第5話 曖昧な記憶

「尚之介様」

優しく心地の良いその声が名を呼ぶ。

振り返ると、サラサラとした髪を揺らしながら微笑む青年がいた。

年の頃はまだ10代後半…のっぺらぼうの様に顔にモヤがかかっているのが、その風貌で、その人が愛くるしい人だと知っている。

「尚之介様、あの木の側に小さな芽吹を見つけたんです。まだ時折雪が降るというのに、健気に芽を出していたんです。お暇が出来たら、一緒に見に行きましょう」

そう言いながら手を伸ばしてくる。

「あぁ…そうだったな…一緒に見に行こうと約束していた…ずいぶん長いこと待たせてしまった」

申し訳ない気持ちで、伸ばされた手を握ろうと手を差し出した瞬間、彼の姿が蜃気楼の様に揺らぎ始める。

「だ、だめだ…行かないでくれ。私のそばにいてくれ…」

慌てて彼の手を必死に掴もうとするが、形を成していない彼の手を掴めずに、焦りだけが募り、空気を混ぜるかの様に自分の手が宙に舞う。

そうしている内に、彼の姿は次第に消え始めた。そして、消えた瞬間辺りが一瞬で暗くなる。

「どこだ!?どこにいる?」

姿が消えても必死に探す自分の目の前に、ぽっと小さな灯りがともり、その側で蹲り泣く彼の姿を見つけた。

慌てて駆け寄り、そっと抱きしめる。

「何故泣いてあるのだ?」

その問いに彼はゆっくりと顔を上げる。

「あなたが嘘つきだから…」

「え…?」

「僕だけを愛していると…僕のことだけを信じると言ったのに…あなたは僕を信じなかった…僕を…僕を見つけてくれなかった…」

「何を…何をいっているのだ?」

「僕はあなたが憎くてたまらない…だから、鬼になる事を選んだ。だって、そうすれば2度とあなたと交わる事はないから…僕は…僕はあなたを心底愛していたから…だから、あなたが憎い…例え倫理が回り来世があったとしても、あなたとは2度と出会いたくない…」

いつの間にか彼の涙は止まり、憎悪に満ちた気配を纏いながら、自分の方へと顔を向ける。

表情が読み取れなくても、自分へと向けられる憎悪と、深い悲しみが息も出来ないくらい胸を締め上げる。

苦しくてたまらないのに、彼を離したくなくて、もたれかかる様に必死に包んだ腕に力を入れる。

「ハ、ナ、セ…」

突然のカタコトにふと顔を上げると、彼の姿がみるみると変化した。

肌は薄黒く、髪は長く伸び、その合間から光る赤い目…そして、頭には鋭く伸びた2本の角…

その姿に言葉を無くし、ただ茫然と見つめていると、彼は口を大きくあけ…


「仁様っ!」

その声にはっと目を見開く。

そこには見慣れた天井と、側には伊勢崎の姿があった。

「仁様っ!あぁ…やっと目覚められた…」

安堵のため息と一緒に、伊勢崎が声を漏らす。

「い…伊勢崎…?」

「えぇ、私です。どこか痛い所はありませんか?」

伊勢崎の問いに力なく首を振り、ゆっくりと辺りを見回す。

「か、れは…」

「…弓弦様なら、申し付けの通り仁様のお部屋に繋いでます」

「私の部屋…?」

「えぇ。ここは客室です。仁様は噛まれた影響と…恐らく、一部とは言え記憶が一気に戻ったせいで高熱が出て寝込まれたのです」

「記憶…」

「今は無理してはいけません。弓弦様と出会ってしまわれたのです…いずれ、すべての記憶を取り戻すでしょう…とにかく今は熱を下げるのが先決です。だからこそ、弓弦様とは別の部屋へ仁様を移したのです」

「伊勢崎…」

「…詳しい事は、体調が戻り次第、お話します…仁様が意識を失われて、すでに3日経っているのです。今は自分を優先して下さい」

いつも冷静沈着な伊勢崎の強めの口調が、本当に自分の身を案じているのだと悟った仁は、小さく頷き、またゆっくりと目を閉じ、心の中で名をポツリと呼ぶ…。

「弓弦…」

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