紫陽花が囁く季節の終わりに
チャーハン@新作はぼちぼち
第1話
こんな季節になると、澪は決まって思考の沼に足を取られる。かつて勤めていた設計事務所を辞めてから、もう三度目の梅雨だった。自らの才能の限界を突きつけられ、逃げるようにして閉じた扉。以来、澪の世界は、この古びたアパートの一室に凝縮されたままだった。雨音は絶え間ない自己否定の囁きとなり、湿気はまとわりつく後悔のように重く肌に纏わりつく。
唯一の慰めは、窓辺に置いた小さなガラス瓶だった。中には、祖母の形見である青紫色の紫陽花の押し花が数枚、色褪せることなく息づいている。祖母は雨を愛し、とりわけ梅雨時の紫陽花に特別な想いを寄せていた。
「梅雨はね、世界が息を潜めて、本当に大切なものだけが姿を現す時なのよ。紫陽花はその案内人。土の記憶を吸い上げて、色を変えながら、私たちに見えないものを教えてくれる」
幼い澪には難解だったその言葉が、今は呪文のように心を捉えて離さない。
その日も、雨は明け方から執拗に降り続いていた。湿度は飽和し、壁の染みは昨日よりも濃くなっているように見える。澪はソファに沈み込み、ガラス瓶の中の紫陽花に視線を落とした。すると、ふと奇妙な感覚に襲われた。押し花の一片が、ほんの僅か、脈打ったように見えたのだ。瞬きをすると、それは気のせいだったかのように静止していた。だが、一度意識すると、ガラス瓶の周囲の空気が微かに震えているような、あるいは、瓶の中から極めて微弱な音が漏れ聞こえてくるような気がした。
耳を澄ます。雨音の向こう側、もっと深いところから響いてくるような、くぐもった音。それは次第に輪郭を帯び、複数の声が重なり合っているようにも、あるいは液体が粘性を持ちながら蠢く音のようにも感じられた。澪は知らず知らずのうちに、ガラス瓶に顔を近づけていた。黴と湿気と、そしてどこか土の匂いが混じり合ったような、濃密な空気が鼻腔を刺激する。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。部屋の風景が水彩絵の具のように滲み、溶け出し、次の瞬間には全く異なる情景が目の前に広がっていた。
そこは、薄暗い光の中に無数の紫陽花が咲き乱れる、見覚えのない庭だった。しかし、それは祖母の庭の紫陽花とは似ても似つかない。花々は異様なまでに大きく、その色彩は毒々しいほどに鮮やかで、まるで自ら発光しているかのようだ。青、紫、紅、白、そして見たこともないような緑や黒に近い紫陽花が、雨に濡れてぬめぬめと光っている。空気は濃密な水の匂いと、腐葉土が発酵するような甘く重い香りで満たされ、呼吸をするたびに肺がじっとりと湿るのを感じた。
足元はぬかるみ、一歩踏み出すごとに粘質の泥が靴に絡みつく。雨は相変わらず降り注いでいたが、それは地上から吸い上げられた水蒸気が再び凝縮して落ちてくるような、循環する閉じた世界を思わせた。そして、あの音。紫陽花の花弁一枚一枚が微かに震え、そこから無数の小さな声が発せられている。それは言葉にならない囁き、呻き、あるいは微かな歌声のようでもあった。
「おいで、おいで」
不意に、はっきりとした声が聞こえた。それは幼い少女の声のようでもあり、老婆のしゃがれた声のようでもあった。声の主は見えない。ただ、紫陽花の茂みの奥から、手招きするように声だけが響いてくる。
澪は、抗いがたい力に引かれるように、ぬかるむ地面をゆっくりと進んだ。紫陽花の巨大な花房が、まるで意思を持っているかのように道を譲り、あるいは行く手を遮る。花弁に触れると、ひんやりとした生々しい感触と共に、微かな痺れが指先を走った。
やがて、茂みの奥に小さな
「それこそが、梅雨の
再び声がした。今度はすぐ傍から、まるで墨色の紫陽花そのものが語りかけているかのようだ。
「私たちは、土に還った全ての記憶を吸い上げ、雨と共に再び地上に顕れる。喜びも、悲しみも、怒りも、忘れられた名もなき想いも、全て。梅雨は、世界が再生するための浄化の儀式。あなたも、その一部」
