第27話
一行は音楽室に入る。
金属製の重い扉を潜り抜けると、シンとした空気が張り詰めていた。
「出てきて……くれるでしょうか」
そう呟いたのは南野だった。
彼にも何か懸念があるらしい。
南野の後ろでその言葉を聞いていた雪乃にはそれが先頭に立つ東堂に向けられたものだとわかった。
「目撃情報は全部平日の放課後に偏ってるもんね。休日の午前中にコンクールを開いても惠美子さんは出てこないんじゃないか、ってこと?」
七海が捕捉する。
南野は返事をする代わりに頷いた。
「どうだろうな。調べた限りじゃ木村惠美子にとって『時間』はさほど重要じゃないはずだ。あまり人の目を気にせずに活動できるのは今日くらいしかなかった。もし今日ダメなら、腹を括って吹奏楽部から観客を補充するしかない」
東堂はそう言いながら椅子をできるだけ綺麗に並べた。
人数分の椅子がピアノを囲むようにして置かれる。
東堂はその中の一脚を少しだけ前に出し、ピアノに近づけた。
「あまり詳しくないんだが、これでいいか?」
質問の矛先は優花だった。
優花はおずおずとした態度で、明らかに緊張した様子だったがそれでも「いいと思います」と答えた。
「審査員席の配置はこれでいいか」という意味だったのだろう。
優花の返答に満足したのか東堂は全員に席に着くように促す。
ピアノに一番近い席に優花が。
その後ろに並べられた椅子に窓際から七海、雪乃、東堂、南野の順に座る。
いよいよ始まる。
雪乃は心の中で呟いた。
本物のコンクールを聴く時とは少し違う緊張感があった。
現れるのかどうか、これで合っているのか。
複雑な気持ちが入り乱れる。
純粋に曲を楽しもうという気持ちにはなれない。
だが、恐怖で身を縮こまらせているのとも違う。
緊張。正しく緊張だ。
どうか上手くいってほしい、と心の底から願っている。
「念の為に電気も消すぞ。それから……高松」
急に名前を呼ばれて雪乃は心臓が飛び出るかと思った。
身体をビクッと跳ねさせて、東堂の方に身体ごと向ける。
「落ち着け。お前には重要な役割を任せているが、失敗してもお前の責任になるわけじゃない。……それより」
「嫌な感じがしたらすぐに止めろ」と東堂は念を押すように言った。
「俺にはいるかどうかの判断しかできない。多少は嫌な予感も働くが、絶対じゃない。七海と蓮もそうだ。姿は見えても、変化を詳細に感じ取るのは難しい。この中で、木村惠美子の『思い』を一番感じ取れるのはお前だけなんだ」
東堂の真剣な眼差しから、彼が脅しているわけでもなくイタズラにプレッシャーをかけているわけでもないと雪乃にはわかった。
本当に大事なことだから、その結果雪乃にプレッシャーがかかろうとも言っておかなければならないのだ。
だから続く「俺たちの考えが違うと思ったらすぐに中止しろ」という言葉に雪乃は思慮深く頷いた。
優花はその会話を背中越しに聞いていた。
いつの間にか一人増えていたメンバー、高松雪乃は新しく入ったメンバーだと言う。
彼女が緊張しているのがよくわかった。
自分も同じように緊張している。
背中がやけに冷たい。
暑いわけでもないのに汗が僅かに滲み出る。
正直、いまだに実感は湧いていない。
あの日、音楽室でエリーゼのためにを聞いた時は間違いなくそれを木村惠美子だと思った。
姉と一番親しくしていて、自分にも優しかった憧れの存在。
だが、時間が経つに連れて本当にそうだったのだろうかと疑い始めている。
あれは夢だったんじゃないだろうか。
もしくは自分の妄想か。
いたたまれなくなり、思わず姉にメッセージを送ってしまったのは一昨日のことだ。
「惠美子ちゃんのこと覚えてる?」
送ってすぐに後悔した。
ようやく親友の死から立ち直った姉に送るべきではなかった、と。
香織からの返事はまだない。
それも気になる。
香織はいつも返事が遅い方だ。まだメッセージを見ていないだけならいいが、自分のせいでまた落ち込ませてしまっていたらどうしよう。
それに……。
それに、もし本当に惠美子ちゃんだったら。お姉ちゃんになんて言えばいいの。
「お姉ちゃんの亡くなった親友が今も音楽室で演奏をしている」なんて、あまりにも言いづらい。
信じてもらえるからわからないし、無神経な妹だと思われるかもしれない。
でも、黙っておくのも違う気がした。
姉には……。木村惠美子と最も近い関係だった香織には知る権利があるような気がしていた。
優花の肩に手が触れる。
温かい手だったが、突然のことだったので肩がビクッと反応する。
「ごめんね。驚かせちゃった? 少し震えてるみたいだったから」
七海だった。
いつの間に買ってきたのか肩を叩いたのは逆の手にペットボトルのお茶が握られている。
後ろを見ると東堂たちがそれぞれ飲み物を片手に気を休めている。
「優花ちゃんの様子がおかしいから少し時間をください」と七海が提案し、東堂が了承して作られた休憩時間だった。
緊張のあまり優花はそんなやり取りが後ろで行われていたことにすら気づかなかった。
「怖いよね。当たり前のことだよ」
目線の高さを合わせるように七海が腰をかがめる。
背中に触れている手が温かい。
なんだか安心するような温度だ。
自分の身体が震えていることにも優花は気づいていなかった。
七海の手が触れているところから震えがゆっくりと治るような気がした。
「怖いです。でも……お姉ちゃんの代わりに私が見届けないといけない気がするんです」
優花はそう言って、じっとピアノを見つめた。
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