第19話

その衝撃が再び戻ってきて、優花が惠美子のことを思い出すきっかけとなったのは数日前。

入学式から一週間が過ぎた頃だった。


その日、優花は音楽室を見学していた。

香織の影響で音楽に興味を持ち始めた優花は十歳の頃に本格的にバイオリンを始めた。


親友を亡くして塞ぎ込んでいる姉を元気づけたいと思ったのがきっかけである。

姉妹仲は今でも良い。


就職を機に上京した香織が、盆や正月に帰省した時にはたまに演奏を共にするくらいだ。


そんなわけで、入学してある程度生活に落ち着きを取り戻した頃合いに優花は音楽室を尋ねたのである。


できれば吹奏楽部が活動をしている日が良かった。

まだ絶対に入ろうと心に決めたわけではなかったが、少なくとも興味はある。


しかし生憎、音楽室の近くの廊下に貼られた吹奏楽部の活動日程の表には水曜日のところに女性らしい文字で大きく「休み」と書かれていた。


仕方ない。また、日を改めるか。


活動日を事前に確認しなかった自分が悪い。

明日の放課後にでもまた来よう。

優花がそう思った時だった。


ポロン……。


鍵盤を軽く叩く音が聞こえた。

ピアノの音……。


それだけで酷く懐かしいような気がした。


実際、惠美子が亡くなってからは無意識のうちにピアノの音を聞くのを避けていた節がある。


姉ほど仲が良かったわけではないが、恵美子は優花にとっても憧れの存在だった。

その惠美子が亡くなってから彼女を思い起こさせるピアノは見るのも聞くのも辛いものな気がした。


誰だろう。残って練習しているのかな?


吹奏楽部の部員が部活が休みの日にまで残って練習をしているのかと思った。


邪魔をしたら悪いかとも思ったが、部活の雰囲気を聞くチャンスでもある。


そーっと覗いて話しかけられる雰囲気ではなかったら退散しよう。


心の中でそう決めて優花は音楽室の扉に手をかける。


ハッとした。

音楽室の扉は冷たく、そして重厚感があった。


音を遮るための金属製。遮音性を高めるための扉だ。


音楽に携わっていたからこそわかる。

この扉ではピアノの音は外には漏れないだろう。


特に、鍵盤を一つ押しただけの単音は。


あのピアノの音は気のせいだったのか。


そう思って踵を返そうとした。

しかし、音は再び鳴り響く。


今度はしっかりとした曲だった。


「エリーゼのために……」


思わず呟いてしまう。

酷く懐かしく、そして酷く悲しい気持ちにさせる曲だ。


「次のコンクールはこの曲で出るんだ」


優花の脳裏にあの日の惠美子の言葉が思い起こされる。


家に遊びに来た惠美子がワクワクした様子で姉の香織にそう伝えるのを優花は同じ部屋で本を読みながら聞いていた。


その後、彼女が何度もその曲を練習していたのをしっかりと覚えている。


「恵美子ちゃん」


不思議とそう思って疑わなかった。

この音を覚えている。


この優しく、撫でるような音の出し方は正しく彼女だ。

軽やかで、それでいて力強くて。

私が憧れた演奏家だ。惠美子ちゃんだ。


頭では違うとわかっていても、そうとしか思えなかった。


扉を開ける勇気は出なかった。

扉を開けた先に吹奏楽部の生徒がいればそれで済む。


なんだ、勘違いか。


と受け流して、少し悲しい気持ちと懐かしい思い出を抱えながら家に帰れるだろう。


でも、そうではなかったら?


ピアノの前には誰もいなかったら?

いや、彼女がいたら?


そう思うと扉を開けることはできなかった。

幽霊なんて今まで見たことはない。非現実的だ。

でも、もしそれを間近に見てしまったのなら……。


怖いと思わずにはいられないだろう。

それが、あれだけ優しくしてくれて一緒に遊んでくれた憧れの人でも……。


そう思いたくはなかった。

惠美子との記憶は懐かしく、儚く、楽しいままのもので留めておきたかった。


結局、音楽室の扉を開けることはできず。

優花は廊下を走って逃げ出した。


「以上が、私の体験したお話です」


裏生徒会の面々の前で優花がそう言って一息ついた時、南野の淹れたお茶はすっかりと冷め切っていた。


微かな沈黙の時間が流れる。


喋りやすいようにという配慮かいつの間にか七海が優花の近くに椅子を近づけている。

南野は二人を見守りながら話しの邪魔をしないように静かにコーヒーを飲んでいた。

愛用の小型ゲーム機は鞄の中にしまってある。


東堂は優花の話を興味深そうに聞いていた。

言葉の一言一句を逃さぬように耳を傾けて、詳細に頭の中でイメージを作っている。


僅かな沈黙の後、口を開いたのは七海だった。


「それじゃあ、優花ちゃんはそのピアノの音が惠美子さんかどうか調べて欲しくてここに来たってこと?」


七海が彼女の背中をさすりながら訪ねる。

話の途中から、優花の言葉には短い嗚咽が混じるようになっていた。


話しながら件の木村惠美子のことを思い出してしまったらしい。


瞳から溢れそうになる涙を自前のハンカチで拭いながら優花は小さく首を振った。


「いえ、きっとあれは惠美子ちゃんで間違い無いんです。私が知りたいのは……どうしてまだ恵美子ちゃんがあそこでピアノを弾いているのか、です」


音楽室でピアノの音を聞いた日。

優花は自宅に帰ってすぐに部屋に閉じこもった。

様子を心配する母親をよそに、ベッドに顔を埋めて咽び泣く。


何が理由で泣いているのか分からなかった。

怖かったのか、それとも怖いと思ってしまったことを後悔したのか。もっと悲しい理由だったのか。


聞こえてきたピアノの音色はずっと耳に残っている。

その音を頭の中で繰り返し流しながら優花は泣き続けた。


涙が止まった頃、一つの疑問が湧いた。

それが「なぜ恵美子はピアノを弾き続けているのか」だ。


幽霊とかオカルトについて優花は詳しくない。

でも、大抵のホラー話に出てくる幽霊に「この世に何か未練を残している」という共通点があることくらいは知っている。


惠美子ちゃんの未練って何?


今度はそれしか考えられなくなった。

未練があるならその未練を取り除いてあげたい。


どうか安らかに眠らせてあげたい。

そう考えるようになったのだ。

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