第28話
人よりも僅かにいい耳が旋律を捉えた。
聞き覚えのある曲。エリーゼのために。
悲しくも聞こえるピアノのメロディに雪乃は静かに耳を傾けた。
始まった……。
視線が隣の東堂に向く。
緊張した面持ち。聞こえていなくとも、彼も気付いている。
コンクールが始まったことに。
誰も一言も発しなかった。
ピンと張り詰めた空気が音楽室を包む。
雪乃は東堂と目が合った。
無言だが、彼の言葉が伝わる気がした。
「問題はないか?」
そう聞かれている気がしたのだ。
演奏の邪魔をしないように気をつけながら雪乃は頷いた。
変わったところはない。
いや、誰も座っていないピアノから音がする時点で変わってはいるのだがそれは裏生徒会が想定している範囲内なので問題はない。
想定外のことは今のところ起きていなかった。
雪乃の耳にピアノの音がはっきりと聞こえる。
澱みなくメロディーを奏でる。
葉山優花には今この音は届いているのだろうか。
視線を向けると優花の肩が僅かに震えていることに雪乃は気づいた。
そうだよね。怖くて当然だよ。
最初はそう思った。
幽霊の存在を信じる信じないの話ではない。
実際に一人でに鳴るピアノを目の前にしたら、それが仮に知っている人の幽霊だったとしても恐怖心を覚えるのは当たり前のことだと思った。
しかし、優花は怖くて肩を振るわせているのではないとすぐに気付いた。
泣いている。
演奏の邪魔をしないよう声を押し殺しながら涙を流している。
優花にはピアノの音がしっかりと届いていた。
今まで幽霊の声を聞いたことなんてない。
霊感なんてまるでない。不思議な現象に困らされたこともない。
それなのに、今この場においてだけは雪乃とほぼ同等のレベルでピアノの音を聴くことができていた。
酷く悲しい演奏だった。
いや、寂しいのか。
惠美子ちゃんの演奏じゃない。
木村惠美子の弾くピアノの音はもっと楽しい気持ちになるものだった。
子供の頃、嫌なことがあって泣いて帰るたびに惠美子は香織と共に音楽で慰めてくれたではないか。
あの二人の演奏を聴くと心が躍った。
嫌なことなんてすぐに忘れて笑顔が溢れた。
だから、優花は二人のことが大好きだったのだ。
しかし、今耳に届く演奏は酷く寂しい。
所々弱々しくなるピアノの音。
生前の惠美子だったらこんな弾き方はしないだろう。
でも、奏者は恵美子だと確信できる。
鍵盤を弾く軽やかな音色。乱れることのない主旋律。
演奏の端々に彼女らしさが確かにあった。
惠美子ちゃんの演奏じゃない。
そう思う反面で、聴けば聴くほど奏者は惠美子しか考えられなくなる。
だとしたら、なんでこんなに寂しい弾き方をするの。
優花は自分の記憶の中の恵美子の演奏と、今実際に聞いている演奏のギャップに涙を流した。
「あっ……」
声が漏れる。
優花ではない。思わずと言う感じに漏れ出た声は明らかに演奏を邪魔するノイズになってしまった。
優花は振り向く。
一体誰が声を出したのか、と。
声の主は雪乃だった。
同時に耳に馴染みのある音が鳴る。
ピアノのものではない。
電話の着信音だった。
全員の視線が優花に集まる。
正確には優花のポケットに、だ。
なんで……。スマホの電源を切り忘れていた? 演奏の前に電源を落とすのなんて常識なのに。
そんなことにも気付かないほど優花は緊張していた。
後悔してもスマホが鳴ってしまった事実は変えられない。
「危ない!」
雪乃が叫んだ。
その声と、七海が飛び出すのはほとんど同時だった。
優花には何が起こったのかハッキリとはわからない。
視界の端に何かが映った。
酷く不機嫌そうな女子生徒だ。
惠美子ちゃん……。
心の中でそう名前を呼んで優花は意識を手放した。
♢
目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。
酷く頭が重い気がする。
怠さと軽い吐き気。とにかく気分が悪い。
熱でもあるのかと自分の額に手を当てるが熱さは感じない。
むしろ随分と冷たい。
「よかった。目が覚めたね」
声がかかる。
優花は静かに視線を移した。
ベッドの横の椅子に七海が、その隣に雪乃が座っている。
声をかけたのは七海だ。雪乃は心配そうに優花の顔を覗き込んでいた。
「あの……何が?」
優花は訪ねた。
記憶が少し混乱している。
音楽室で恵美子の演奏を聴き、最中にスマホが鳴ってしまったのを覚えている。
だが、どうして自分が保健室にいるのかはわからなかった。
「優花ちゃん、突然悲鳴を上げて倒れたの。私の目には木村惠美子さんが何かをしたように見えた。雪乃ちゃんも……」
七海が雪乃を見やる。
雪乃は俯き、少し深呼吸をしてから顔を上げた。
「私には恵美子さんの訴えが微かに聞こえました。『どうして……どうして……』って。その訴えの矛先が葉山さんだったので、思わず叫んだんです」
雪乃は自分の耳が捉えた一部始終をできるだけ詳細に説明しようとした。
演奏の最中、雪乃は優花が泣いていることに気がついた。
しかし、他にも啜り泣くようなか細い声を聞いたのだ。
それがピアノを演奏している木村惠美子のものだと気付くのに少し時間がかかってしまった。
木村惠美子はピアノを弾きながら泣いていた。
そして、優花に対して何かをずっと訴えかけていた。
雪乃が思わず叫んだのは木村惠美子の感情が爆発するのを感じたからだ。
「どうしてよっ!」
鋭く、刃のように。
怒りの中に悲しみを孕んだ声が雪乃の耳にまだ残っていた。
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