第32話
「木村惠美子さんはその曲をずっと演奏したがっていたんだ。秋のコンサートでなんかじゃない。親友の君と、二人で」
音無はそう言って音楽室に置かれていたバイオリンを持ってくる。
こうなると見越して既に吹奏楽部に使用の許可は取っていた。
差し出されたバイオリンを見て香織は一瞬躊躇した。
バイオリンを目にするのはあの事故の日以来だ。
約束のことは香織だって覚えていた。
覚えていたからこそ、それが叶わぬものとなったことが辛かった。
バイオリンを演奏する気にはなれず、自宅の部屋の片隅に飾られたままになっている。
香織は音無からバイオリンを受け取った。
「惠美子がずっと待っている」そう思ったからだ。
耳に聞こえるエリーゼのためには、何かを待ち続けるようにずっと繰り返し演奏されている。
私を待っている。惠美子が……一緒に演奏するために。
受け取ったバイオリンを肩にかける。
一筋の涙が頬を伝い、バイオリンにこぼれ落ちた。
それから、観客が一人だけの二重奏が始まった。
音楽室の防音性に阻まれて、その音はほとんど外には漏れなかったが唯一聞いていた音無も涙を流すほどに素晴らしい演奏だったという。
♢
「以上が、私が在学中にあった出来事です」
電話の向こうで香織の啜り泣く声が聞こえた。
東堂はやや顔をしかめる。
そんな出来事があったとは全く知らなかったからだ。
それは五年前の出来事。当然東堂はまだ桐生東に入学してすらいない。
しかし、裏生徒会には代々受け継がれてきたノートがある。
歴代の裏生徒会長たちが後進のために書き記してきた調査記録だ。
裏生徒会長になった者はまずその記録を全て確認する義務がある。
調査記録に、すべての怪異が記されているわけではない。
記されるのは後の裏生徒会の人間が知っておいた方がいいものだけだ。
つまり、未解決で終わった怪異や一度改善はしたが後に再発する可能性のある怪異など。
自分たちがいなくなった後も裏生徒会のメンバーが困らないように怪異の概要や対処法が記入される。
東堂は説明を始める前の香織の態度が気になっていた。
こちらの話をすんなりと受け入れ、何か取り乱す素振りも見せずに納得していた。
説明を聞いてもその態度の理由は明かされていなかった。
音無という生徒は間違いなく裏生徒会の人間だろう。
彼女が在学時に裏生徒会と接触していたならば自分たちのことを言い当てたのはわかる。
だが、「昔一緒に演奏した親友が再び現れた」と聞いて取り乱さない理由にはならない。
まだ何かあるはずだ。
そう思った。
そして、香織がそれを知っているのは音無という裏生徒会の人間に忠告されたからだろう。
それなのに調査記録にはこの怪異に注いての情報は一切載っていない。
適当な仕事しやがって……。
苛立ちのせいか、無意識のうちに机の上に端を指で叩く。
その小さな連続音に反応したのは雪乃だけだった。
ビクッとした素振りを見せて、東堂の顔色を伺うように顔をのぞかせる。
それに気づいた東堂が平常心を保つように表情を和らげると雪乃は明らかにホッとした様子を見せた。
「香織さん、最初に優花ちゃんに『もっと早く話しておけばよかった』って言いましたよね? つまり、まだ続きがあるんですね?」
そう切り出したのは南野だった。
普段無口な彼に似合わず、流暢に質問する。
南野も東堂と同じ疑問を抱えていたらしい。
東堂に任せず自ら切り出したのは彼の多少の苛立ちを感じ取ったからだった。
電話口の向こうで香織が息を詰める。
それから深く息を吐きなおし、ゆっくりと説明を再開した。
「全てが終わった後、音無くんは私にこう言いました。『これで彼女の未練の片方は無くなった。しばらくは彼女もゆっくりと休めるだろう』って……」
その言葉はやけに確信を持った様子で告げられた。
香織は首を傾げ、質問した。
「惠美子のもう一つの未練ってなに?」
と。
だが、音無はただ微笑み
「それは僕たちには関係ないよ。僕たちが卒業した後……多分五年後にこの高校にいる生徒たちが解決するべき課題なんだ」
とはぐらかした。
香織はまだ気になっていたが、追求しても音無はそれ以上何も教えてくれなかった。
卒業し、大学生になる。
その大学も卒業して東京の会社に就職した今でもあの時のあの演奏を思い出すことある。
あれは夢だったのだろうか。
まだ精神的に幼かった自分が、悲しさを紛らわせるために見た幻だったのではないか。
時間が経つと現実味がなさすぎて曖昧になる。
ただ、ずっと音無の言った「五年後」という年数が気になっていた。
後になって気づいたのは「五年後」は妹の優花が高校生になる頃だった。
上京して一年。実家にいた時よりも妹のと話す頻度は減った。
それでも、たまに連絡をするとお互いの近況を話すほど仲がいい。
優花が自分と同じ桐生東を受けようとしていることは知っていた。
同時に過去の恵美子の言葉が記憶に甦るようになった。
「優花ちゃんは絶対いいピアニストになるよ。私が子供の頃よりも筋がいいもん」
家に遊びにくるたびに惠美子はそう言っていた。
自分と同じくらい恵美子にも懐いていた優花はバイオリンとピアノのどっちも弾けるようになったが、ピアノの方が好きそうだった。
惠美子のもう一つの未練……優花のことなの?
そんな気がしていたが優花には伝えられなかった。
確証が持てず、曖昧なまま伝える気にはなれなかった。
それでも、なんだか嫌な予感がして「やっぱり伝えてみよう」と思ったのが今日だった。
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