第16話

東堂を先頭にして四人がたどり着いたのは特別室棟の二階だった。


階段を登って右に曲がり、さらに廊下を奥に進む。

他とは少し違う重厚感のある扉があり、防音性の高さを誇示している。


教室の名前が書かれたプレートを見るまでもなく、そこが「音楽室」だとわかる。


「よし、じゃあとりあえず待機だ。時間は恐らくそうないだろうから気は抜くなよ」


つくなり東堂がそう言った。

音楽室の前まで来たというのに一行は誰一人として中に入ろうとしない。


扉の前で立ち往生している。

何の説明もないまま着いて来た雪乃も彼らに合わせて廊下で立ち尽くすしかなかった。


「あの……」


何でここに来たんですか? 


雪乃が尋ねようとした時だった。

自分の声を遮るようにピアノの音が微かに響く。


雪乃は耳がいい。

しかし、絶対音感のような聞くだけで音階を当てられるような能力はない。


それでも、どこか聞き覚えのあるような音だった。


「エリーゼのために……」


確かそんなタイトルだった。

クラシック音楽に明るくない雪乃でも知っているほど有名な曲だ。


その音色の心地よさに雪乃は思わず呟いた。

その瞬間、東堂が目を見開く。


「聞こえたのか?」


真に迫るような表情で雪乃に近づく。

その圧は凄まじい。


雪乃は男性恐怖症ではないが、東堂のこの反応には大抵の女子は怯えるだろう。


今にも肩を掴まれそうなほどの勢いに雪乃はたじろいだ。

その間に東堂とは違うもう一人の男子生徒が割って入る。


「要先輩。落ち着いて」


短く一言。

それだけで東堂の表情がスンと元に戻る。


「悪い。あまりにも思い通りの展開になりすぎてテンパった」


東堂は雪乃の目を見て謝り、それから男子生徒に礼を言う。

雪乃も礼を言いかけたが、まだまともに話したことがないと気づき人見知りを発動する。


旧校舎の生徒自治室でお互いに簡単な挨拶を済ませただけだ。


男子生徒の名前は南野蓮。

雪乃と同じ一年生だった。


「さて、少し落ち着かなきゃな。高松、音はまだ聞こえてるのか?」


先ほどとは打って変わり、意識的に落ち着かせた声で東堂が問う。

雪乃は頷いたが、東堂が何故そんなことを聞くのか疑問だった。


音楽室の扉は確かにしっかりとしている。

金属製で音を外に漏らさないような造りだ。


教室の使用用途を考えるともしかすると壁も他の教室より厚いのかもしれない。

しかし、完全な防音というわけではない。


確かに音を遮る効果はあるのだろうが、中の音が全く聞こえないようにするのは難しいだろう。


ピアノの音だって微かに、しかしハッキリと雪乃の耳に届いている。


「明確に言っておくが、俺には何も聞こえない。お前らはどうだ?」


東堂の視線は七海と南野に向いている。

七海は首を横に振り、南野もそれに続く。


私だけ?


雪乃は困惑した。


耳の良さには自信がある。

二階の自分の部屋にいても一階の居間で春江が見る大河ドラマの音を拾ってしまうほど繊細な耳だ。


それなりに付き合いも長く、自分の耳の良さを自覚する程には慣れている。


音を聞いた時、雪乃にはほぼ無意識的に感じることがあった。

それはその音が自分の周りの人にも「聞こえている」かどうかだ。


例えば誰かが教室の隅でする身内ネタ的な雑談話。


声の大きさは人によって当然違う。

それなりの声量であれば「あ、これは多分皆にも聞こえているな」と思うし、逆に「これは私だけが拾っている音だ」とわかることもある。


その意識からすると、音楽室の中から聞こえるピアノの音は「皆にも聞こえるはずの音」だった。


それなのに、東堂達はその音が「聞こえない」という。


ざわり。

雪乃の心の中に波が立つ。


「お前の『聞く』力。思った通り俺たちに必要な能力だったな」


東堂が言った。表情はどこか誇らしい。

しかし雪乃はとても誇るような気持ちにはならなかった。


自分の耳が捉えているこの音は、もしかするとこの世の者が鳴らしているものではないかもしれない。


そう思うと途端に音が気味悪く聞こえる。

すぐにでもここから逃げ出したい気分だ。


東堂が時計を確認する。


「時間だ。今日はここまでだな。とりあえず、確認できただけでもよかった」


一体何が「時間だ」なのか、雪乃にはわからなかった。

わかったのは東堂がこれ以上何か行動を起こすつもりはないということだけだった。


それだけで多少はホッとする。

会ったばかりだが、雪乃の中に出来始めた彼のイメージ像ではこういう時すぐにでも音楽室に飛び込みそうな印象がある。


聞こえて来た音が人の物ではない可能性が高くなった今、中に入るのはごめんだった。


ふと、耳が静寂を取り戻す。

ピアノの音が止まったのだ。


首を傾げ、耳を凝らす。

やはり音は止んでいる。


「聞こえなくなったか?」


雪乃の様子を見て東堂が尋ねる。

その言葉に頷くと、東堂は「情報通りだな」と呟きまた時計を確認した。


情報通り?


雪乃は心の中で東堂の言葉をオウム返しする。

どんな情報なのだろう。

その情報とピアノの音にどんな関係があるのだろう。

そもそも、ここに何をしに来たんだろう。


疑問は複数湧くが、一人では答えを出せない。


「あの……一体何が起きてるんですか?」


初めは何故ここに連れてこられたのかだけが気になった。

でも今はその理由はわかる。


東堂は雪乃にあのピアノの音を聴かせるために連れて来たのだ。

でも、それはなんのために?


今は早く説明が欲しい。

東堂は少し考えて、それから雪乃にはゆっくりと視線を落とし


「……旧校舎に戻るぞ。場所を変えてちゃんと説明する」


と言った。


音楽室の中からはもう何の音もしない。

それなのに雪乃の頭の中には「エリーゼのために」が何度も繰り返し鳴り続けていた。

まるでいないはずの誰かが今もピアノを弾き続けているかのように。

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