました。先ほどの入れ物とお札はそのままそこにありました。親戚のおばさんも「なんねこれ……」と狼狽えていました。再度宴会場に戻り、今度は大人たちも私の話を信じて部屋へ向かいました。

 やはりそこにはお札がありました。酔っていても大人たちはざわつき始めました。そのとき、テレビとは反対側の、襖が取り払われた隣の部屋で「ゴトッ」と大きな音がしました。さすがに大人たちも眉をひそめ、酔いのせいか怖がる様子もなく「なんかおるとか!」と声を上げながら、向かいの部屋の戸棚を数人で一気に開けました。

「ああぁー!」

 全員が部屋の中央に後ずさり、信じられないという表情で目の前の光景を見つめました。呆気に取られたというより「目が離せなくなった」という表現がしっくりきます。驚きながらも全員が見つめる先、4か所開けられた戸棚の中と、布団を敷いたことで露わになった押入れの壁には、先ほどと同じお札が貼られていました。しかも一枚ではありません。札、札、札、まるで割れたガラスを補修するように、何枚も何枚もお札が貼り付けられていました。押入れだけでなく、開けた戸から見える壁の全てに、数枚のお札が不気味に並んでいました。

 大人たちは急いでロビーへ向かい、母親たちと私たち子どもは部屋に残され、震え続けることになりました。その空間には一切の音がなく、従兄弟も泣くというより、ただ怯えて不安そうにしているだけでした。静寂が、まるで部屋全体を飲み込むようでした。

 途方もない時間に感じましたが、実際にはそれほど時間は経っていなかったと思います。なのに、なぜか私は意識に反する行動を取ってしまいました。最初に発見した茶器の入れ物がひどく気になってしまったのです。草むらに捨てられた雑誌や自転車が気になり、近づいて覗いてしまうような好奇心が私を支配していました。

「なんしよっとね!」

 母親たちに止められたのを覚えていますが、私は一人でテレビ横の戸棚に近づき、茶器の入れ物をそっとどかしてしまいました。なぜそんな行動を取ったのか、今でも全く思い出せません。好奇心というより「後ろに何かある」という気持ちが頭を巡っていたように思います。

 そこからは、ある一点を除いて何も思い出せません。気がつくと、車の後部座席で寝ており、旅館の車庫で朝を迎えていました。親戚家族一同も一緒でした。

 大学生になった頃、帰省した際にそのことを聞いてみたことがあります。あの後、父親たちが従業員を呼び、倒れている私と狼狽する母親たちを発見したそうです。恥ずかしい話ですが、私は失禁し、体をピンと伸ばしてガタガタ震えていたそうです。

 父の話によると、旅館側は終始謝罪し、支払った代金よりもかなり多めの金額を返金してきたそうです。他の部屋を勧められたそうですが、「こんな状況で泊まれるか」と父が叱りつけ、車に戻ったとのことでした。荷物は従業員が運び出したそうですが、私のゲームボーイだけは戻ってきませんでした。

 時間も遅く、酒も飲んでいたため、旅館側が「絶対大丈夫な場所」として施設の送迎バスの車庫へ車ごと案内し、そこで一晩明かしたそうです。父によると、車庫には立派な神棚があり、車の備品と並ぶには不釣り合いなほど綺麗な区画があったそうです。そこで一度皆で手を合わせてから、車に戻ったと話していました。

 倒れた私は、運び出される頃には気を失っているだけで体は硬直していなかったそうで、下着だけ替えられてそのまま座席に寝かせられていました。

 それ以降の家族旅行では、必ず最初に宿を予約し、道中の観光地のお店や案内所で宿の評判をしっかり確認してから旅するようになりました。これは、フィールドワークを単独で行うようになった今でも欠かせない習慣です。

 だって、嫌ですよね。またお札だらけの宿に当たったら。大人になった今なら、お札だけなら我慢できるかもしれませんが、あれだけは絶対に無理です。

 茶器の入れ物をどかした後ろにあった

 のっぺりとした人の顔

 何の表情もない、真顔で目だけがこちらを見つめていたあの顔。あれはもう二度と見たくありません。今でも自宅や出先で視線を感じるとき、背後にあの顔があるのではないかとゾッとします。

 この話を読んでいる方で、同じような視線を感じたことがあるなら、多分あの顔の様なモノがそこにあります。だから、視線を感じても絶対に振り返って近づかないでください。よく見たりしないでください。

 あの顔は、一度目が合うと、目を閉じても瞼の裏の暗闇に浮かび上がってくるのです。

 あなたは、絶対に失敗しないでください。


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