澪は言葉を失い、ただその墨色の紫陽花を見つめていた。花の中心の暗がりが、ゆっくりと広がっていくように見える。吸い込まれそうだ。恐怖よりも先に、奇妙な懐かしさと安堵感がこみ上げてくる。ここが、自分の還る場所なのではないか、という根拠のない確信。
「あなたは、何を失ったの? 何を
紫陽花の問いは、澪の心の最も柔らかな部分を的確に抉った。才能の枯渇、未来への不安、誰にも理解されない孤独。それらが一度に溢れ出しそうになるのを、澪は必死で堪えた。
「失ったものは、形を変えてここにある。懼れは、見ようとしなかったあなた自身の影」
墨色の紫陽花の花弁が、ゆっくりと一枚、また一枚と開いていく。その中心の暗がりから、祖母の穏やかな眼差しが見えたような気がした。いや、それは祖母であり、同時に見知らぬ誰かであり、そして自分自身の奥底に眠るもう一人の自分であるようでもあった。
どれほどの時間が経ったのだろう。気がつくと、澪は自室のソファの上で、額にじっとりとした汗をかいていた。窓の外の雨音は、先ほどよりも少し静かになっている。手には、あのガラス瓶を強く握りしめていた。瓶の中の押し花は、何も変わっていないように見える。しかし、部屋の空気は明らかに変わっていた。黴の匂いは薄れ、代わりに雨上がりの土のような、清浄な香りが微かに漂っている。壁の染みも、心なしか薄くなったように感じられた。
あの庭は、あの紫陽花は、一体何だったのだろう。夢か、幻か。しかし、肌に残る湿り気と、心の奥底に響くあの「聲」は、あまりにも生々しい。
澪は立ち上がり、窓を開けた。湿った空気が流れ込み、雨に洗われた街路樹の緑が目に鮮やかだ。雨はまだ止んではいないが、その音はもはや自己否定の囁きではなく、ただ淡々と世界を濡らす自然の営みに聞こえた。
失ったものは、形を変えてここにある。懼れは、見ようとしなかった自分自身の影。
あの言葉が、静かに胸の中で反芻される。事務所を辞めたのは、才能の枯渇だけが理由ではなかった。他者からの評価に怯え、傷つくことを恐れ、自ら表現することを放棄したのだ。その「影」から目を逸らし続けてきた。
ガラス瓶の中の紫陽花を、改めて見つめる。それはただの押し花ではなかった。土の記憶を吸い上げ、見えないものを教える案内人。祖母の言葉が、新たな意味を伴って蘇る。あの幻想的な庭は、梅雨という季節が作り出す、世界の深層だったのかもしれない。忘れられたもの、葬られたもの、そして再生を待つものが集う場所。そして自分もまた、その循環の一部なのだと。
翌日、澪は久しぶりにスケッチブックと鉛筆を取り出した。何を描くという当てもない。ただ、指が動くままに線を走らせた。それは、あの異様なまでに美しい紫陽花の記憶か、あるいは心の奥底から湧き上がる名付けようのない形か。
雨はまだ降り続いている。しかし、その音はもう澪を苛むことはなかった。それは創造のための静寂であり、新たな始まりを促す優しいリズムに変わっていた。壁の染みは、もはや腐蝕の象徴ではなく、これから描かれるべき未知の模様のように見えた。
梅雨が明ける頃、澪の部屋にはいくつかのスケッチが飾られていた。それらは具体的な形を持たない抽象的な線と色彩の集積だったが、そこには確かな生命力と、雨の季節を通り抜けた者だけが持つことのできる静かな強さが宿っているように見えた。黴の匂いは完全に消え、部屋には新しい紙とインクの匂いが満ちていた。
窓の外には、久しぶりの陽光が降り注いでいる。しかし澪は、次の梅雨の到来を、もう以前のように恐れてはいなかった。あの聲を、再び聞くために。
紫陽花が囁く季節の終わりに チャーハン@新作はぼちぼち @tya-hantabero
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