第31話
「ついてきて欲しいところがあるんだ」
音無は香織にそう言った。
その言葉に香織は戸惑う。
お互いに顔見知り程度の関係のはずだ。
クラスが同じになったことはないが、委員会で何度か顔を合わせたことがある。
でも直接話したことは数えるほどしかない。
その音無が一体自分に何の用だというのか。
頭に浮かんだのは「告白」の二文字だった。
放課後の教室。
神妙な面持ちの男子生徒が女子生徒に声をかけるシチュエーションとくれば誰もが思い浮かべるだろう。
しかし、香織はすぐに「あの音無くんが?」と自分の考えを否定した。
音無といえば密かに女子生徒からの人気が厚い生徒だ。
頭がよく成績優秀。スポーツ万能というほどでもないが、運動神経も悪くない。
顔立ちも整っている。幼さがやや残るが、そこも可愛いポイントだと友人が語っているのを聞いたことがある。
実際、「誰かが音無に告白した」系の噂話を何度か聞いたこともある。
その噂の後半に続くのは「音無はまた断ったらしい」だ。
結局、香織は音無についていくことに決めた。
特に断る理由は見つからなかったし、変に断るのも「何か勘違いをしている」と捉えられそうで嫌だった。
何よりずっと塞ぎ込んでいる自分に嫌気が差していて、気分転換になると思ったのだ。
教室を出て、音無は廊下をまっすぐに歩く。
スピードは彼独特の緩やかなスローペースだが、足取りに迷いはない。
「連れて行きたい明確な場所」があるらしい。
最初は見当もつかなかったが、次第に嫌な予感がしてくる。
音無の足は特別室棟に向かっていた。
やめて、やめてよ。
心の中で呟きながら、それでも目的地が判明するまで香織は彼の後に従った。
やがて音無の歩みが止まる。
香織はゆっくりと息を吸い、短く吐いた、呼吸を意識しないと忘れてしまいそうだった。
そこは、あの事故以来香織が意識的に来るのを拒んでいた教室だ。
楽譜を見るのも、親友に思いを馳せるのも仕方ない。
忘れようとしても忘れられるはずがないのだから。
でも……ここは……。
ここだけは来たくなかった。
香織が心の中で叫ぶ。
この場所には思い出が詰まり過ぎている。ここに来るだけで、あの楽しかった日々が鮮明に思い出される。そして、同時に辛くなる。
音無が立ち止まったのは音楽室の前だった。
「なんで……こんなこと……するの」
香織の声が音無に突き刺さる。
自分でも驚くほどに、声は震えていた。
その声の中に明確な怒気が含まれている。
あまり話したことはなくたって音無だって木村惠美子の事故のことは知っているはずだ。
自分と惠美子の仲が良かったこともきっと知っているだろう。
それなのに……ここに連れてくるなんて。
嫌がらせかと思った。それか、無神経なイタズラだ。
香織が傷つくと分かっていて連れてきたのなら相当にタチが悪い。
「私たちの思い出に無遠慮に入ってこないでよ!」
そう叫び出したい思いだった。
しかし、音無はひどく申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね……。でも、ここに連れてきたかったのは僕の意思じゃないんだ。『彼女の頼み』だったから……」
音無はそう言って音楽室の扉を開けた。
中に入る義理はない。
こんなことをされたら、そのまま後ろを振り返って走り出したっていいはずだ。
香織はそうしなかった。いや、できなかった。
「あ……」
扉が開いた途端に懐かしい感じがした。
匂いのせいか。音楽室の空気のせいか。
微かに音が聞こえる。ピアノの音。
優しくて、繊細で。時に力強く、正確にリズムを刻む音色だ。
その音に釣られるように香織の足は音楽室の中に向かっていった。
一体誰が弾いているのか。
こんな演奏を知る人は一人しか知らない。
そんなはずはないのだ。
その演奏を直接聴ける機会はもう完全に失われたはずなのだから。
でも……この曲は……。
「エリーゼのために」
香織の後ろで音無が呟いた。
彼にも音が聞こえている。香織の幻聴ではない。
「二人で弾くと決めてたんだよね。卒業式の前に」
ピアノの奏者を探す香織の背中に音無は声をかけた。
彼の目にはハッキリと映る鍵盤の前に座る女子生徒の姿は残念ながら香織には見えていないのだろう。
それでも、せめて音が聞こえて良かった。
音無はそう思った。
これで彼女の願いを叶えられる、と。
「彼女の心残りはコンクールに出られなかったことじゃない。君との約束を果たせなかったことだ」
音無の声に釣られるように香織の脳裏に蘇ったのはいつの日かの記憶だ。
「私たちって、ずっと一緒にいるのに合奏したことないよね」
恵美子が確かにそう言ったのを覚えている。
それに自分も相槌を打った。
「お互い自分の練習でいっぱいいっぱいだもんね」
コンクールに向けて熱心に取り組む姿勢は二人とも変わらない。
自分の弾く曲以外を練習する時間はなかった。
「ねぇ、卒業する前にさ。一回だけ一緒に演奏してみない?」
そう切り出したのは確か惠美子からだったはずだ。
香織もすぐにその考えに同調した。
一緒に弾くのはなんの曲がいいか、二人で話し合った。
出会うきっかけになった曲。
香織が一年生の頃、コンクールで弾いた曲だ。
「でも惠美子、秋のコンクールに出るんでしょ? 卒業式までにもう一曲覚えるの大変じゃない?」
受験やテスト、秋から冬にかけて学生が乗り越えなきゃいけない壁は山ほどある。
その壁を乗り越えつつ、曲も練習するなんて難しいんじゃないかと香織は思った。
「大丈夫! コンクールの曲もそれにするから。一年生の時に香織が金賞をとって、三年生のコンクールで私が金賞を取る。二人の金賞演奏家で盛大な卒業コンサートにしようよ!」
そう言って惠美子が笑う。
曲は「エリーゼのために」に決まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます